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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第12話 あなたがどこにいても、あなたの仕事は消えない


商人が持ってきた噂は、もう噂と呼べないほどの重さだった。


「ヴァイスフェルト公爵領の水不足が深刻化しています。中央の大井戸も水量が半減し、領民の流出が始まりました。東部三村から合わせて百人以上が隣の領地に移ったそうです」


作業台の上で、浄化蘭の苗を移植する手が止まった。百人。東部三村の人口は合わせて三百人ほどだったはず。三分の一が去った。水がなければ暮らせない。当たり前のことだ。


「それと、王宮から査察団が派遣されるという話も出ています。公爵閣下の干ばつ説明に対して、『隣の領地では水が出ているのに、なぜヴァイスフェルト領だけが枯れるのか』という疑問が出たようで」


当然の疑問だ。干ばつなら周辺地域にも影響する。ヴァイスフェルト領だけが枯渇しているなら、原因は天候ではなく領地固有の問題。そして固有の問題とは、庭だ。


胃の底が重い。舌の付け根が苦い。あの感覚だ。ヴァイスフェルトで功績を奪われたときと同じ、怒りなのか悲しみなのか区別のつかない冷たさ。


でも、今回は違う。あの頃は自分の痛みだった。今は、知らない子供が桶を持って歩く姿が浮かぶ。その子供の顔は見たことがない。でも、確かに存在する。私の庭が守っていた水を飲んでいた子供たち。


「ありがとう。他に何か」


「いいえ、今日はそれだけです。お気をつけて」


商人が去った後、しばらく動けなかった。


◇◇◇


◇◇◇


戻るべきだろうか。


その考えが、ここ数日、頭の中を巡っている。夜、ベッドの中で。朝、土に触れながら。昼、エーリヒの横で作業しながら。いつも頭の隅にある。消えない。消そうとするほど、大きくなる。ルートヴィヒが去った後、夜になるたびに浮かんでくる。戻って、水脈を修復すれば、領民は救える。技術的には可能だ。深根樹の苗を持ち帰り、残った浄化蘭の種が土中に眠っていればそれを呼び起こし、三年あれば最低限の浄化サイクルは復旧できる。


でも。


戻るということは、あの家に帰るということだ。ヴィクトルの顔を見るということだ。「来てくれ」と頭を下げるヴィクトルの姿が想像できない。「戻ってこい」と命令するヴィクトルなら想像できる。そして、命令されて戻るのは、もう嫌だ。


あの家に私の権利はなかった。声を上げても聞かれず、仕事をしても見られず、十三年分の献身が「趣味」と呼ばれた場所に、なぜ戻らなければならない。


でも、領民に罪はない。水を失った子供に罪はない。桶を担いで半日歩く母親に罪はない。井戸が枯れたのは私のせいではない。庭を潰す決定をしたのは私ではない。でも、私に修復する力がある。力がある者には、責任があるのか。ないのか。


アルヴィンに聞いてみた。老庭師は少し考えて、こう言った。


「責任はございません。でも、奥様はきっと気にされる。気にされるのは責任があるからではなく、奥様がそういうお方だからです」


その通りだと思った。私は気にする。気にしないようにはできない。植物が枯れかけていたら手を伸ばしてしまうのと同じだ。それは責任ではなく、性分だ。


答えが出ない。でも、出さなければならない時期が近づいている。


◇◇◇


夕方、作業場の入り口にエーリヒが立っていた。


「聞いた」


主語がない。でも何を聞いたかはわかる。商人の話だろう。


「はい」


「戻ることを、考えている」


疑問形ではなかった。断定。私の顔を見れば分かる、ということか。


「考えています。でも、決めていません」


エーリヒは壁に背を預けたまま、しばらく黙っていた。沈黙が重い。この人の沈黙は、空っぽではない。言葉を探している沈黙だ。普段は言葉を見つけられずに諦めるのだが、今日は違った。


「あなたがどこにいても、あなたの仕事は消えない」


低い声だった。荒野の風に混じって、届いた。


「ここで育てた苗は、あなたがいなくなっても残る。ヴァイスフェルトで守った水脈の技術は、日誌に残っている。あなたの仕事は、あなたの居場所に縛られない」


顎が震えた。違う。これは寒さではない。


「だから、どこにいてもいい。ここにいても。向こうに行っても。あなたの判断が正しい」


この人が、こんなに長く喋るのを初めて聞いた。


涙が出た。


予想していなかった。泣くつもりはなかった。でも、「どこにいてもいい」という言葉が、十三年分の何かを決壊させた。ヴァイスフェルトでは「ここにいろ」と言われた。庭を守れ、と。それは命令だった。選択肢ではなかった。


「どこにいてもいい」は、初めて言われた言葉だ。私の意志で選んでいいと。どこにいても、私の仕事は消えないと。


涙が頬を伝って、顎から落ちた。拭わなかった。拭う余裕がなかった。十三年分。こんなにたくさんの涙が溜まっていたとは知らなかった。悲しみも安堵も怒りも、全部が一度に溢れてきた。


エーリヒは何もしなかった。近づかなかった。離れなかった。ただそこにいた。壁に背を預けて、窓の外の荒野を見ていた。泣いている私の隣で、何も言わず、何もせず、ただいた。


それだけで十分だった。


◇◇◇


泣き止んだのは、日が完全に沈んでからだった。


目が腫れている。鼻が詰まっている。格好悪い。三十三歳の元公爵夫人が、作業場で目を腫らして鼻をすすっている。笑えるくらい格好悪い。


「……すみません」


「謝ることは何もない」


エーリヒが水を差し出した。いつの間に汲んだのだろう。素焼きのカップに入った冷たい水。飲むと、喉の奥の詰まりが少しだけほどけた。


涙が止まった後も、しばらく動けなかった。腕が重い。背中が凝っている。十三年分の涙を流すと、身体がこれほど疲弊するのか。


水を飲み干して、深呼吸をした。荒野の夜風が頬に当たる。乾いている。でも冷たくない。


「明日、考えます。今日は、もう頭が動きません」


「……ああ」


エーリヒが踵を返しかけて、止まった。


「フローラ殿」


「はい」


「……おやすみ」


たった一言。でもこの人が「おやすみ」と言うのを、初めて聞いた。それだけのことが、枯れかけた胸の底に、水が一滴落ちたような気がした。

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