第101話 知識が救う命
母親の悲鳴に、市場の喧騒が一瞬だけ揺らいだ。
弾かれたように振り向いたカナトの視線の先では、先ほどまで元気に駆けていた男の子が、小さな両手で喉元を押さえ、苦しそうによろめいている。
「どうしたの!?」
母親が慌てて駆け寄り、その肩を抱く。
しかし、男の子は何も答えない。
泣き声はない。
咳もない。
ただ口を大きく開けたまま、必死に息を求めるようにもがいていた。
その瞬間、カナトの魔眼が静かに熱を帯びる。
視界が霞み、見知らぬ光景が脳裏へ流れ込んだ。
白い壁に囲まれた診察室。
幼い子どもが同じように喉を押さえ、苦しそうに口を開いている。
その傍らで、一人の医師が鋭く告げた。
「泣けない、咳き込めない、声も出ない――完全気道閉塞を疑え」
「喉へ手をやる仕草はチョーキングサインだ。迷うな、すぐ処置しろ」
映像は一瞬で消えた。
(違う……)
カナトは男の子を見据える。
(泣き止んだんじゃない)
(泣けなくなったんだ)
その時だった。
「待っててね、お水を飲めばきっと――」
母親が慌てて水筒へ手を伸ばす。
「駄目です!」
市場中に響くほどの声だった。
母親の手が止まる。
周囲の視線が一斉にカナトへ集まった。
「今、水を飲ませてはいけません!」
「喉に物が詰まっています。無理に飲ませれば、余計に危険です!」
切迫した表情のカナトに、フルールははっと息を呑む。
蜂蜜の一件が脳裏をよぎった。
善意だけでは、命を救えない。
正しい知識があってこそ、人は人を救える。
彼女はすぐさま一歩前へ出た。
「皆様、下がってください!」
「カナト様の処置の妨げになります!」
ギルフォードも即座に状況を理解する。
「護衛、人垣を下げろ!」
レオンやリゼア、王家の護衛たちが素早く周囲を整理し、野次馬を後退させていく。
喧騒の中心に、小さな空間が生まれた。
カナトは男の子の前へ膝をつく。
まだ意識はある。
だが、顔色は急速に青白さを帯び始めていた。
(年齢は三歳前後……腹部への処置より、まずは背部から)
迷いはなかった。
男の子の上体を前へ傾け、自らの腕でしっかりと支える。
「大丈夫。すぐ楽になるから」
そう優しく声を掛けると、肩甲骨の間を狙って力強く叩いた。
一回。
反応はない。
二回。
まだ出ない。
市場の空気が張り詰める。
三回目。
一瞬の静寂。
「…げほっ!」
鋭い咳とともに、小さな木の実菓子の欠片が男の子の口から飛び出した。
直後、男の子は大きく息を吸い込み――。
「うわあああぁぁん!」
先ほどまで失われていた泣き声が、市場いっぱいに響き渡る。
その瞬間、誰もが安堵の息を漏らした。
市場に張り詰めていた空気が一気にほどける。
母親は涙を流しながら男の子を強く抱きしめる。
「ありがとう……ありがとうございます……!」
何度も頭を下げる母親を前に、カナトは静かに微笑んだ。
「間に合って、本当によかったです」
その様子を見つめるフルールは、自身の胸へそっと手を添える。
ほんの数秒。
判断が遅れていれば、あの泣き声は二度と聞けなかったかもしれない。
強大な魔法でもない。
華麗な剣技でもない。
目の前の異変を見抜き、迷うことなく最適な判断を下す知識と経験。
その価値を、フルールはこの日、誰よりも鮮烈に心へ刻み込んだ。




