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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第11話 土を触るのが上手い、と母は言った


翌朝、ルートヴィヒを試験区画に連れ出した。


空は薄い灰色で、風はない。荒野の朝は静かだ。鳥の声すら聞こえない。昨日泣いた息子の顔は、一晩で少しだけ引き締まっていた。目の下に旅の疲れが残っているが、視線は真っ直ぐだ。


「ここが、試験区画です」


深根樹の幼苗。浄化蘭の株。月光草の群落。荒野に点在する緑を指して、一つひとつ説明する。この植物が何をしているか。根がどう張っているか。水脈とどう繋がっているか。ヴァイスフェルトの庭と、ここで始めた庭の共通点と違い。


ルートヴィヒは黙って聞いていた。時折頷き、時折眉を寄せ、一度だけ「もう一度お願いします」と言った。浄化蘭の水質浄化メカニズムの説明のところで。


「この蘭が根から水を吸い上げ、不純物を葉に送り、光合成の過程で分解する。浄化された水は根を通じて地下に戻される。一株で一日に約十リットル。ヴァイスフェルトの庭には三百株以上ありました」


「三百株で、一日三千リットル……」


「それが十三年間、一日も休まず稼働していました」


ルートヴィヒの手が膝の上で拳になった。三千リットル。毎日。十三年間。数字にすると、母が何をしていたかが否応なく見えてくる。


◇◇◇


午後、ルートヴィヒに土を触らせた。


「膝をついて。手袋を外して」


息子が素手で荒野の土を握る。砂質の、乾いた土。握ると指の間からさらさらと零れる。


「何を感じますか」


「……乾いている。冷たい」


「そうです。これが水のない土。では、こちらを」


試験区画の土を握らせる。見た目は似ているが、手触りが違う。僅かに湿り気がある。温度が高い。生きた微生物が土の中で活動している証拠だ。


「温かい。それに、さっきの土より重い」


「よく分かりましたね。あなた、土を触るのが上手い」


口をついて出た言葉に、自分で驚いた。褒めるつもりはなかったのに。でも事実だった。ルートヴィヒの手つきは、初めて土に触る人のそれではなかった。指の開き方、力の入れ方が自然だ。


「母上に似ている、と言われたことがあります」


アルヴィンだった。いつの間にか横に立っていた。


「お坊ちゃまが三つか四つの頃、奥様の庭で土をいじっていました。茶色い丸をいくつも描いて、『おかあさまのつち』と笑っていらした」


ルートヴィヒの表情が変わった。記憶が戻ってきたのだろう。覚えていないと思っていた何かが、アルヴィンの言葉で蘇った。


「……覚えて、います。うっすらと。ベンチがあって。虫が飛んでいて。土が温かかった」


壊れたベンチ。朽ちかけた脚を直そうと思って、直さないまま出て行ったベンチ。ルートヴィヒが最後にあのベンチに座ったのは、五歳のときだった。父に叱られて、庭に来なくなった。


喉の奥が詰まる。でも今日は泣かない。今日は教える日だ。


「植物魔法の基礎を教えます。あなたに魔力があるかどうかはわかりません。でも、知識は渡せます」


「はい」


土の上に座って、教え始めた。浄化蘭の見分け方。深根樹の根の伸ばし方。水脈の位置を推定する地泉苔の探し方。母が祖母から教わり、祖母が曾祖母から教わった技術を、今、息子に伝えている。


不思議な感覚だった。「過去を断ち切る」つもりでここに来た。ヴァイスフェルトのことは忘れて、新しい場所で一からやり直すつもりだった。でも、息子に教えるということは、過去を繋ぐということだ。断ち切るのではなく、手渡す。


◇◇◇


夕方、道に迷った。


二回目。


試験区画の南端を見に行こうとして、なぜか北に向かっていた。太陽の位置を確認したはずなのに。設計図を回しすぎたせいか、あるいは単に私の方向感覚が壊滅的なのか。おそらく後者だ。


「母上、そちらは崖です」


ルートヴィヒが後ろから声をかけた。見ると、確かに十歩先で地面が急激に落ちている。乾いた崖。落ちたら笑えない。


「ありがとうございます。その、昔からこうで」


「知っています。父上が」


言いかけて、ルートヴィヒが口をつぐんだ。父上が何と言ったのだろう。想像はつく。「あれは方向もわからない」くらいは言っただろう。


「父上が何と言ったかは、聞きたくないです」


「……すみません」


「謝らなくていいです。事実ですから。方向音痴は直りません。十三年経っても」


ルートヴィヒが笑った。小さく、控えめに。でも確かに。こちらを笑ったのではなく、何かほっとしたような笑い方だった。


◇◇◇


三日目の朝、ルートヴィヒが帰る日が来た。


馬に荷を積みながら、息子が言った。


「母上の庭を、僕が作ります」


その言葉を聞いたとき、何と言えばいいかわからなかった。胸が詰まる。嬉しいのだと思う。植物魔法なしで庭は作れない。水脈の浄化は技術と魔力の両方が必要だ。でも、知識があれば可能性はゼロではない。


「日誌をよく読んでください。全十三巻の中に、必要なことはすべて書いてあります。わからないことがあれば、手紙を」


「はい」


「それから、庭師のトビアスを頼りなさい。アルヴィンの弟子です。植物のことを一番よく知っています」


「はい」


「焦らないこと。庭は一日では作れません。十年かかると思ってください」


「十年……」


「十年です。長いと思うかもしれません。でも、庭というのはそういうものです。植物は人間の都合に合わせてくれない。根を張るのに必要な時間は、どんなに急いでも変わらない。私が八年かけて浄化システムを完成させました。あなたは魔力を使えないかもしれないから、もっとかかるかもしれない。でも、やめなければ、いつか。種は辛抱強いから」


ルートヴィヒが頷いた。目の光が強い。この目を、十七年間見たことがなかった。見ようとしなかったのは、私もだ。


「母上」


「何ですか」


「十三年間、ありがとうございました」


喉が詰まった。花の匂いが戻ってきた。浄化蘭の甘い香り。鼻の奥に、確かに。掌が温かくなっている。


「……行きなさい。馬が冷えます」


ルートヴィヒが馬に跨がった。荒野の道を行く息子の背中が、少しずつ小さくなっていく。見送りながら、ポケットの中の銀木犀の種に触れた。


あの子に種を渡せばよかっただろうか。いいえ、まだ早い。この種は、あの子が自分の庭を作ったときに渡そう。その日が来ることを、信じる。

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