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第2章 同族和解と人間不可解

 ──1965年11月2日 20時半

 

 廃墟は変わらず、陰鬱な空気をまとっていた。

 空は黒く、枯れ木は不気味にミシミシと鳴き声を上げる。頼りになるのは心許ない小さな懐中電灯だけ。それも雨傘のせいで足元しか照らせない。

 時折雨水が反射してキラリと光る。


 「う、う......!」

 「ウィリー?」


 噂の廃墟を正面にして、隣にいるウィリアムの顔色は真っ青だった。私の腕にしがみつき、立っているのもやっと。元来弱気で臆病な性格なのだろう。危機管理能力が高いことはいいのだが、少し苦しい。


 「ウィリー、動けるか」

 「も、問題ない!僕は勇気ある男だからな!!!」


 その割には及び腰だが。

 相槌を打って玄関まで促すと、2段ある木製の階段がギシ、と音を立てた。それにすら彼は大きく肩を揺らし、慌てて周囲を見渡す。


 「な、なんだ今の音は!!!」

 「ただの軋みだよ」

 「何でそんな落ち着いてんだブレン!!!」

 「慣れてるからかな」


 キーキー叫ぶ彼を促して、扉を開けさせる。

 ギィィ、と重い音がして、玄関扉が開く。もう今日は何度目だろうか。彼女が怒ってなければいいが。

 

 「う、かび臭い......」


 泣き声が混ざったようなウィリアムの声。なるほど、ここはかび臭いのか。嗅ぎたい匂いではないな。周囲を簡単に見渡せば、私が割ったランプがそのまま放置してある。


 ──パタン。


 後手に音が鳴らないようにゆっくり扉を閉めた。気づかれると都合が悪い。傘立てに閉じた黒傘を元通り差す。

 その間にも、壊れたランプの硝子を踏んだ彼は全身を跳ねさせて驚き、すぐに悪態をついた。忙しい子だ。


 「ほ、本当に、ブギーマンなんて、いない、よな?」


 彼のライトが縦横無尽に動く。崩れた階段、白いクモの巣、雨漏りの酷い窓。次々と照らしていく。彼は頭上の汚れたシャンデリアを照らした。

 彼は前方に集中していて、私を全く警戒していない。


 「な、なんだ!なんか早いのが通った!!!なんだあれ!!!」


 騒がしいウィリアムは及び腰。大股で、いつでも逃げられるように重心が後ろに依存している。足音を立てないように、ゆっくり、ゆっくり彼に近づいていく。

 彼は何も知らないまま、無防備に私に背中をさらしている。

 だから。


 彼の股間を遠慮なく蹴り上げた。


 ゴッッッ!!!!!!


 と鈍い音が鳴る。嫌な暖かさと共に、彼が声なき絶叫を上げ、股間を押さえて蹲る。


 「ッ゙、ッ゙!?、ッ゙!!!???」


 振り返り、パニックに陥った彼の瞳は困惑でいっぱいだった。蹲ったままでは都合が悪い。尻を蹴り無理やり前に倒す。

 床に倒れ込んだ彼の肩甲骨の間を踵で踏み抜けば、ガハ、と口から空気の抜ける音がした。そのまま全体重をかけて動けないよう固定する。

 カラカラと音を立て、懐中電灯が床に落ち正面の大きな扉を照らし出す。


 「クロックミティーヌ」


 館全体に聞こえるよう、声を上げる。


 「先ほどは無礼をして申し訳なかった。これは君への手土産だ。17歳の優良男児だよ」


 は、は、とウィリアムの乱れた浅い呼吸音が響く。

 静寂に包まれた廃墟。しかし、無数の獣じみた目線は感じる。クロックミティーヌは確実に私をみている。


 「君の家を荒らした上、家族を燃やしてすまなかった。これで許しては貰えないだろうか」

 「な、何、何言ってんだよ、ブレン......!!!」

 「黙れ、ウィリアム。お前は献上品なんだ、この城の女王様へのね」


 ギィィ、と音がした。

 二人で前方を見れば、玄関ホールの正面にある大きな扉がゆっくり開くところだった。

 懐中電灯の光が闇を照らす。その奥で、無数の小さな脚がカサカサと動く影が見えた。

 

 闇の隙間から、何百という赤い目が、ギラリ、光る。


 「な、なん、だ、あれ」


 ウィリアムの身体が、小刻みに震えていた。無数の殺意が籠もった視線に、肌がヒリつくような緊張を覚える。

 次の瞬間には、扉の奥からぶわりと大きな波が押し寄せた。いや、波ではない。


 あれは、茶色い蜘蛛の大群だ。


 「わ、やだ、やだやだ!!!やだ!!!」


 高速で走ってくる彼らを見て、ウィリアムは身体をバタつかせる。蜘蛛たちが怪我する可能性があり、危ない。もう一度踵から勢いよく踏み抜けば、抵抗が弱まる。

 私を見上げた目は恐怖で引きつり、絶望を宿していた。


 「ブ、ブレン、なんで、たすけ──」

 「ブレン?」


 オリーブの瞳に映った私の顔は、何の色も宿していなかった。


 「誰だそれは」

 「えっ」


 瞬間、茶色の蜘蛛がウィリアムに襲いかかる。何百匹もの蜘蛛が彼の体中をカサカサと音を立てて這い回る。


 「わああ!!!やめて、やめろ!!!いやだ!!!」


 素肌に噛みつき、毒が打ち込まれ、悲鳴を上げながらもウィリアムは抵抗する。何十という蜘蛛を潰し、その手を体液で汚していくが蜘蛛たちは決して諦めない。


 (......私を避けているな)


 先程のランプでの反撃を覚えているのだろうか。

 私の靴やズボンの周りは不自然な空間ができ、一匹たりとも寄ってこようとしない。見たところ普通の蜘蛛にも見えるが怪異と関わったせいで、知能でも発達したのだろうか。

 不思議なものだ。


 「あ゛......ア゛......」


 数十分そのままでいたが、ようやくウィリアムの動きが鈍くなっていく。

 この種類の蜘蛛は確か、ドクイトグモという名前だったはずだ。神経毒のかわりに、壊死性の毒が強い。だからこそ、行動不能になるまで時間がかかる。


 (人を殺すとなれば、それこそ集団戦か。しかし毒が弱すぎて効率が悪い)

 

 これでは、毎回被害が大きいだろう。

 私の時のように逃げられる可能性だって当然ある。特に真正面からの襲撃はインパクトはあるが、獲物の逃亡を許してしまう。

 

 「む、邪魔か」


 蜘蛛たちが白い糸でぐるぐると彼の体を巻き始めたので、足をどけてやる。少し遠巻きに見ていれば、あっという間に白い繭が完成し、えっほえっほ!と蜘蛛たちが嬉しそうに正面扉の奥へと引っ張っていく。


 「クロックミティーヌ」

 「......何しにきたのかしら?」


 見れば、蜘蛛たちが向かおうとしているその先。

 扉の奥から彼女が訝しげな目で覗いていた。当然だろう、先程私は蜘蛛たちに火をつけ逃げ出したのだから。


 「言った通り、君への手土産だ。先ほどはすまなかった」

 「ふん、同族を裏切る奴なんて信用しないわ!」


 ピタ、と蜘蛛たちが止まる。

 女王の発言を聞いて、先程まで意気揚々と運んでいた蜘蛛たちがおろおろとしだした。受け取ってしまえば、それは私を信頼したことになる。それは女王の本意ではないのだろうかと、判断に迷っているようだ。

 実に賢い群れだ。


 「同族か」

 「そうよ、人間は人間を大事にするわ。それが生きる術だもの!それくらい私も分かってる。でも貴方はそうじゃない、同族を裏切るなんてロクデナシよ!恥を知りなさい!!!」

 「ああ、それなら問題ない。私は君と同じ怪異だからね」

 「え?嘘おっしゃい、どう見たって人間じゃないの!」


 身を乗り出して声を荒げる彼女を見て、ようやく思い出した。そうだ、この家に来てからずっとこの死体を着ていたんだった。

 ということは、彼女は私の怪異としての姿を見たことがないのだ。


 「これは申し訳ない、クロックミティーヌ。すっかり配慮が欠けていたようだ」

 「なによ、今さら配慮なんて......!」


 死体の足元に出来た影を広げ、床から這い上がる。

 

 「えっな、何?!」


 地上の床に足がつけば、慣れた高い視界が戻ってきた。

 久方ぶりの嗅覚を穿つのは、湿気を含んだ木材とカビの匂い。廃墟には似つかわしいが、ウィリアムの言っていた通りひどい匂いだ。


 「おっと、危ない」


 私が抜けた死体は自立できない。服の首元を引っ掴み、ギリギリで立たせる。危なかった。そのまま倒れていたら、思い切り頭をぶつけていただろう。


 「あ、あんた、あんた誰よ!!!」


 せっかく身を乗り出していたのに、また引っ込み、赤い目を爛々と輝かせキャアキャア威嚇してくるクロックミティーヌ。そしておろおろしている部下の蜘蛛たち。

 こちらから近づくのは悪手かもしれない。


 「トルバラン、という」

 「と、トルバラン?」

 「ああ、ブギーマンだ。君と同族になる」


 死体を自身の肩に担ぎながら、彼女に名乗る。彼女は暫く怖がっていたが、次第に興味深そうにじっと私を見つめるようになった。

 目線を合わせるために、跪く。


 「同族......ほんとに?私と?」

 「そうだ、クロックミティーヌ」

 「く、蜘蛛っぽくないわ」

 「私の出自は猫由来だからね。ブギーマンは色々いるのだよ」


 影に隠れていた二股の黒い尻尾を見えるように振ると、彼女の目がそれを追う。ゆっくり、ゆっくり。彼女が近づく。

 近くまでくれば彼女の姿が明らかになった。


 「ほんとに、ブギーマン?ほんとに?」

 

 可愛いらしい白黒のロリータドレスに、ハニーブラウンの長い三つ編み。黒の影の中に赤い目がついている。

 腰につけた真鍮の蜘蛛飾りがキラリと光った。


 「間違いなくブギーマンだよ」

 「尻尾、本物?」

 「ああ触るか」

 「......私のこと食べない?」

 「同族食いは禁忌だ、しない」


 触りやすいように少し尻尾を差し出してみる。

 恐る恐る、と言った様子で袖あまりの腕で彼女はそれに触れた。


 「.......どうして、尻尾が二つに分かれてるのかしら」

 「人間の想像の結果だ、生まれたときからこうだった」

 「あら、そう......ブギーマンって沢山いるのね」

 「ああ。時間に煩い人狼とかな」

 「なによそれ、変なの」


 初めて彼女がクス、と笑う。

 それを見て安心したのか、視界の端で蜘蛛たちがウィリアムの地下連行を再開する。扉の奥に消えていく白い繭を考えるに、あの先は食糧庫か彼女自身の本拠地かのどちらかだろう。


 「クロックミティーヌ」

 「何かしら」

 「私は君を傷つけたい訳では無い。改めて、先ほどの無礼を詫びる。すまなかった」


 彼女は少しだけ眉を寄せて考えていたが、その手は私の尻尾を撫でるのをやめていない。暫く沈黙が落ちた後、軽いため息が彼女から漏れた。


 「仕方ないわね、許してあげるわ」

 「ありがとう。私は暫く町に用があるのだ。ここを拠点とさせて欲しい。勿論蜘蛛たちにはできる限り配慮する」

 「......むぅ、そうね、もう燃やしたり、扉を蹴らないなら良いわよ」

 「やはり見ていたか」

 「蜘蛛たちから報告を貰ったのよ、クローゼットからよくわかんないのが飛び出して来たって、大慌てだったわ」

 「ああ、あれは事故だ。転移がうまくいかなくてな」

 「転移?何かしらそれ」

 「なんだと?」

 「え?」


 驚いて彼女を見ると、本気でわからないようで首を傾げていた。子供が怖がる闇への移動をせず、どうやって狩りをしていたのか。まさか、この家に来る子供だけで賄っていたのか。


 「......クロックミティーヌ、私以外にブギーマンと会ったことは?」

 「無いわ、貴方が初めてよ」

 

 ブギーマンにとっての常識である転移すら知らないなら、相当世間知らずだろう。

 壊れた城に引きこもった、清廉潔白な蜘蛛のお姫様か。

 

 「君さえよければ、いつかブギーマンの集落に招待しよう」

 「集落なんてあるの?不思議だわ」


 孤独であることは、怪異にとって珍しくはない。

 生きるも死ぬも自己責任。かわりに全てが自由だ。

 ただ何も知らない赤子同然の同族を、やすやすと見殺しにするのは我が王の美徳に反するだろう。


 (以前、倫理観について王から長く説教を頂いたから、反省アピールでもしてみるか。そうすれば少しは呼び出される回数も減るだろう)


 「どうしたのかしら、黙ってしまって」

 「ああ、何でもない。気にするな」

 「あらそう、これはまだ触っていていいかしら」

 「......よほど気に入ったのだな」


 毛が逆立つので、やめてほしいのだが。

 差し出した手前、機嫌を損ねるのも面倒だ。放置しておこう。さて拠点の問題は解決した。

 

 今日はもう腹がいっぱいだ。少し、休みたい。


 ──1965年11月9日 昼頃

 

 ヴィクトル・ラヴェニ。

 彼の家に入らねば、受肉組成録は取り返せない。

 しかし、死体の身では検査されれば異常がバレる。

 町の人間を利用しようにも、患者の身では家の奥まで入れない。


 (......どうしたものか)


 いっそ怪異の体で侵入するのもありか。しかし、成人のみの家に転移することはできない。バカ正直に正面から「本を返してください」などと言っても追い返されるのがオチだ。

 成人は殺して処理ができない。これが常に障害だ。


 「これ、しゅわしゅわするわ!甘いわ!ほんとに不思議!!」


 私が腰掛けるベッドの隣で、クロックミティーヌが目を輝かせて炭酸ソーダを飲んでいた。

 町で買ってきたものだが、お気に召したようで何よりだ。

 既に数本、洗った空き瓶が綺麗に並べられている。


 「ほらお前たち、飲む?」

 「蜘蛛たちに上げないほうが良い、君とは体の構造が違う」

 「あら、そうなのね?ごめんねお前たち。また子供を狩りましょうね。それまであの子供が持つといいけど」


 小さな女王は、膝の上に集まっている少数の蜘蛛たちに声を掛けている。ウィリアムは中肉中背の健康体だったから、良い餌になってくれるだろう。


 「良かったわ、この子達がお腹いっぱい食べられて」

 「彼らは普通の蜘蛛か?イトグモは単独行動をするイメージがあったが」

 「ええ。でも私がいると、彼らは素直に従ってくれるの」


 クロックミティーヌの存在で、生態にすら影響が出ているのか。彼女の機嫌を察して動く彼らは、ただの節足動物というより知能がある気さえする。

 それとも、無意識に彼女がそう動かしているのか。


 「ねぇ、トルバラン。それよりも、またあの絵本を読んでちょうだい!」

 「またか」

 「だって、私文字が読めないもの」


 以前私が蹴破ったクローゼットは既に修理し、物置として利用しているが今は幾つかの子供用の本も置いてある。

 ソーダと同じく、彼女の機嫌用に町で買って来たものだ。

 

 しかしまさか文字すら読めないとは思わなかった。

 教育者が居なければ、当然か。

 

 「どうかしたのかしら?」

 「いいや。何を読んで欲しいんだい」

 「やった、すこし待ちなさいね」


 彼女が動くと膝に乗った蜘蛛たちはワラワラと逃げていくが、彼女の側からは騎士団の如く離れようとしない。


 「これよ、この白い鳥の描かれた本よ」

 

 ありきたりな絵本だ。

 美しい王妃を悪い魔女が白鳥に変え、自分が王妃に化けて王子と結婚する話。当然、勧善懲悪のストーリーだ。

 魔女は退治されすべては大団円を迎える。


 (我々のような魔のものは、人間の本では大抵悪者と書かれる。彼女にとってショックが強いと思っていたが......)

 

 それでも彼女は目を輝かせ、読んでくれと強請ってくる。


 「お膝を空けて頂戴、トルバラン」

 「はいはい」

 

 当たり前のように私の膝を占領し、手に持った本を押し付けてさあ読めと強要してくる。本当に強引な姫様だ。振る舞いはどこか優雅だが、好奇心を隠しきれていない。


 「貴方がいると退屈しないわ」

 「ああ、それは良かったよ、女王様」


 彼女のそばにいると調子は崩れるが、中々賑やかだ。

 尻尾に絡みついて遊ぶ蜘蛛の子を引き剥がし、彼女に渡しながらページをめくる。

 彼女との交流は順調だ。


 (しかし、肝心のヴィクトルに関する進展がない)


 ここ1週間彼をストーカーしているが、ほとんど診療所から出てこない。一度だけ出たと思ったら、ただの買い出しであったし。定期的に訪れるような仲のよい友人もいないようだ。


 (孤立はしていないが、一定の距離がある。誰に対しても丁寧で、無愛想だ)


 受肉組成録が家のなかにあることは確実だ。

 子を亡くした男親なら妻が居るはずなのだが、彼以外の気配が家からしない。離婚したか、死別したか。

 とにかく、今は独身状態のようだ。


 (この絵本のように妻に化けて入り込むことも難しいか。突破口が見えない。どうしたら良いのだ)

 

 まだ1週間だ。

 焦る時期ではないのは理解しているが、いつまでも膠着状態を続けてはいられない。とにかく、彼についてまだ知らないことがあるはずだ。


 「トルバラン?手が止まっているわ」

 「ああ、すまない」

 「何か悩み事かしら」

 「......いや。大丈夫だ、本の続きだったね」


 どうせ動けるのは、夕暮れ時からだ。

 真っ昼間から動くのは、雨とはいえ太陽に触れるようでゾッとする。

 

 今は、この女王様のご機嫌を取っておくほうが賢明だろう。


 ──1965年11月9日 20時


 診療所は19時に閉まるらしい。

 「ブレンダン」に取り付き、傘を差したまま近くの林に隠れ監視をしているが、全く取っていいほど動きがない。激しい雨音のなかで、寒さに肌を刺されながら彼の家をぼーっと見ていた。


 (やはり、今日も駄目か)

 

 太陽が沈みきった暗闇のなかで、ヴィクトルの家から溢れる光は暖かく煌めいている。氷のように冷たい雨粒は服に染み込み、全身が重く感じられた。

 疲れ切った深い青色の瞳を思い出し、少し顔を顰める。


 (彼に近づきたいが、友人として近づくにも外出頻度が低すぎる。週に一度では覚えてすら貰えないだろう)


 ──カタンッ


 「.......ん?」


 家の扉が、開いた。

 この時間帯に出かけるなど、今まで見たことがない。

 厚手の黒コートを着た彼は、家に鍵をかけると雨の中に紺色の傘を差した。バッグなどを持っている様子はない。

 ということは、往診ではないはずだ。


 (一体どこに行く?こんな時間に)


 見つからないように、後をつけていく。

 彼が持つ懐中電灯の光が足元を照らし、ぴしゃぴしゃと跳ね上がる雨水を照らす。

 今日は雨はいつも以上に激しく、服が濡れて身体が冷える。外出するタイミングとは思えない。


 (買い出しか?......いや、町の方向じゃない、向こうは行ったことがないな)


 暗闇のなかで、ぼんやりと光る彼の懐中電灯だけが頼りだった。暫くついていけば、あったのは金網の囲い。鬱蒼と木々が生え、植物たちは囲いを伝って伸びている。


 「墓場、か......?」


 ろくに手入れされていないのか、中で街灯が一つチカチカと点滅していた。重苦しい雰囲気は怪異が寄ってきそうだが、私と彼以外の気配はない。


 カシャン。


 (......鍵が、壊れているのか)


 慣れた様子で、彼は金網を空けて滑り込んでいく。

 慌てて追いかけていくと、夜の墓というのは改めて異様な雰囲気を醸し出していた。整備はある程度されているが、遺族に忘れられた者の墓の周りには雑草が蔓延り、古いものだと欠けたものさえある。


 (教会のマーク......教会が仕切っている共同墓地か)


 不愉快だ。

 人間の信仰心とは強く輝きを持つが、魔を祓う力は歓迎できたものではない。もっとも、勝手に入ってきた私が文句を言えたことではないが。


 (彼は何処だ)


 周囲を見渡せば、点滅する街灯の下に迷いなく歩みを進めていた。紺色の傘は雨に濡れその色を濃くし、雨粒を弾いている。

 そのうち、一つの小さな墓の前で彼が止まり、しゃがみ込む。


 (なにを、している?)


 遠巻きに見ている上、傘で邪魔され正確なことは分からない。ただ、植物を引っこ抜くような、ブチ、という音は鮮明に聞こえた。


 (墓参り......)


 彼に声をかける事もできたが、何故か出来なかった。

 酷い雨模様。点滅する街灯。泥のついた靴。

 コートの端が濡れるのも気せず、夜の墓場で無心に墓前の植物を引きちぎる彼の背中。

 光に照らされ、キラキラと傘を流れ落ちる無数の雨粒。

 

 異様な光景に、目が離せなかった。

 一瞬見えた彼の手は、濡れた黒い土で汚れ切っていた。


 「......」


 恒久とも思える時間が経った。

 彼は立ち上がり、片手に抜いた植物を持って近くのゴミ箱へ捨てた。ふと、墓石に枯れ葉が乗っていることに気づいたのか軽くはらい落とす。


 手洗い場で簡単に手を洗い、その後は一瞥することもなく墓を去っていく。


 街灯に照らされ一瞬見えた彼の目は。

 何も、写していなかった。


 「......誰の墓だ」


 予想はできている。

 彼が完全に去ったのを確認し、墓へと近づく。

 周囲の墓は植物が生い茂っているのにも関わらず、その墓の前だけは綺麗に整備されていた。


 ──ニーナ・ラヴェニ 1947 - 1960年 


 (......ヴィクトル・ラヴェニの、娘の墓。13歳か)


 墓がある。

 彼は、娘の死を受けれている。


 (本当に?)


 受け入れているのならば、何故私の本を持っている。

 受け入れていないのならば、何故墓参りなどをする。


 ヴィクトル・ラヴェニが、分からない。

 あの男が何を考えているのか、本当に分からない。


 「......ははっ」


 全身が一つ大きく震えた。

 私は、あの男が、知りたい。

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