第86話 観察者
静寂が支配していた。
窓のない研究室。
魔導灯だけが室内を照らしている。
壁一面に並ぶ資料棚。
積み上げられた報告書。
複雑な術式が描かれた紙束。
そして。
部屋の中央に置かれた机。
アルベリウス・ノクスは一冊の報告書へ目を通していた。
ページをめくる。
紙が擦れる音だけが静かに響く。
「……興味深い」
小さく呟いた。
視線の先には土砂災害に関する報告書。
被害状況。
救助記録。
治療内容。
参加隊員。
細かな内容が記載されている。
だが。
アルベリウスが興味を持ったのはそこではない。
指先が一つの名前をなぞる。
カナト。
それだけだった。
報告書を読み進める。
救助活動。
診断。
治療。
負傷者の選別。
現場での判断。
どれも優秀だった。
優秀すぎると言ってもいい。
だが。
それだけではない。
アルベリウスは椅子へ深く腰掛ける。
目を閉じる。
そして報告内容を頭の中で再構築した。
魔力消費。
治療人数。
行動時間。
負傷状況。
極限状態。
通常であれば不可能な領域。
それを。
カナトはやってのけている。
「成長している」
薄く笑う。
確信だった。
以前と同じではない。
確実に変化している。
本人は気付いているだろうか。
おそらく気付いていない。
だが。
アルベリウスには分かる。
ほんの少しずつ。
だが確実に何かが変わっている。
「何が引き金だ」
感情か。
経験か。
極限状態か。
それとも。
別の何かか。
考える。
仮説を立てては否定する。
また考えるが答えは出ない。
分からない。
だから面白い。
未知だからこそ価値がある。
アルベリウスは報告書を閉じた。
静かな音が響く。
そして。
窓のない部屋の天井を見上げる。
「次はどうなる」
独り言だった。
誰もいない。
返事もない。
それでも。
研究者の瞳はどこか楽しそうだった。
「君はどこまで辿り着くんだろうね」
静かな声。
薄暗い研究室へ溶けていく。
その笑みは。
期待にも見えた。
興味にも見えた。
そして。
ほんの少しだけ。
不気味だった。
◇
翌朝。
空はよく晴れていた。
訓練施設の廊下をリゼアは歩いていた。
深く息を吸う。
そして吐き出す。
緊張していた。
だが。
逃げるつもりはない。
自分で決めたことだからだ。
前を見る。
ギルフォードの執務室。
まず最初に行くべき場所だった。
リゼアは拳を握る。
そして迷わず扉を叩いた。
「入れ」
低い声が返ってくる。
リゼアは扉を開いた。
ギルフォードが机に向かっている。
書類へ視線を落としていたが、入室するとゆっくり顔を上げた。
その視線を受けながら。
リゼアは深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
部屋が静かになる。
ギルフォードは何も言わない。
重たい沈黙。
だが。
リゼアは顔を上げなかった。
逃げない。
そう決めていた。
やがて。
ギルフォードが口を開く。
「反省はしたか」
「はい」
「そうか」
短い返事だった。
再び沈黙が落ちる。
そして。
「基礎からやり直せ」
「はい」
迷いなく答える。
ギルフォードは僅かに頷いた。
だが。
そこで言葉は終わらなかった。
ギルフォードは言葉を切ると、リゼアへ視線を向けた。
「蒼炎、と言うそうだな」
リゼアの心臓が大きく跳ねた。
「……はい」
「あの場では適していなかった」
「……はい」
痛いほど分かっている。
蒼炎を発現させた。
だが。
その直後に動けなくなった。
助けられなかった。
だから否定出来ない。
「だが、魔法は見事だった」
リゼアが顔を上げる。
ギルフォードは変わらない表情のまま続けた。
「お前はもっとやれるはずだ」
短い言葉だった。
それなのに。
胸の奥が熱くなる。
「使いこなしてみせろ」
「……はい!」
気付けば声が大きくなっていた。
ギルフォードは小さく頷く。
「以上だ」
それだけだった。
だが。
それで十分だった。
リゼアは深く頭を下げる。
「失礼します」
部屋を出る。
扉が閉まる。
廊下へ出たリゼアは小さく息を吐いた。
胸の奥に残っていた重石が。
少しだけ軽くなった気がした。




