047 雨の中、斧を振るう
「怪我はどうだ?」
荷台から姿を現すなり、黒衣が訊ねてきた。私はホルダーに納めた手斧の持ち手を握りしめる。
「見てわからない? お前のせいで傷だらけだよ」
私は刺々しい口調で言う。怒りの余韻はまだ残っていた。
衣服を脱いで身体を調べれみれば、青あざや擦り傷がいくつもできていた。今も消毒液でジクジクと痛んでいる。額や腕、脚に包帯を巻いていた。
「少し熱くなりすぎた。悪かったよ」
そう言って黒衣は深く頭を下げる。それで、許すつもりはなかった。
「お前を殺せるくらい、私は強くなる。利用して、捨ててやるから」
「望むところだな。……だが、俺の言うことも間違いではなかっただろう?」
満足そうな黒衣に向かって私は手斧を構える。すると、飛び退くように黒衣は御者台を降り、荷台に向かって行った。
太陽はすでに沈み、プリムローズ侯爵領まで馬車を動かすこともできない。今日の昼以降はまともに移動できていなかった。
急がなければならないのに、私はいったい何をしていたのだろうか?
やるせなさのままに私は手斧を大きく振り下ろす。
悔しいが黒衣の言葉の中に、私の悩みへの答えは含まれていた。
『他人のことなんて考えるな』
『お前の人生の主役はお前自身』
好きなら好きだと伝えてみればいい、ダメならダメで構わない。
相手への迷惑を省みない、黒衣らしいスタンスだ。確か、■■■■■の記憶の中にも似たような言葉があった気がする。
来るもの拒まず去るもの追わず、だっただろうか。私にピッタリの言葉だ。
もう■■■■■に拘りはない。その記憶も知識さえも、失われるならばそれで構わないのだから。気持ちを伝えるときも、同じ心構えでいればいい。
相手の感情が覗けるからと、私は気をまわし過ぎていたのかもしれない。黒衣くらい鈍感に振る舞っても許されるのだろうか。
そう考えれば、少しだけスッキリした。
お父様やお母様からは拒絶されるかもしれない。それでも、セレナは当然として、クラウディア様やハンナ様は受け入れくれる。アデリナ様だってきっとそうだ。私は一人ぼっちにはならない。
素直な『私』で接しても大丈夫なはずなんだ。
まぶたを閉じ、ゆっくりと手斧を振り下ろしていく。
二回……三回……四回……。
不安がなくなるわけではない。それでも、少しだけ前向きになれた気がするのだ。私は大きく息を吐き出していた。
「ありがとう。……でも、お前なんか大嫌いだ」
黒衣に届かぬように小さな声で私はつぶやき、荷台へ振り返る。突拍子もないメロディの歌を黒衣は口ずさんでいた。
「……本当に、最悪の天気ね」
「おい! 何か、言ったか!」
冷たい雨に打たれながら私はつぶやく。激しい雨音に声はほとんど掻き消されている。夜明け前から降り出した雨は止みそうになかった。
ぬかるんだ山道を馬車は進んでいくが、ガタガタと揺れて落ち着きがない。手綱を握った私の手の上から黒衣の手が重ねられていた。お互いを支え合うように身体をピタリと寄せている。
不本意だと言っていられる状況ではなかった。
霧が立ち込めて視界は悪く、雨音で音も聞こえにくい。奇襲をかけるには好条件が揃っている。事実、すでに三回の戦闘をくぐり抜けていた。
黒衣が強いと言えど、もはや一人で対処できる限界は超えている。だから、私も闘わざるを得なかった。
拙い風魔法と一本の手斧、そして精霊憑きの力。この三つが私に与えられた武器だった。認めたくはないが、手斧を扱えなければ――私は死んでいた。
一番努力を重ねてきた風魔法が一番役に立たなかったのだ。
手斧で牽制し、精霊憑きの力で敵を支配する。そして、同士討ちで混乱する中を抜き、手斧で奇襲をかける。いつか憧れた騎士とは違う、泥臭い闘いを続けていた。……認めたくはないが、何人かの命を私自身の手で奪ってしまっていた。同じ人間の肌を傷つけた感触は想い出したくない。胸を直接握りしめられるような、恐怖と不安が全身を支配して生きた心地がしなかった。
私と黒衣の身体は血と汗で汚れている。激しい雨でも全てを洗い流すことはできていなかった。
プリムローズ侯爵領とセブラ子爵領を別つ山脈を抜ければ、もう襲撃者に怯える必要はない。もう少しだけ頑張ればいいのに……その後少しが遠い。
奇襲、奇襲、奇襲の連続。私と黒衣の行軍は遅々として進んでいなかった。
「ちっ、またかよ! 任せたぞ!」
舌打ちまじりに黒衣は叫び、走る馬車から飛び降りていく。私は力一杯に手綱を引き――想い切り背中を仰け反らせてしまう。慌てて振り下ろされまいと御者台のふちに手を掛ける。
嫌な予感が全身を駆け巡る。手綱は何か鋭いもので断ち切られていた。制御を失った馬車に停まる気配はない。私は黒衣を完全に置き去りにしてしまった。
心臓がバクバクとうるさい。暴走する馬車に座ったまま、私は手斧をホルダーから引き抜いた。
黒衣を数の暴力で制圧するための策で私は捨て置かれた、そう能天気には考えられない。私を見逃すとは想えなかったのだ。
私がもし敵だったら、私を見逃したりはしない。私にも追手を差し向ける――。
咄嗟に身体を横に動かし、御者台に倒れ込む。私の座っていた場所に誰かが通り抜けていく。そして、荷台に乗り込まれる。
慌てて私は身体を起こす。右手に手斧を構え、左手で魔法陣を描き始める。瞳にも魔力を注ぎ込んでいく。今の私にできる全力だった。
「退屈な仕事だと想っていたのですが……少しは、愉しませてくれそうですね。ええ、本当に安心しましたよ」
そう言ってひょろりとした長身の男が姿を現す。長い舌でナイフの刃先を舐める姿は、獰猛な蛇を想わせる。
病的に痩せこけた頬に反し、蛇男の手足は筋肉質だった。暴走する馬車の上でたじろぐ様子はない。嘲るような眼差しで私を見下ろしていた。
命乞いは……無駄なのだろう。するつもりは、最初からないけれど。
今、蛇男は完全に私の背中をとっている。半身で振り返った状態のまま、私に勝機があるとは想えなかった。
私は魔法陣に魔力を流し込み、風の刃を放つ。その対象は、蛇男ではなく馬車馬だ。馬のお尻から血が噴き出した瞬間、私は横っ飛びで御者台を離れる。地面に叩きつけられた衝撃で、身体全身が熱を持っていく。擦り切れた肌がジクジクと痛いが、覚悟していたことだ。涙をサッと拭い、私は真正面を睨みつける。
ひゅるりひゅるりと細長い身体を左右に揺らして蛇男が立ち上がる。やはり、私と一緒に馬車から飛び降りていた。
手斧を両手で強く握りしめる。瞳をぐるりと動かし周囲を探るが、蛇男以外は誰も姿を現さない。激しい雨に濡れてへばりつく髪が気持ち悪かった。
「貴方を追ったのは私だけですよ。ええ、足手まといはいらないのでね」
山道は大雨でぬかるんでいる。蛇男は大股で近づき、侮蔑的に笑う。だから、私は満面の笑顔で答えて見せる。
敵はたったの一人、それは嬉しい誤算だった。私の瞳は蛇男を捉えている。
「私に従いなさ――」
「――通用すると? ええ、愚かですね」
私が命じるより早く蛇男が何かを投げつける。咄嗟に身体を反らすが、躱すことはできなかった。左肩にはナイフが突き刺さっていた。
痛みのあまり膝から崩れ落ちそうになる。私は慌てて歯を食いしばった。
嘲るような笑みと供に、蛇男はゆっくりと近づいて来る。距離は五メートルもないだろうか。隠し持っていたナイフを右手で弄んでいた。
私は手斧を両手で強く持つ。そして、もう一度瞳に魔力を集めていく。
蛇男の視線は私の右脚に向いている。その色から興奮ぶりはよくわかった。
痛みと寒さで左手に力が上手くはいらない。だから、長期戦は不利、一撃で倒すしかない。
小さく息を吐き出し、私は蛇男を睨みつける。右脚に斬りかかってきたところを返り討ちにする、それが私の狙いだった。
自然と手斧を握る両手に力がこもっていく。心臓の鼓動も早くなっていた。
一歩……二歩……三歩……。
蛇男は嬲るような足どりで進む。決死の覚悟の私を馬鹿にしているのだろうか。それとも、私が緊張で苦しむ様を愉しんでいるのだろうか。考えるまでもないか、どちらもが正解――。
左下から右上に向かって手斧を振り抜く。肉に食い込む嫌な感触が伝わってくるが、そんなの無視だ。
前に向かって一歩踏み込み、今度は上から下に向かって力一杯に振り下ろす。躊躇なんてしない。今の私にできる全力を、全体重をかけて繰り出す。
右肩が燃えるように暑くて痛いが、気にかける余裕なんてない。
蛇男の胸元に刺さった手斧が動かない――気づいた瞬間、私は両手を離して想い切り身体をぶつけにいく。私の右肩からナイフが引き抜かれ、血の雨が降り注ぐが知ったことではない。右肩で突撃していた。
私の瞳は魔力を蓄えたままだった。
「――死ね、小娘!」
「――私に、従え!」
視線の交錯は一瞬、それでも十分だった。
私の両膝から力が抜けていく。蛇男へ寄りかかるように身体が倒れていった。崩れ落ちた拍子に、背中から刺されたナイフが抜けていた。
赤く染まった視界で何も見えない。もう雨音も聞こえてはいなかった。それでも、何をすべきかだけはわかっていた。
「……黒衣を、守りなさい」
擦れた声で望みを口にする。蛇男が「ええ、わかりました」と同意していることは、身体の動きでわかった。
その数秒後、蛇男が動き出す。私は雨で薄まった血だまりの中に沈んでいった。




