プロローグ
「ジディ・トランスはこの世のバグである」
フロールは深夜に一人研究室で唱えた。彼は自国の最高責任者であり科学者である。唱えは独り言であると同時に世界の意思に対しての主張でもあった。
ジディ・トランスという少女は何万年と変わらぬ因果律を解体するように崩した存在である。
因果という不変的なこの世界の掟。天候、物理法則、天変地異、化学、宇宙、輪廻に転生、それら全てが存在している仕組み等。
因果とはこれらを表す世界においての規律である。
その規律を少女は一瞬にして壊し、自身の持つバグの血液を世にばら撒いた。
世界の意思はフロールへ回答する。
『そんな彼女は因果の汚点であり欠陥だ』と。
フロールは彼女を『バグ』と称するが決して悪い印象を持ってはいない。
むしろ逆な想いが迸っていた。
フロールは彼女のことを屈託のない敬意で崇拝的に愛している。単なる『好き』という感情は差し出がましく、無礼にあたると思うほどに。
彼女と目を合わせ言葉を交わしたのはたったの数回。
第一印象は病的なまでに華奢な身体、薄水色の異色肌に色づいた黒色の唇。加えて変わった菱形の瞳孔などの持ち主。
何気ない彼女との対話。フロールは強く凛と論じる彼女の言葉に魅せられた。一瞬にしてフロールの自身の愛は彼女への捧げ物であり、献上品として奉公した。
フロールとジディ・トランスは釣り合いの取れる同じ身分だった。しかし、フロールは同等な身分を不遜に感じる。理由は自分が口ほどにも及ばない存在ということを自覚してしまったから。けれど劣等感などといった負の感情は生まれない。
フロールはその自覚を受け入れることさえも心地がいいと感じるほど彼女が美しく見えた。
誰のものにもならない彼女がフロールの生きがいであり、全てとなることにそう時間はかからなかった。
「彼女は隠し事を趣味とした」
フロールが発明のために手元を動かしながら再度唱える。
不確実で謎めきで彩られたかのような少女。
ジディ・トランスという少女は他国の最高責任者であり化学者である。基本情報はたったのこれだけ。
隠し事が多い彼女を知り尽くしたいという欲求は当然のように沸き立つ。
フロールは彼女の基盤、彼女の周辺人物について、彼女が知りえない彼女の事実まで手を伸ばし続けた。
再度、世界の意思は回答する。
『そんな彼女を許してはならない』と。
フロールは疲れにより目の下を青ずらせたまま医療器具や様々な半導体に触れる。手元がぶれないよう慎重にを扱いながら科学者として発明を続けていた。
フロールと世界の意思は対極なほど彼女への印象を表している。
しかし、世界は完全なるフロールの味方をしていた。
約十年前、フロールは彼女の秘密の一つを掴んだ。それは彼女の持病について。
彼女の脳には奇病が発症していた。それは脳の中心にある器官が活性化した病だった。しかし、その奇病とは病といった物で片ずけるには相応しくないものである。活性化はやがて彼女の遍く細胞らを変異的な結合によって組み替えていった。
その障りは異能に近しいものとして誕生する。
世界から見れば単純な病の一種。彼女はその病を後天的に患う一人に過ぎない。恐るるに足らない気紛れに誕生した因果の一部による患者に見られた。
しかし、フロールは驚かずにはいられない。
奇病の一種として片付けるにしては、これまでの理論と観念を覆すほどの超常現象と変わりない衝撃的事実だから。
その病は見える力となって分かりやすく発症される。それは物によっては筋書きのつかない魔法、正に異能力であった。
彼女は手を使わずとも物体を動かすことができる念動能力を扱えていた。その他にもフロールは勝手なカメラで彼女の国内にてあらゆる異能力者を確認する。身体の一部から炎を形成する発火能力や遺伝子レベルで体内や空中の一部を石化する物質能力など。彼女への心配りと共に確かに知ってしまう。
判然たる異能がこの世に存在していたことを知った際、フロールは平易に腰を抜かす。額から流れる汗を拭うと共に、彼女について秘め事が多いことへの納得がいった。
フロールはあくまで彼女の国のみで異能者の実例を見つけていく。これらの情報は本人の口から聞いた話ではない。フロールの確認と分析による結果論だ。
異能と見える奇病の持ち主は十数名。当人たちは異能が周囲に対し、危険が及ばないよう、更生施設にて生活基盤を提供されていたと噂にある。
だから彼女の国内でも異能者については奇病の障害者などといった取り沙汰でしか扱われていない。
それでも世界は彼女だけを許さなかった。
フロールが自国に向けて奇病であり異能である存在を公に発することはなかった。理由は単純。そんなことをしてはジディ・トランス本人が悲しむと思ったから。
しかし、フロールは黙秘という選択を酷く後悔している。
突如として彼女は世界に向けて発表をした。それはフロールにとって悲報の別れ。惜別の情を述べる暇もないまま、彼女は鎖国を宣言し、フロールや他、全世界との交流を絶った。
彼女が何故その選択をしたのかは分からない。ただ、自分は異能について知っていることを伝え、何らかの形で彼女の力になれると相談していれば手を取り合い、何か変わった彼女との未来が訪れたのかもしれない。
「この後悔は残り続けて消えることはない」
この時、世界は列強を巻き込んだ大戦、時代で言う三度目の世界大戦が繰り広げられている真っ只中。その最中、彼女の国とフロールの国は明らかな戦勝国として世界に影響を及ぼしてきた。
なのに急な鎖国、という名の勝ち逃げの国旗を掲げた彼女の選択。その選択にフロールは疑問の嵐で何日徹夜しただろう。
彼女の影響は大きかった。彼女からの唐突なる別れに戸惑いを寄せたのはフロール以外の国も例外ではない。
数週間ない内に彼女の国を除いた全ての国は酷く荒れ狂い、文明の進化は間違ったまま停滞や廃れを繰り返して陳腐化へと向かっていった。
この時、何があったのかを突き止めたい一心のフロールに余裕などあるわけがなく、自国に向ける話は中味のない指示ばかり。
その結果フロールの国、アリゾレッド連邦も他同様に頽廃は加速していく。
彼女の現状を知りたくて仕方がなかった。
フロールの中の疑問と行き場に困った愛は飛び回るように落ち着きを失ってしまう。
何があった、発表時の顔色が悪く見えました、今どんなお気持ちでおられるのですか、ジディ様どうか、どうか。
そしてフロールは感情に任せた行動へと移る。違法だろうと倫理を外れていようと情報の欲しさに必死となって彼女を求めた。
数ヶ月、吹き荒れる列強の争いなどはついでのように、しどろもどろになりながらフロールはジディ・トランスについてだけをどうしても視野に入れたかった。
民に嫌われ、部下にも呆れられようとどうでもよく、自身の欲のままの行動だけを許可して突き進んだ。
細切れの過呼吸を起こしながら酸素を求める。
そしてフロールは一人、やっとの思いで情報を見つけた。
その日は彼女の命日だった。
死の情報。
声は出そうにも呼吸から言葉は失われ、血管が収縮したのかストレス性の頭痛に目の前がチカチカと震えてしまう。
一時的に血の流れが変化するほどのショックであり、フロールは崩れ落ちた。そしてただただ酸素を求めることしかできなかった。
主軸であった変革者を失ったフロールは焦燥感と悲痛に精神は押し潰される。ガクンと足に力が入らず、その場から立ち上がることができない。
地から腰は離れず、乱れた呼吸で天を仰ぐこの時のフロールには最高責任者としての威厳はなかった。
ただの中年男性となった人間は我を忘れ、だらしないほどに涙を流し、声にならない嘆きを空へとぶつける。
数時間後、プツンと張っていた精神はちぎれ、自室で壊れた人形のようにだらんと手足を伸ばし、フロールは廃人となった。
しかし、フロールという男は最高責任者であり科学者である。
享年十八という若さで亡くなった『ジディ・トランス』という起点となる物事。その問いを放っておくことはできない性格だった。
その人となりを自分でも理解した時、重い腰を上げ、立ち上がり、鏡で数日経った自分の容姿を目にする。ボサボサの髪に清潔感のない髭、荒地とかした乾燥した肌。実に酷い顔だ。
ところが、目だけは再度光が宿っていた。
ボロボロとなったフロールを拒むものは何もなく、禁忌となる工程だろうと惜しまずに科学者らしき欲望だけを優先させてやると決意する。
何故、彼女が急遽鎖国を宣言したのか。その時の彼女の心境や国の状態など、全ての国との密接を絶った経緯、彼女がどんな死に至ったかの詳細は不明である。
彼女は隠し事が趣味だった。
彼女が生きた国の詳細も、彼女の国へのあらゆる攻撃も自然科学では説明できない現象で跳ね除けられていることも、あの国だけが密入さえも出入り不可能な状態など。
それらを含め、全世界はその国を謎に包まれた楽園国家と呼んだ。
フロールは彼女について全てを知るため、この手で望みを叶えてやると意気込む。速やかに隅々にわたる仮説を立て、発明へと一歩を踏み出す。
発明の途中、フロールは彼女がバグであるという一つの証明を確立させた。
ジディ・トランスという少女は死を迎えた。それでも尚、世界の意思は彼女を未だ許してはいない。
世界の望みとは少ない情緒で安定した不変的な世界の広がり。
『彼女がしたことはとうに度を超えた過剰劇』と世界は綴る。
一度崩れた因果を治すため、世界は当たり前の意思のない素振りで治療を始める。
彼女というバグの死後も緩やかに世界は修復を続けている。あたかも普通に、原因や理屈も疑えないほど着実に。
それでも世界は困っていた。
彼女が放ったバグの残り香。それらが漂うあの国をどうにも浄化することができない。
世界は簡単に答えを出す。
広まったバグはバク自身に治させればいい。
世界の単純なる他愛もない意思。感染によって増幅したバグの残穢を殺し、絶滅へと導かせる。さすれば因果に基づいたまま普遍的に世界を治して浄化が完了する。バグ本人の意思に関係なく、世界は浄化のための意思を確定させた。
この世界には輪廻転生が確かに存在している。
そのため、バグを転生の因果、加えて輪廻の周期に準じ、バグの構築を許した。他同様、記憶をリセットして約六十年のサイクルで新品未使用での生成を始める。付属品として重い十字を背負わせ、世界からの不利と嫌悪も混ぜながら。
更に世界は顔も声も姿もない成りでフロールの科学者としての才を認めていた。
そして世界はフロールの味方をする。
あくまで因果を根拠とする幸運という味方。
世界を味方につけたフロールは許しを得る。
バグを治すバグの発明を。
因果律を正すことを目的とした、因果律を扱った新たなる超常現象の誕生を。それは機械と異能が融合した発明品となる。
誰も彼もが世界のバグを治すためにあたかも無意識に動かされ、いや、導かれている。
啓示され、許されたフロールは手始めに因果に触れるためにも因果律に関する調査と発明を急いだ。
世界は唱える。
『早く、この世界の治療を』と。
フロールは世界からの使命を受けながら自身の彼女に対する欲求との両立の元、因果を扱った発明に研鑽している。
しかし、世界の意思はシンプルで純粋であり率直である。
世界がヒトの入り交じったドロドロとした激情を把握することは決してない。
故に自分の許したバグという名の因果が違う方へと作用し、主軸のための操作を目論む者がいたとしても『全ては世界の理想へ進んでいる』と誤った解釈で片付け、気づかない。
フロールは因果を操作する発明品を研究室で一人続けた。何年も何年も陽の光を浴びることなくその空間に居座りながら。
そして現在。
フロールは歯を食いしばり、悔しく心残りを宿らせた口で回答する。
「人生が足りない」
痺れきった四肢は小刻みに揺れ動き、うつらうつらに眠い脳でふらつく。
フロールは完璧なる自己分析から悟る。
過労からの死期の訪れを。
やがてフロールは手を止め、苦渋の選択を行う。
途中段階の発明品を誰かに触れられるくらいなら最期は彼女の趣味の真似事をしてを死んでやりたいと。
そして発明は隠される。
発明は暗闇で時を止めた。
──────────── 202×年××月××日
フロール・フェリック 五十七歳 死去