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第1話 「人生から逃げた二人と飛ばされた一人」

始まりは、生活費を稼ぐのにバイトだけでは足りなくなったことだった。

 私は、いわゆる「パパ活」というものを、自分には関係のない世界だと思っていた。

 大学では理系。しかも、そこそこ名の通った大学の理系学部で、成績も悪くない。

 周囲からは、

「響って、将来は研究職とか行くんじゃない?」

「外資系とか向いてそう」

「頭いいよね」

 などと言われていた。

 自分でも、まあ、普通の人よりは頭がいいと思っていた。

 だからこそ、自分がそんな世界に足を踏み入れるなんて、少し前までは想像もしなかった。

 しかし、現実というものは、頭の良さだけではどうにもならない。

 家からの仕送りは必要最低限。

 大学の授業料以外は自分で稼ぐ。

 私は親にそう啖呵を切っていた。

 別に親と仲が悪いわけではない。

 むしろ、親には感謝している。

 ただ、親も余裕があるわけではなかった。

 だから私は、コンビニ、家庭教師、飲食店、短期バイトと、できるものは何でもやった。

 それでも足りなかった。

 家賃。どうしようもない。

 食費。できるだけ削る。

 交通費。できるだけ、歩く。

 教科書。友達のものを書き写す。

 研究に必要なもの。あきらめる。

 大学生というのは、思っている以上に金がかかる。ましては、時代はインフレ。


 そんなある日だった。

「お姉さん、学生さん?」

 声をかけてきたのは、四十代ぐらいのサラリーマン風の男性だった。

 いわゆる、怪しい感じではない。

 スーツはきちんとしている。

 髪も整っている。

 むしろ、普通にいい男だった。

「よかったら、ご飯でもどう?」

 最初は断ろうと思った。

 しかし、その日の私は疲れていた。

「……ご飯だけなら」

 そこから食事をした。

 高そうな店だった。

 私は値段を見て、何度も目を疑った。

「こんなところ、私には無理です」

「まあまあ。今日は僕が出すから」

 話してみると、意外なほど普通だった。

 仕事の話。

 大学の話。

 趣味の話。

 そして、少しだけ恋愛の話。

 私は警戒しながらも、いつの間にか笑っていた。

 そして、その日の夜。

 私は彼に連れられてホテルへ行った。

 そこから先について、私は誰にも話したくない。

 ただ、翌朝。

「はい、お小遣い」

 そう言って渡された封筒の中には、三万円が入っていた。

「……え?」

「嫌じゃなかったら、また会おうよ」

 私は、その三万円を見つめた。

 三万円。

 バイトなら何時間働かなければならないだろう。

 私は黙って、それを受け取った。

 そして数日後。

 また会った。

 その翌週にも会った。

 気がつけば、月に何度か会うようになっていた。そのうちお金だけでないものも目覚めた。

 私は、それを「パパ活」と呼ばなかった。

 そんな言葉を認めた瞬間、自分が何者なのか分からなくなりそうだったからだ。

 だから私は、

「まあ……生活費を稼いでいるだけ。そして、・・・」

 そう自分に言い聞かせていた。

 しかし。

 ある日、鏡に映った自分を見て、ふと思った。

 ――私、何やってるんだろう。違う方向にも目覚めて・・・

 その答えは出なかった。

 そして、その日の夜。

 私は、すべてを投げ出して田舎の山道を歩いていた。

 ……いや。

 正確には、私だけではなかった。

     *     *     *


「また、落ちた……」

 合格発表の掲示板を前にして、俺――将司は、ただ立ち尽くしていた。

 自分の番号がない。

 何度見てもない。

 上から順番に確認してもない。

 下から見てもない。

 横から見ても――

 あるわけがない。

「……三浪か」

 口に出してみる。

 ものすごく重い言葉だった。

 俺の家は病院だ。

 父親が医者。

 当然のように、

「将来はお前が継ぐんだ」

 と言われて育った。

 別に、医者になりたくなかったわけではない。

 ただ、なれるほど頭がよくなかった。

 高校までは、それなりに勉強できた。

 しかし医学部受験というものは、そんなに甘くなかった。

 一浪。

 二浪。

 そして三浪。

「父さん……なんて言うかな」

 父は、

「何年かかってもいい。お前が納得するまでやればいい」

 と言ってくれていた。

 優しい父だ。

 優しいからこそ、つらい。

 去年落ちたときも、父は何も言わなかった。

 母も何も言わなかった。

 ただ、家の食卓だけが妙に静かだった。

 そして俺は、ひそかに思っていた。

 ――もう、事務長でもいいんじゃないか?

 病院の経営とか。

 人事とか。

 事務とか。

 そういう方向なら、俺にもできるかもしれない。

 しかし、それを口に出す勇気はなかった。

 何しろ、父は俺に「病院を継ぐ」としか考えていない。

「……帰りたくない」

 気がつくと、俺は駅に向かっていた。

 家に帰る気になれなかった。

 どこでもいい。

 遠くへ行きたい。

 そう思って電車に乗った。

 何度も乗り換えた。

 知らない駅で降りた。

 バスに乗った。

 そして、最後には歩いた。

 歩いて。

 歩いて。

 気がつけば、山の中だった。

「……どこだ、ここ」

 スマホを見る。

 電波が弱い。

 地図もまともに表示されない。

「最悪だ……」

 そう呟いたときだった。

 木々の向こうに、建物が見えた。

 寺だった。

 ただし。

「……寺?」

 かなり古い。

 というより、ぼろぼろだった。

 屋根の一部は壊れている。

 壁も剥がれている。

 庭には雑草が生い茂っている。

 寺というより、

「廃寺じゃないのか、これ……」

 それでも、雨風をしのげる場所には違いない。

 俺は恐る恐る門をくぐった。

「……おじゃまします」

 小さな声で言った。

 誰もいない。

 そう思った。

 しかし。

「えっ」

 中に、一人いた。

 女性だった。

 俺とそう年齢が変わらないように見える。

 そして、その女性は――

 コンビニのおにぎりを食べていた。キャリーバッグに座って。

「……」

「……」

 目が合った。

「すいません。こちらの方ですか?」

 俺が聞くと、女性は少し驚いた顔をして、

「いや、たまたま空いていたので、ちょっと休憩でして……あははは」

 笑った。

 妙にぎこちない。

「そうですか……」

「はい」

「……」

「……」

 気まずい。

 ものすごく気まずい。

 俺は、なぜかこの女性から目をそらした。

 すると女性が、

「で、君はどうしてこのお寺に来たの?」

「え?」

「ここの管理者の関係者とか?」

「いや、僕もたまたま……。こんなところに寺があるんだと思って」

「……そう」

「……」

「……」

 また沈黙。

 女性はおにぎりを食べる。

 俺は立っている。

 そして俺は、なんとなく思った。

 ――この人も、何かから逃げてきたんじゃないか?

 しかし、それを聞く勇気はなかった。

 聞かれたくもない。

 だから、お互いに何も聞かなかった。

 その瞬間だった。

 床が光った。

「……?」

 最初は、夕日の反射かと思った。

 しかし違う。

 床に、巨大な円形の模様が浮かび上がっている。

「え?」

「なにこれ?」

 二人が同時に立ち上がった。

 光はどんどん強くなる。

「ちょ、ちょっと!」

「えっ、何これ!」

 そして。

 ズオオオオオオオオッ!

 光の中心から、一人の女性が現れた。

 長い金髪。

 白を基調とした、いかにも「異世界の聖女です」という服装。

 頭には見事な装飾も、うつむいて顔は見えない。まるで金髪の貞子。

 そして、両手を胸の前で組んでいる。

「ぎゃあああああ!」

「うわあああああ!」

 俺と女性は、ほぼ同時に叫んだ。

 反射的に、俺は隣の女性を抱き寄せていた。

 向こうも俺にしがみついている。

「何なんですか、これ!」

「知らないわよ!」

「幽霊ですか!」

「知らないって!」

 その間にも、金髪の女性は頭を下げたままだ。

 やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 そして。

「ココハ……ドコ?」

 俺と女性は固まった。なぜか、片言の日本語。

「ワタシハ……ダレ?」

「……」

「……」

「……定番だな」

 思わず俺が呟いた。

「そこ感心するとこ?」

 女性が小声で突っ込んだ。

 すると金髪の女性が、突然、

「アッ~! ツイニヤリヤガッタナ、クソボウズラメ~!」

 と叫んだ。

「……」

「……」

「……」

 俺たちは顔を見合わせた。

「今の、何?」

「さあ……」

「日本語だよな?」

「たぶん……」

 金髪の女性は腰に手を当てた。

「トコロデ、アナタガタハ、ココノヒトデッカ?」

「いや、日本人ですけど」

「ソウヤナクテ、この寺の人かって聞いとるんや」

「え?」

 突然、普通に日本語になった。

 しかも。

 関西弁だった。

「……なんで関西弁?」

「知らんがな」

 聖女は真顔で答えた。

「魔法の影響や」

「魔法?」

「せや。異世界からこっちに転移する途中で、現地の言語を自動取得したんや」

「だったら最初から普通にしゃべってくださいよ!」

「最初は処理中やったんや。時々、バグるんや。」

「コンピューターみたいに言うな!」

 聖女は大きくため息をついた。

「まあ、ええわ。ところで、あんたらは何してるんや?」

「……」

「……」

「ひょっとして……」

 聖女は俺と女性を交互に見た。

「チョメチョメで、これからええところやったん?」

「違います!」

「違うわよ!」

 俺たちは同時に叫んだ。

「じゃあ、なんで抱き合っとったん?」

「あなたが突然出てきたからです!」

「そうよ!」

「ああ、そういうことか」

 聖女は納得したように頷いた。

 そして。

「よろしおまんなぁ」

 ニヤリと笑った。

「……何が?」

「若い男女が二人きりで、おんぼろ寺」

「だから違うって!」

「わしなんか、仕事、仕事、仕事やで!」

 突然、聖女が怒鳴った。

「朝から魔獣退治!」

「はあ……」

「昼から負傷兵の治療!」

「……」

「夜は王宮で祝福!」

「……」

「そのあと、翌日の巡礼!」

「……」

「休日は?」

 俺が恐る恐る聞いた。

「ない」

「ブラック企業じゃん」

 隣の女性が呟いた。

「せやねん!」

 聖女が勢いよく振り返った。

「ほんまそれやねん!」

 そして聖女は、その場に座り込んだ。

「わし、聖女やぞ?」

「はい」

「世界を救う聖女やぞ?」

「はい」

「なのに何で週休1日すらないねん!月100時間以上超は過労死してまうやんか。」

「……」

「有給は?」

「……」

「残業代は?」

「……」

「ボーナスは?」

 俺と響は顔を見合わせた。

「異世界に労働基準法はないんじゃない?」

 女性が冷静に言った。

「だから腹立つねん!」

 聖女は床をバンバン叩いた。

「魔王軍より王国の人事部のほうが怖いわ!」

 俺は、なぜか少しだけ親近感を覚えた。

 医学部三浪。

 家に帰れない俺。

 何かを抱えてここにいる、この女性。

 そして、異世界のブラック職場から逃げてきた聖女。

 ……どう考えても、まともなメンバーではない。

 しかし。

 そのとき俺は、まだ知らなかった。

 この日から俺たち三人が、この日本で奇妙なことを引き起こすことを。

 そして。

 この中で一番常識人なのが、まさか俺ではなく――

「ところで、あんた名前は?」

 聖女が女性に聞いた。

「響」

「へえ、響ちゃんか。で、あんたは?」

「将司です」

「そうか。わしはアンタや」

「……」

「……」

「……」

 俺と響は、同時に顔を見合わせた。

「アンタ?」

「そうや。聖女アンタ」

「名前なんですか?」

「そうや」

「……変わった名前ですね」

「そっちこそ、なんやその顔は」

 アンタが俺を睨む。

 響が吹き出した。

「ぷっ……」

「何がおかしいねん」

「いや……聖女なのにアンタって……」

「うるさいわ!」

 その日。

 俺たちは、人生から逃げてきた三人になった。

 将司。

 響。

 そして――聖女アンタ。

 まさか、この三人で暮らすことになるとは。

 この時の俺は、まだ知らなかった。

 というより。

 知っていたら、たぶん逃げていた。




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