第10話 母上が何をしていたか、教えてほしいのです
「母上」
その声を聞いたとき、私の中で何かが砕けた。
試験区画で深根樹の根に魔力を注いでいた手が止まる。注ぎかけの魔力が根の中で暴れて、幼苗の葉先が震えた。振り向く。荒野の向こうから、馬を引いた長身の青年が歩いてくる。逆光で顔は見えない。でも声でわかった。十七年間聞いてきた声。低くなって、少し掠れて、でも抑揚の癖は変わっていない。
ルートヴィヒ。
足が動かなかった。手のひらの魔力が乱れた。注ぎかけの力が散って、指先が痺れる。
「母上。お話がしたくて参りました」
近づいてくる。馬を繋いで、荒野の砂を踏みしめて、こちらに向かってくる。旅装が砂埃で汚れている。何日もかけて来たのだろう。ヴァイスフェルトからグリューネヴァルト領までは馬で七日。商人の情報を辿って、ここまで来たのか。
「領地を救ってほしい、とは言いません」
ルートヴィヒが目の前に立った。身長はもう私より高い。顎の線がヴィクトルに似ている。でも目は、私の父に似ている。気づいたことはなかった。離れてみて初めて見える相似がある。
「母上が何をしていたか、教えてほしいのです」
◇◇◇
作業場の中で、向かい合って座った。
アルヴィンが黙って薄荷茶を出してくれた。ルートヴィヒがカップを両手で包む。旅の疲れが滲んだ手。爪の間が汚れている。私と同じだ、と思って、すぐに打ち消した。私と同じなわけがない。この子は庭仕事などしたことがない。
「日誌を読みました」
息が止まった。
「母上の書斎の引き出しにあった日誌です。第一巻から第十三巻まで。目は通しました。全部」
全部。十三年分を。あの子が。
「正直、半分も理解できませんでした。浄化蘭の色素濃度とか、水脈の流量変動とか、専門用語ばかりで。でも、一つだけわかったんです。この日誌は母上がこの領地の水を守っていた記録だと」
手が震えた。テーブルの下で拳を握る。爪が掌に食い込む。
「それで、教えてほしいのです。あの庭は何だったのか。母上は十三年間、何をしていたのか。父上は教えてくれません。父上は知らないからです。知ろうとしないからです」
知ろうとしない。その言葉が、十三年分の重さで胸に落ちた。ヴィクトルは知ろうとしなかった。ルートヴィヒも、つい最近まで知ろうとしなかった。でもこの子は、今、ここにいる。知ろうとして、七日間馬を走らせて、ここまで来た。
「……少し、待ってください」
声が出ない。出そうとしているのに、喉の奥で言葉が引っかかる。
立ち上がって、作業場を出た。外の空気を吸いたかった。荒野の乾いた風が顔に当たる。深呼吸。二回。三回。
試験区画に目をやると、北端の一区画が枯れていた。
さっき、魔力の制御が乱れたとき。注ぎかけの魔力が暴走して、幼苗の根を焼いたのだ。三本植えた深根樹の苗のうち、一本が葉を垂れている。まだ死んではいないが、回復は難しい。
膝をついた。枯れかけの苗に手を伸ばす。冷たい葉先。昨日まで生きていた葉。
私は。
私は、あの庭を。
いいえ、あの家のすべてを。
何を言おうとしているのかわからない。言葉が散る。
◇◇◇
背後に気配を感じた。ルートヴィヒが追いかけてきたのかと思った。でも、歩き方が違う。重心が低く、靴音が静かだ。
エーリヒだった。
何も言わなかった。枯れかけた苗を一瞥して、そのまま作業小屋の裏手に回った。数分後、一輪車に新しい土を積んで戻ってきた。枯れた区画の横に土を下ろし、再び小屋に戻り、もう一杯運んでくる。
何も聞かない。何も言わない。ただ、土を運ぶ。
その背中を見ていたら、喉の奥の詰まりが少しだけ緩んだ。
◇◇◇
作業場に戻って、ルートヴィヒと向き合った。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「はい」
「なぜ庭を潰すのを止めなかったのですか。母上は庭が水源だと知っていたはずです」
知っていた。
知っていて、止めなかった。
その問いに答えるために、十三年分の言葉を探す。探して、見つからない。見つからないまま、口が動いた。
「知っていました。あの庭を潰したら、水脈の浄化が止まることは」
「なら」ルートヴィヒが言いかけて、止まった。
「止めたかった。でも、止める権利を、あの家で私は持っていなかった」
ルートヴィヒが黙った。
権利。妻としての権利。母としての権利。庭の管理者としての権利。十三年間、どの権利も与えられなかった。予算を削られ、「趣味」と呼ばれ、息子に「何もしていなかった」と言われ。その私が「庭を潰すな」と言って、誰が聞くだろう。
「庭を潰す決定はあなたの父上がなさったことです。私にはその決定を覆す権限がありませんでした。口頭で庭師のアルヴィンに伝え、家令のハンスに日誌を読むよう進言しましたが、庭が潰されるまでに情報は届きませんでした」
事実だけを並べた。感情を交えずに。でも声が震えていたかもしれない。後頭部が確実に痺れていた。
「……母上」
「何ですか」
「ごめんなさい」
ルートヴィヒの声が震えた。十七歳の青年が、小さな子供に戻ったような声で。
「母上が何もしていなかったと、僕は言いました。客人の前で。使用人の前で。何度も」
私は何も言えなかった。許すとも、許さないとも。怒っている。悲しい。嬉しい。全部同時に来る。息子を愛している。でも見下されたことを許せない。許せない。でもここに来てくれた。来てくれた。それだけで。それだけで、もう。言葉にならない。一つも。
窓の外を見た。エーリヒがまだ土を運んでいた。三杯目。黙々と、枯れた区画に新しい土を積んでいる。
ここには、やり直せる土がある。
枯れた苗は戻らない。でも、新しい土があれば、新しい芽は出る。
「……明日、庭の話をしましょう」
それだけ言うのが精一杯だった。もっと言いたいことがあった。十三年分の言葉が喉の奥に溜まっている。でも今日は出てこない。今日出てきたら、多分壊れる。明日。一晩かけて、言葉を探す。植物魔法師は、種が芽を出すのを待つことには慣れている。
ルートヴィヒは頷いた。目が赤かった。
エーリヒがいつの間にか作業場の入り口に立っていた。ルートヴィヒの客室を案内すると言って、静かに息子を連れ出してくれた。余計なことは何一つしない。ただ、必要なことだけを。
一人になった作業場で、椅子に座ったまま動けなかった。テーブルの上の薄荷茶が冷めていく。外では風の音がする。枯れた苗の区画に、エーリヒが積んだ新しい土が盛り上がっている。
あの土から、明日また芽を出す。私も、そうする。




