第83話 見失ったもの
リゼアは膝を抱えて俯いていた。
胸の奥が熱かった。
苦しい。
でも。
少しだけ違った。
土砂災害の日から続いていた息苦しさとは。
どこか違う。
そんな感覚だった。
「誰かを助けられる人になりたかった……」
小さく呟く。
母の背中が脳裏に浮かぶ。
優しい笑顔。
迷わず駆け出していく姿。
あの日の記憶。
忘れていたはずなのに。
今ははっきりと思い出せる。
それが自分の始まりだった。
強くなりたかった理由。
魔法を好きになった理由。
でも。
胸の奥にはまだ引っ掛かるものがあった。
「だったら」
震える声。
「どうして……」
どうして忘れたのだろう。
どうして見失ったのだろう。
どうして。
こんなことになったのだろう。
長い沈黙が落ちる。
カナトは何も言わない。
だから。
リゼアは自分で考える。
ゆっくりと。
振り返る。
思い出すのは一人の少年だった。
銀髪。
穏やかな笑顔。
昔から知っている顔。
レオン・クロード。
いつも一歩先にいた。
魔法も。
剣も。
勉強も。
何もかも。
追い掛けても追い掛けても届かなかった。
でも。
最初は楽しかった。
一緒に訓練するのが。
一緒に成長するのが。
楽しかった。
負ければ悔しかった。
でも。
次は勝とうと思えた。
そんな関係だった。
「でも……」
リゼアは唇を噛む。
いつからだろう。
変わったのは。
周囲が言うようになった。
ヴォルト家の才能。
クロード家の天才。
比較。
期待。
評価。
耳に入る。
嫌でも。
何度も。
何度も。
何度も。
そして。
いつしか。
勝つことが目的になった。
追い付くことが目的になった。
誰かを助けるためじゃなく。
母のようになるためでもなく。
負けないために。
認められるために。
走り続けるようになった。
ーーそして今気付いた。
お母様は。
一度も。
「レオンに負けるな」とも。
「一番になりなさい」とも。
言っていなかった。
私はいつから。
勝手にそう思い込んでいたんだろう。
「私……」
掠れた声。
「間違えたんだ」
涙が落ちる。
でも。
それは今までとは少し違う涙だった。
自分を責める涙ではない。
理解した涙だった。
見失っていたことに気付いた涙だった。
「違う」
小さく首を振る。
「間違えたんじゃない」
その時だった。
カナトが初めて口を開いた。
静かな声だった。
責める声ではない。
否定する声でもない。
「遠回りしただけだよ」
リゼアが顔を上げる。
カナトは続ける。
「だって」
少しだけ笑う。
「リゼアが頑張ってきたことは本当だろ」
言葉を失う。
「誰かに勝ちたかったのも本当」
「追い付きたかったのも本当」
「苦しかったのも本当」
夕暮れが二人を包んでいる。
「だから」
カナトは言った。
「その時間まで否定しなくていい」
リゼアの瞳が揺れる。
土砂災害の日から。
ずっと思っていた。
全部無駄だったと。
努力も。
訓練も。
蒼炎も。
全部。
意味がなかったと。
でも。
カナトは違うと言う。
「無駄じゃないよ」
真っ直ぐな声だった。
「だって」
少しだけ照れたように笑う。
「僕は知ってるから」
「……何を?」
掠れた声。
カナトは答える。
迷いなく。
「リゼアが誰よりも頑張ってたこと」
その瞬間。
リゼアの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
認めてほしかった。
本当は。
ずっと。
ずっと。
誰かに。
そう言ってほしかったのかもしれない。
夕日はほとんど沈んでいた。
夜が近付いている。
けれど。
リゼアの胸の奥では。
消えかけていた小さな灯火が。
もう一度だけ。
静かに揺れ始めていた。




