表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怪異探偵雛菊香  作者: LostAngel


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/20

『夢現の怪物』

『夢現の怪物』


 一


 夢を見ている。これはあれだ、明晰夢というやつだ。真っ暗闇の寝室を眺め回しながら、俺はそう思った。


 目覚めたという認識が芽生え、上半身だけ起き上がったのがさっきのことだ。今はまだベッドの上にいる。意識がはっきりとしていながら、どこかとろんとするような感覚の下にあり、動きが緩慢になってしまう。


 周りを見る。俺一人では持て余すくらい広いダブルベッドの布団、黒いサイドテーブルと黒いキャビネット。サイドテーブルの上には消灯しているテーブルランプと、白い錠剤が入った瓶が置かれている。伸ばした足の延長線上の壁の一角には、埋め込むように設置された薄型テレビがある。寝ながら映画を見るのにぴったりな配置。


 テレビの右には黒い扉。固く閉ざされている。廊下に続く扉だと思い出す。


 右の壁にはフルーツバスケットを描いた油絵が飾ってある。おしゃれな体裁の金の額縁に収められたそれは、なんとなく気に入って美術館で購入した、なんとかとかいう海外の画家の作品の模造品だ。


 左の壁は不気味なほどまっさらで、白かった。とはいえ、灰色に近い。闇の中にある白さだ。


 上を見る。天井の中央に取りつけられたLEDライトはもちろん、消灯している。白が翳った平面が四角形を成していた。


 俺が身を寄せる、見慣れた夜の景色だった。孤独な成人男性が夜を明かすためだけにある、殺風景な部屋の光景そのものだった。


 実は、普通に起きたのかもしれない。これは夢ではなく、深夜か朝方に目が覚めただけ。それくらい、視界にはありふれた景色しかない。


 だが……。俺は思う。


 声が出ない。というか、今の俺は声を出そうと思えなくなっている。


 夢で体験させられることは視覚的情報がほとんどだ。自分や知っている人が登場し、なにかの行動をする場面を見せられる。夢とはそういうものだ。


 夢の中において、自分がなにかを言ったり、誰かになにかを言われたりする聴覚的な情報は、不思議なほどない。大抵は、自分や他の誰かがなにかをする光景を見る、いわば視覚的情報が脳内で再生される。あるいは起きた後、そうした視覚的情報しか覚えておけない。


 だから、今俺が声を出せないということは、今の俺は夢の中の産物であることを意味している。そう認識しているからこそ、これが明晰夢だと断定できている。


 俺は足を動かし、ベッドの脇に立った。考えるより先に体が動いた。


 そして、首を捻って扉の方を見る。これも勝手に。


 縦に長い黒い長方形をじっと見つめる。理由は分からない。分かろうとする気にもならない。


 不意に、部屋が震える。空気が揺れる。


 継続的に振動が襲ってくる。俺の体はぐらりと傾き、ベッドに後ろ手を突く。


 だが、視線は外さなかった。外れなかった。


 太鼓を打ち鳴らしたときのように扉が響く。強い力で廊下側から叩かれている。


 音はしなかった。聞こえなかった。耳が拾ってくれなかった。けれども確かに扉が震えている。揺れている。


 一際大きく部屋が揺れた。柔らかいマットレスに尻餅を突いてしまう。


 扉の木製の板材の、中央の辺りがいびつに凹んだ。隙間が開き、廊下の闇となにかの黒い影が見える。


 黒い影は動いている。ちょうどドアを叩く人のように、上半身をしならせては扉にぶつける素振りを何度も繰り返している。


 扉の向こうにいるのは人なのか?扉を壊すくらいの怪力の持ち主なのか?これらの疑問は、ただ浮かんできただけだった。夢の中では考えることができない。


 俺はただじっと、廊下にいる存在が扉を破るのを見ていることしかできなかった。


 寝室と廊下を区切る黒い板がまた大きくひしゃげる。反り返り、歪み、しなるように曲がる。


 恐怖はなかった。感じることができなかった。夢だからだ。妙に達観して今の風景を受け入れている。


 やがて、扉が壊された。板材が真ん中から二つに割れ、ばらばらになった破片が飛んでくる。ドアノブが外れて落ち、ごとりと床を打つ。


 俺はそれを、ただ見ていた。夢の光景の一部として再生していた。


 廊下にいたのは、今寝室へと踏み入ったなにかは、真っ黒だった。大きな両腕と両足。小さな頭。胴は細く、胸部は横並びに二カ所が膨らんでいる。


 頭の先から爪先まで真っ黒だった。動物園で見るゴリラがマシに思えるくらいに暴力的な見た目をしている。


 顔に相当する部分も真っ暗だった。目鼻立ちも表情も分からない。黒く翳っている。


 ゴリラのような怪物はその場で口を開けた。正確には、口を開ける前の素振りを見せ、頭を震わせた。


 音は全く聞こえないが、空気が揺れた。ベッドのシーツが風圧ではためき、壁の額縁が振動する。天井のライトの光が乱れ、点滅する。


 俺は耳を塞ぐことすらできない。これがもし現実なら、鼓膜が破れるまではいかないが、聴覚に支障を来していたことだろう。だが、これが夢で良かったと幸運に思うことすらできない。


 逃げようともしなかった。始めから選択肢にないかのように、頭が逃げようと考えることを考えてくれなかった。俺はただベッドに座って化け物を見ていた。


 化け物はひとしきり吠えた後、両腕と両足を床に突いて、ゆっくりとにじり寄ってくる。その所作もゴリラを彷彿とさせる。


 夢の中の怪物は、すぐに俺の目の前まで来た。不意に右腕を持ち上げる。大きな腕が天井の光を遮り、太陽が雲に覆われたときのように視界が暗くなる。


 殴られる。この怪物に殴られる。殺される。俺の頭は寸前まで、これから俺の体が受けるであろう仕打ちについて予想していた。


 そして、『寸前』はすぐに終わった。


 目で追えないほどの速度で振り下ろされた化物の右腕が、腰かけて呆ける俺の左の二の腕に吸い込まれていったのが、俺が夢の光景として思い出せる最後の瞬間だった。



 ※※※



 この春文学部の大学三年生に進級し、常識では測れない怪異をも調査する探偵、自称怪異探偵でもある雛菊香ひなぎくかおるは、とある人物にとある高級ホテルのラウンジまで呼び出されていた。


「お久しぶりです、宝田さん」


「言っても一カ月ぶりでしょ。雛菊さん」


 香の丁寧な挨拶に、今をときめく二十六歳の清純派モデル、宝田純夏たからだすみかはからっと笑う。


 仰る通り、彼女と顔を合わせたのは約一ヶ月前の降霊術の件ぶりだ。非業の死を遂げたジュエリーブランドのオーナーの霊魂が現世に降り、香たちと会話を交わすという奇蹟が実現したあの日に、香は純夏と知り合った。


 それ以来、香は純夏とやりとりすることはなかったが、純夏は香を信頼の置ける探偵として認識していたようだ。香のSNSアカウントにメッセージを送る形で正式に依頼をしてきたのが、つい二日前のことになる。


「一週間前に殺害された、亀山頼真かめやまらいまさんの件についてとメッセージにはありましたが」


「ええ……」


 ふかふかの革張りの黒いソファにゆったりと腰かけている純夏は、背筋をぴんと張ったまま、ガラステーブルの上に置かれた白いティーカップを持ち上げ、口元に運ぶ。アールグレイを音を立てずに啜り、ほうと小さく溜め息を吐いた。


「雛菊さんは知ってる?亀山頼真のこと」


「いえ、お恥ずかしながら名前を聞いたこともありませんでした。事件の報道や宝田さんの依頼を受けて調べたときに初めて知りました」


「そう。私の業界ではそこそこ名が通っていたけれど、世間ではそこまでなのね」


 私の業界、つまりモデル業界では名が通っているということを、純夏は嫌味とも受け取れる言い方で言ったが、香は少しも不快に感じなかった。


 事前の調べで、言葉の真意を理解しているからだ。


「フリーのカメラマンだったそうですね。宝田さんも懇意にしていたとか」


 香は投げかけてから、グラスになみなみと入ったアイスコーヒーを、口の細いストローで吸い上げて口に含む。


「ええ。彼の仕事は一流だった。マネージャーや事務所の上役に頼んで、できる限り彼に撮影をお願いするようにしていたくらいにはね」


「そうだったんですね。それほど亀山さんの撮る写真は素晴らしかったのですか?」


「今思えば、美的感覚が私たちと近かったんでしょうね。天樹さんも美楽さんも絶賛してた」


 過去を懐かしむような、アンニュイな面持ちで純夏は語る。


「被写体であるタレントの美を、どこまでも追求する熱心な写真家だった。ときにはタレントのモチベーションの低さを敏感に察知して、撮影を中断してトラブルになるくらい、写真に情熱を注いでいたの」


「フリーランスの方に特有の、自己主張の強さがあったんですね。もちろん、良い意味で言っています」


「会ったことない人にそう言い切れるあなたも強いわよ、自己主張」


「そうですか?」


「そうよ」


 見事に揚げ足を取られたが、香はちっとも気にしていなかった。


 純夏も冗談のつもりで言った。軽口を叩ける相手との会話を楽しんでいるかのごとく、眩しい笑みを崩さないでいるのがその証拠だ。


 両者澄ました顔で、飲み物を摂取する。


「……それはともかく、宝田さんは亀山さんの死に疑問を抱いているわけですね?」


「ええ」


 純夏は頷きながら、


「最近の彼、なんだか変だったもの」


「変?具体的に、どの辺りが変だったんですか?」


 香は前のめりになって聞く。


「最初におかしいと思ったのは、三か月くらい前だったかしら。雑誌の表紙の撮影をお願いしたときのことよ」


「はい」


「彼は右利きだけれど、撮影のときは左手もよく使っていたのね。カメラを支えてぶれないようにしたり、指差ししてタレントに指示したり。書類や手帳を持つのも左手だったはず」


「利き手じゃない左手もよく使われていたと」


「そう。それで、その日もスタジオで撮影をしていたんだけど、彼、左腕を怪我していたの」


「怪我ですか」


 それ自体は不思議なことではないが……。


「動かすのも辛そうにしてた。カメラに手を添えると震えてしまって逆効果だったし、指差しはわざわざカメラを手放してから右手でやってたの。左手で持っていた物を何回も落としたりもしていたわ。拾い直すときも顔をしかめていたし」


「それで、具体的にどう怪我したか、怪我の程度などを尋ねたんですね」


「ええ。見てる私たちまで痛々しく感じるほどだったから。撮影が終わった後、急いで帰ろうとする亀山さんを呼び止めて聞いてみたの。そうしたら……」


 純夏は息を呑み、短く息をついた。


「……車に轢かれたそうなの。いや、正確には、サイドミラーを当てられたって。病院で診てもらったら、左の二の腕の激しい打撲に加えて、二の腕の骨にヒビが入ってたそうよ。お医者さんには手術を薦められたけど、仕事があるからと最低限の処置だけで済ませたって言ってた」


「交通事故に遭っていたんですか。車の運転手とは話し合ったのでしょうか。過失の有無を厳密にする必要があると思いますが」


「私も気になって聞いてみたんだけど、いわゆる轢き逃げをされて、運転手を見つけることができなかったそうよ。車のナンバープレートも覚えていないって」


「それでは、亀山さんは泣き寝入りしたということですか」


「残念ながら、そうね」


 純夏は紅茶を一口飲む。


「あと、これは亀山と話したときに気づいたんだけど、彼の目の下にすごい隈があったわ。きっと、事故の影響でろくに眠れていなかったんじゃないかしら」


「睡眠にも支障が出ていたと。亀山さんは眠そうにしていたんですか?」


「いいえ。撮影のときはいつもと変わらない感じだったけれど、合間合間で眠気覚ましのタブレットをブラックコーヒーで流し込んでいたわ。相当無理やり起きていたんだと思う」


「それは重症ですね……」


 香は顎に手を当て、眠気覚ましのタブレットとブラックコーヒーを組み合わせたものの味を想像する。


「変なところはまだあるわ。一ヶ月くらい前、降霊の数日前に、写真集の撮影をお願いしたときに……。あ、私が写真集を出すことは内緒ね。亀山のことがあって延期になったの」


「心得ています」


「それで、亀山と会ったら、彼、右肩と左足に包帯を巻いて、松葉杖を突きながらやってきたの」


「大怪我ですね。また事故に巻き込まれたのでしょうか」


 一度ならまだしも、二度とは。しかも短期間のうちに。それなら、純夏が変だと思うのは当然のことだ。香は納得する。


「気になって聞いてみたら、階段から転げ落ちたそうよ。階段を下りようとしたら、後ろから背中を押されたって」


「また、相手の分からない事故に遭ったわけですか」


「そういうこと。背後からだから、誰に突き飛ばされたのか分からないって言っていたわ。右肩が脱臼して、左の脛の骨が骨折、全身青痣だらけになって病院に運ばれたそうよ」


 一回目と二回目で内容は異なるものの、犯人が不明という共通点まであるとは。香は二つの事故の関連性を疑わざるを得なくなった。


「ねえ、雛菊さん。亀山は、誰かに命を狙われていたんじゃないかしら」


「今の話を聞く限りでは、そう思えますね。二度は大丈夫だったものの、三度目にして命が奪われてしまった、という可能性は大いにあります」


「まだ、犯人は捕まっていないのよね?」


「少なくとも報道ではそうなっていますね。警察が捜査中とのことです」


「そう……」


 ここで純夏は、香にまっすぐな視線を投げかける。


「それじゃあ、依頼してもいいかしら?」


「はい、もちろんです」


 香も背筋を伸ばした。


「亀山を傷つけ、命を奪った犯人を見つけてください。これが私の依頼よ」


「はい、承りました」


 香はしっかりと応え、正式に依頼を受諾する。


 その様子をしっかりと目に焼きつけてから、純夏は立ち上がった。香も続く。


「ありがとう。頼りにしてるわ」


「任せてください」


「それじゃ、仕事があるから」


 短い言葉を交わし、純夏はラウンジをあとにする。だらだらと無駄話はしない、仕事熱心な彼女らしい別れ方だった。


 会計はいつの間にか済まされていた。


 二


 また夢を見ている。ここが夢の中だと認識している。明晰夢の中で俺は目を開ける。


 寝室がめちゃくちゃに荒れているから、ここ数日はリビングのソファで寝ていた。枕と掛け布団をわざわざ持ってきて、かろうじて体を伸ばして横になれる幅広のクッションの上で寝ていた。


 上半身を起こす。まだ寝ぼけている。思考が定まらない。夢の中だから深くは考えられないが、これから起こることを認識するくらいには目覚めなければならない。きっとこれも悪夢のはずなのに、俺はそう思って頭をクリアにしていった。


 部屋の明るさに気づく。明かりがついている。白いLEDの天井の照明がオンのままだった。


 手前には黒のローテーブル。反対側には俺が寝ているのと同じ大きさのソファがある。


 奥には足の高い木製のダイニングテーブルと四脚の椅子。無機質な白の光に照らされ、木の温かみは感じられない。


 俺から見て左側の壁にある扉は廊下に通じていて、右側には外に出れる大きな窓がある。小さいながらも縁側と庭つきだ。ただ、今は薄緑色のカーテンで固く閉ざされている。


 いつものリビングだ。ここが夢の中であるということ以外は、寝る前に認識していた部屋の光景と一致する。


 テーブルと椅子の向こう側の壁際はキッチンになっているところも同じだ。金属質のシンクや蛇口、コンロの表面が白色光を鈍く反射し、怪しく輝く。二組の茶碗と白い平皿、透明なグラス、スプーンやフォーク、箸といった食器類がシンクの脇、乾燥用の大きめのかごに収まっている。


 そして、白い冷蔵庫の前に……。


 俺は息を吞んだ。叫べるのなら叫びたかった。痛みは感じないはずだが、殴られた左腕が疼いた気がした。白い冷蔵庫の前に、あの黒い怪物がいた。両手両足が太く大きく、その割には顔と胴が異様に小さい、全身真っ黒のゴリラのような怪物。


 それが、冷蔵庫の扉を開けて、中を観察するように覗き込んでいた。さながら献立を決める主婦のように、庫内の青白い光に照らされながら佇んでいた。


 俺は目が離せなくなった。化け物の全身に釘付けになっていた。だが、なぜか足が動いた。体を捻って、ソファとローテーブルの間の空間に両足を投げ出す。その勢いで立ち上がる。


 音は聞こえないが、していたのだろう。あるいは気配の揺らぎを察知したのか。どちらかは分からないが、黒い怪物は反応した。右腕で扉を乱暴に閉め、俺の方を振り返る。


 その怪力により扉が勢いよくぶつかり、頑丈であるはずの冷蔵庫の蝶番が弾け飛ぶ。一旦見えなくなった庫内の明かりが再び漏れ出し、衝撃で調味料や惣菜のパックがぼとぼとと落ちる。


 怪物はそんなことなどお構いなしに、俺を見ていた。相変わらず両目は確認することはできないが、見られていると俺は感じた。


 一瞬とも永遠とも言える静寂が流れる。俺は怪物を見、怪物は俺を見ている。


 睨み合いにも等しかった。無論、俺は威嚇するつもりで見ているのではない。夢に従わされ、恐怖と困惑の感情を以て怪物を見ているのだ。


 一方、怪物の方はそうではない。いや、向こうがなにを考えているのかは分からないが、少なくとも危害を加えようとはしている。突き刺さる視線からそう感じる。


 ふと、怪物の頭が動いた。前と同じように、多分吠えた。途端に空気が震え、照明が明滅する。食器が互いにぶつかり合い、ガラス製のものは割れて砕ける。ソファの表面が波打ち、ローテーブルが振動する。


 数秒間ほど咆哮がリビング中を駆け巡った後、怪物は鳴くのをやめた。フローリングの床に両腕を突き、のそのそとカウンターを回り込んでくる。数歩でダイニングテーブルまでやってきた。


 俺にできることはなかった。棒立ちで、露わになった怪物の全身を眺めることしかできない。


 怪物がすぐ近くまで来る。向かいのソファを押し潰し、ローテーブルを薙ぎ払って、俺の前に立つ。ソファもローテーブルも、音もなく飴細工のように破壊された。


 近くで見るとよく分かる。皮膚というか、体の表面が黒々としている。顔に表情は見受けられない。体と同じく漆黒に塗り潰されている。


 怪物がゆっくりと腕を持ち上げる。今回も右腕だった。


 ああ、また殴られる。俺の頭はそう考えることしかできなかった。いつもの家の中で、いつもではいるはずのない怪物に標的にされ、暴力を受ける。まだ二回目だが、それ自体が明晰夢においてのいつものことになってしまった。


 そして唐突に、黒い大きい右腕がぶれる。気づいたときには、俺の左足に丸太のような黒いものが突き刺さっていた。


 それが怪物の腕だと理解できたところで、俺の意識は途切れた。



 ※※※



 純夏から依頼を受けた香は、本格的な調査の一段階目として、警視庁捜査一課一係の畠山巡査部長に電話をかけた。刑事から情報を得ようという魂胆である。


「もしもし。どうした探偵さん」


 数コールの後、だるそうな低い声で定型の挨拶がやってくる。


 もしかして、当たりか。香は失礼なことを思った。


「実は、一週間前に起きた亀山頼真さんというフリーカメラマンが殺害された事件を調べているのですが……」


「耳聡いな。宝田純夏からでも依頼されたか」


「畠山さんこそ鋭いですね。その通りです」


「彼女の名前も挙がっているからな。繋がりを考えたら想像はつく」


「流石です」


「世辞はいい。薄っぺらい」


 散々な言われようだ。だが香は気にしない。


「で、なにが聞きたい?俺は今絶賛その事件を捜査中なわけだが」


「それは都合が良い。なるべく詳細に、全て教えてください」


「全てだと?」


 スマホ越しに若干の沈黙が流れる。どうせ頭を掻いているのだろうと香は想像する。畠山の困ったときの癖だ。


「まあ、下手にうろちょろされても困るか。終わった事件を掘り起こされるのはあれだが……」


「聞こえてますよ」


「聞かせてんだよ!どうせまた現場に行こうとするだろ?」


「よく分かりましたね」


「ったく……」


 畠山はぽりぽりと、また頭を搔いた。


「じゃあ、始めに最も大切なことを教えておく。つい数時間前、ホトケさんを殺害したと思われる被疑者を同行した」


「『終わった事件』とはそういうことでしたか。捜査の末、犯人を特定することができたというわけですね?」


「本当に耳聡いな。そうだよ」


 畠山は溜め息をつく。


「犯人はどなただったんですか?」


「フリーで動画編集を生業にしてる、後藤という男だ。わけの分からないことを言われて、怖くなって殺したと供述している」


「自白も取れているんですね。それでは、事件の概要と犯人に至った経緯を教えてください」


「ほんとに全部聞き出すつもりだな」


「そう言いましたよね」


「……まあいい」


 畠山は捜査関係者として思うところがあるが、諦めたようだった。


「事件は一週間前の三月三十一日の深夜に起きた。後藤によると零時過ぎに亀山さんから連絡があり、一時すぎに亀山宅へと向かったそうだ」


「現場は被害者の自宅だったんですね」


「ああ。亀山宅は1LDKの平屋の戸建てで、ホトケさんはリビングの床に寝た状態で発見された。後藤はわけの分からないことを言う亀山さんと口論になり、次第に取っ組み合いに発展。亀山さんは突き飛ばされた弾みでローテーブルの角に頭をぶつけ、動かなくなった。それで余計に怖くなり、亀山宅をあとにしたそうだ」


「二、三、いいですか?」


 香は畠山が話したことの中で、疑問に思ったことを率直に伝えた。


「ああ、いいぞ」


「まず、亀山さんと後藤さんの関係はどんなものだったんですか?」


「ビジネスパートナーだな。元請けと下請けとも言える。仕事に応じて、亀山さんが撮影した画像や動画を、後藤に編集を頼むことがあったらしい。アニメーションや映像関係のことは後藤の方が詳しかったから、亀山さんが謝礼を払う形で仕事を与えていたそうだ」


「なるほど。となると後藤さんは亀山さんより若い?」


「よく分かったな。後藤はまだ二十五だ」


 亀山頼真は三十九歳。報道されていたので香は把握していた。


「映像や動画編集技術は比較的、ここ数年で普及してきた技術ですからね。SNSや動画、ライブ配信などのコンテンツがより身近で、より親しんできた若年層の方がそれらの能力が高い傾向にあります」


「そうなのか。俺にはよく分からんが……」


「ネットに強いか、そうでないかの話ですね」


 脱線しました。香はそう続け、次の質問をする。


「次に聞きたいのは、亀山さんが言っていた『わけの分からないこと』についてです。後藤さんはどういった内容のことを言われたんですか?」


「それがな、実は……」


 畠山は急に口ごもった。言いづらそうに、特に香に対して言いづらそうに、慎重に言葉を選ぶときの緊張感が伝わってくる。


「怪物に襲われていると、言われたそうだ。『夢の中、明晰夢とかいうやつの中で、真っ黒な怪物に襲われ殴られた。夢から覚めると部屋や車の中がめちゃくちゃに荒らされていて、殴られた部分に怪我ができている。夢の中で暴行されたとしか思えないのに、現実にその影響が現れている。もう意味が分からない。助けてくれ』。そう泣きつかれたそうだ」


「夢の中で、真っ黒な怪物……」


 香は畠山の言葉をゆっくりと飲み込むように、頭で理解していく。同時に、純夏の言っていたことも思い出していた。


 三か月前に左腕の打撲と骨にヒビ。一か月前に左足の骨折と右肩の脱臼。一致している。亀山の怪我と『わけの分からないこと』の中身がリンクしている。


「ああ。怪物はともかく、亀山さんは実際に怪我をしていた。遺体は左の上腕骨と左の脛骨と腓骨、要は脛の辺りの骨と右の鎖骨と肩甲骨辺りに治療した痕があった。そして、上腕骨は骨折手前、脛の骨は完全な骨折、鎖骨と肩甲骨は脱臼に伴う剥離骨折と診断され、近くの総合病院の整形外科で手術した履歴が残っていた。聞き込みに行ったら、医師は誰かに暴行されたのではないかと言っていたな」


「『夢の中で暴行されたとしか思えないのに、現実にその影響が現れて』いた、というわけですか」


「亀山さんの言ったことを真に受けると、そういうことになるな」


 決して茶化すことも忌避することもせず、畠山は告げた。


 刑事は、夢と現実の両方に作用する怪物が、常識ではありえない怪異が実在するかもしれないという可能性を、慎重に吟味するつもりのようだ。


「亀山さんは怪我の理由を医師に問われると、左上腕のときは『車に轢かれた』、左脛と右肩のときは『階段から転げ落ちた』と応えたそうだ。だが医師の見立てだと、いずれの怪我も大きなものを強い力で打ちつけた結果できた傷の疑いが強いそうだ。サイドミラーにぶつかったり、数十段の階段から落ちた程度でできる外傷ではないと」


「亀山さんは怪我の本当の原因を言えなかったんですね。夢で襲われたなんて、とても言えるはずがありません。医師の方もなにかを察して、深く追求することをしなかった」


「そういうことだ。ただ医師は怪物ではなくて、DVを疑っていたそうだがな」


「DV?もしかして、奥さんが?」


「ああ。それがな……」


 また言いづらそうになる畠山。


 亀山が三年前に結婚したことは、香は知っていた。彼の生い立ちを特集した番組の中で、彼は当時有名だった女優の時雨京華しぐれきょうかと入籍していた、とあったからだ。


 時雨は結婚を機に引退、当時の報道では結婚相手は一般男性であると発表されたのみだったが、今回の事件により亀山であると明かされた形になる。


 その時雨京華が、DVをしているかもしれない?確かに、現役時代から気の強さが有名だったが……。必ずしもDVは、男性から女性にされるものとは限らないが……。


「実は、妻の時雨京華と連絡が取れていない。というか、亀山さんと一緒に住んでいる形跡すらなかった。亀山宅に捜査に入ったが、彼女が暮らしていた痕跡がどこにもなかったんだ」


「1LDKの戸建ては、夫婦で住むために手に入れられたはずですよね?」


「ああ。不動産業者から話を聞いたが、やはり三年前に二人で物件を決め、ローンを組んで住宅を購入したそうだ」


「それなのに、時雨さんは住んでいなかった。別居したんでしょうか?」


「分からない。時雨の両親は既に死去している。帰る実家というものは存在しない。どこか別の場所に物件を所有してそこに住んでいる可能性もあるが、亀山さんが亡くなっている以上、その住所を知っている相手がいない。俺たちの捜査も、時雨京華に関してはストップした状態だ。遺族でもあるから、見つけ出さなくてはいけないんだが……」


「離婚はされていないんですよね?」


「ああ。役所で確認した。離婚はしていなかった」


 夢の中で怪物に暴行され、頼りにした相手に殺された夫と、音信不通で住所不定の妻。不可解な点が多い。


 多いが、いや多いが故に、香には気づいたことがあった。


「もう一つ、聞きたいことができました」


「なんだ。ここまできたらもはや捜査機密なんてくそくらえだ。なんでも聞け」


「亀山さんはなぜ、怪物に襲われたことを奥さんの時雨さんではなく、後藤さんに相談したのでしょうか?」


「ああ、そういえばそうだな」


 畠山は閃いたかのように声色を弾ませた。


「考えられる線としては、力の弱い女性に相談してもどうにもならないと思ったか、あるいは、亀山さんも彼女の連絡先を知らなかったか。後者だとすると、亀山さんは時雨京華が行方不明であることを隠していたことになるな」


 亀山宅に痕跡がないなら、亀山は時雨と住んでいないことになり、DVの線はなくなる。ただそうなると、亀山が夢の中で怪物に襲われ、現実で部屋を荒らされて怪我をしたことが本当になってしまう。『夢現の怪物』と呼ぶべき怪異が実在することになる。


 香はそこまで思い至った末に、言った。


「それかあるいは、いえ……」


「なんだ?なにに気づいた?」


 畠山は声に宿る興奮を隠さずに詰める。が、香は強情だった。


「それを話す前に、もう一つ聞きたいことがあります」


「……なんだ」


「亀山さんのお家には、怪物に荒らされた形跡はあったのでしょうか?後藤さんが聞いた『わけの分からないこと』の中に、『夢から覚めると部屋や車の中がめちゃくちゃに荒らされていて』、とありましたが」


「ああ、そのことか」


 畠山の声が少しトーンダウンする。


「三か月前、つまり亀山さんが最初に怪我をしたのと同じくらいの時期に、亀山さんは内装業者に部屋の修繕を依頼していた。業者によると、寝室の扉が完全に破壊されており、廊下の床の一部が重いものを落としたかのようにへこんでいたそうだ」


「ほう」


「さらに、一か月前に亀山さんは自家用車を廃車としてカーディーラーに引き渡したことも確認されている。その車も、あちこちが折れ曲がったりへこんだり、ガラスが割れていたりしていたとのことだ。あと、家電量販店で冷蔵庫を、家具店でローテーブルとそれに合うソファを購入したことも裏が取れている。これは約二月前のことだ」


「怪物は、三か月前は寝室、二か月前はリビングダイニングキッチンに、一ヶ月前は車の近くに現れた。そして、現実の設備や家具を破壊し、亀山さんに怪我を負わせた。そういうことになりますね」


「ああ。信じがたいが、そういうことになるな」


 香といくつかの不可思議な事件事故に関わってきた畠山は、警察に身を置きながら怪異の存在を肯定している。『夢現の怪物』を一笑に付すことなど、できなくなっているのだ。


「警察の表向きの見解はどうなっていますか?亀山さんが怪我をしていたことや、時雨さんが行方不明となっていることについての見解です」


「そうだな。正直に言うと、どちらも事件そのものとは関係がないとして、捜査の重点には置かれていない。亀山さんの言っていた通り、サイドミラーを擦って階段から転げ落ちて怪我をした。時雨京華は別居したか、夜逃げしたかして亀山さんの下から蒸発した。そう断定している」


「そうですか。亀山さんは誰かに轢かれたり階段から突き落とされたと言っていたそうですが、そちらの二件については事件として追う気はないのですか?」


「誰から聞いたんだ?亀山さんが誰かに狙われていると吹聴していたのは確かにその通りだが……」


「宝田さんからです」


「ああ、そうだったな」


 今度はついさっきのことをド忘れしたことの照れ隠しで、畠山は少しの間無言の間を作った。


「……後藤が見つかるまでは、俺たちはその線で捜査していた。だが、吹聴された誰に聞いても轢かれたり転げ落ちた階段の場所は聞かされなかったと言っているし、警察にもそれらしき事故関連の通報も記録もなく、捜査が進められなかったんだ」


「二つの事故の目撃者も見つからなかった?」


「ああ。数日間、それなりの数の人員で亀山さんの行動範囲を聞き込みしたにもかかわらず、見つからなかった」


 畠山はきっぱりと言った。


「では、事故そのものがなかったと考えてよさそうですね。時雨さんの所在は分からないままですが……」


「亀山さんの事故と並行して関係者に広範な聞き込みをしたが、誰もが亀山さんと同居して暮らしているものと思っていたらしい。所在を知っている人は誰もいなかった」


「そうですか……」


 香は顎に手を当て、考える。


 ますます、あの可能性であることが濃厚になってきた。


「……最後に、聞いてもいいですか?」


「なんだ?」


「畠山さん、事件の経緯のとき、『亀山さんは突き飛ばされた弾みでローテーブルの角に頭をぶつけ、動かなくなった』と仰いましたよね。『亡くなった』ではなく、『動かなくなった』。もしかして、亀山さんはそのときに亡くなっていなかったんじゃありませんか?」


「鋭いな。その通りだ」


 畠山は一度息を吸ってから、話し続ける。


「ホトケさんの後頭部には、二か所の打撲痕があった。一度目の方が軽傷で、これが後藤に突き飛ばされたときにできた傷だろう。そして、二度目の打撲では、脳挫傷が起きてほぼ即死するほどの衝撃が加えられた」


「その、二度目の打撲が怪物によるものだということは考えられませんか?」


「いや、これもローテーブルの角にぶつけてできた傷だと判明している。二か所ともほぼ同じ形の打撲痕が検出され、それらはリビングにあったローテーブルの角と同じ形だった。角には血痕がべったりだったし、鑑識と科捜研の総意だから間違いではないだろう」


「なるほど」


「警察の見立てでは、一度目の打撲で気絶した亀山さんは数十分後か数時間後に意識を取り戻し、ふらついて転倒。再びローテーブルの同じ箇所に頭を強く打ちつけて死亡した、としている。だから後藤は殺人ではなく、過失致死の疑いで引っ張ってきた」


「そうですか」


 苦しいが、なくはないシナリオだ。警察はそう決めつけるしかないだろう。『夢現の怪物』はいないと見なすしかないだろう。


 香の疑問は外れたが、むしろそれで確信が深まった。


 間違いない。亀山頼真は、時雨京華は……。


「畠山さん」


「なんだ」


「全て分かりました」


「なに!?今の話だけで分かったのか!?やっぱり怪物が亀山さんを追い詰めていたのか!?」


「いえ、怪物が、『夢現の怪物』が亀山さんを殺したんですよ」


「どういうことだ?教えてくれ!」


「その前に一つ、お願いしたいことがあります」


 結論を急ぐ畠山に香は『待った』を持ちかけ、口頭であることをお願いするのだった。


 三


 夢を見ている。二月前と一月前見たのと同じ、明晰夢を見ている。俺はそう認識する。


 ゆっくりと目を開ける。運転席のシートを限界まで倒して、俺は狭くも広くもない車中で横になっていた。


 暗く翳った灰色の天井がすぐ上にあり、圧迫感を覚える。できるのなら、こんなところで寝たくなかった。夜を明かしたくなかった。明晰夢の中に落ちたくなかった。


 新しくなった寝室やリビングには身を置けなくなっていた。寝るのはもちろん、怪物が現実にも現れるのではないかと気が気でなく、家の中にいること自体がストレスになった。


 だからここ一週間ほど、自家用車で車中泊をしていた。そして今夜こうして、化け物が出る明晰夢を見てしまっている。


 俺は体を起こす。寝室でやったように。リビングでやったように。ゆっくりと。


 ぼーっとする頭が思考できるようになったら、俺は周囲を見る。


 シートは、俺が寝ている運転席のものは後ろに倒されてあり、他の三つは直立したままにしてある。


 手前の足を伸ばしている辺りはハンドルやギアレバー、各種操作を行うスイッチパネル、速度やガソリンのメーター、アクセルペダルとブレーキペダルがある。俺の車のいつもの運転席周りだ。


 念のため、後ろの席を覗き込む。直立のシートが二つ、並んでいるだけだ。


 その後ろはどうか。俺は身を乗り出そうとするが、できない。夢の中の俺がそうしようと思ってくれないのだ。


 夢の内容は初めから決まっているものだ。夢の最中に俺が考えて行動することはできない。俺は夢のシナリオに沿って、決められた行動をさせられるだけだ。


 前に向き直る。夜のはずなのに、外が明るい。オレンジがかった光だ。駐車スペースの地面に埋め込まれているライトの明かりだった。動体を検知すると下から上に照らしてくれる。


 フロントガラスの上部にはバックミラー。交通安全の赤いお守りが吊るされてある。


 そして、オレンジの光の奥に、黒い化け物はいた。佇んでいた。俺のことを見ていた。顔は暗く、目も分からないが、俺のことを見ていると俺は知覚した。


 化け物はまた吠えた。寝室やリビングでやったように顔を上げ、すさまじい威力の咆哮を放つ。しかし、聞こえない。俺の耳には届かない。


 されど、空気が振動する。車全体が揺れる。フロントガラスにヒビが入り、バックミラーが震える。お守りが振り子のように左右に振られる。


 相変わらず、俺にできることはなかった。鳴き声を受け止めることしかできなかった。


 唐突に化け物は静かになった。車の揺れが収まったから、そう思われる。


 そしてやはり、腕を突いてのそのそと接近してくる。俺は見ていることしかできない。


 化け物が照明のある辺りに到達する。光が遮られ、黒い全身が一層暗く翳った。


 化け物の見た目は前と同じだった。太く大きな腕と足。小さく表情の伺えない顔。胸の双丘、細い胴と腰周り。なにも変わっていなかった。


 化け物が車のすぐ前まで来る。しかし止まらず、右から回り込んで、サイドミラーに触れるか触れないかくらいの位置で停止する。


 間違いない。今回も俺を狙っている。俺を襲おうとしている。腕で殴ろうとしている。


 そう理解できたが、やはり体が動かない。夢のシナリオ通り、殴られるのを大人しく待つことしかできない。


 化け物が腕を持ち上げる。今回は左腕だった。右腕はボンネットの一角を握る形で添えられる。灰色のボンネットが紙くずのように丸め潰される。


 首をすぼめる体勢になり、小さな黒い顔が右のウインドウ近くまで接近した。


 俺は顔を見る。黒々としていて、やはり目も鼻も口もないように思える。表情の区別などつかないように思える。


 しかし、なぜだろう。俺はその顔に見覚えがあった。感情が読み取れない仮面のような冷ややかな顔に、見覚えがあった。


 誰だ?俺は誰を、この怪物と重ね合わせようとしている?思い出せそうで、思い出せなかった。夢の中にいるせいだろうか。


 では、他の部分ではどうだろうか。数秒後には殴られるのに、俺は冷静になっていた。


 暴力的な形に発達した両腕と両足。これらもなぜか、初めて見るものではないと感じる。


 豊かな胸部に抱き心地の良さそうな細い胴、引き締まったウエストも、どこかの誰かのそれと類似していると認識できる。


 誰だ?俺は誰を、この怪物と重ね合わせようとしている?疑問は疑問のままだった。


 怪物は当然ながら待ってくれない。思考がまとまらない頭を持つ俺の前で、無慈悲に黒い左腕は振り下ろされた。


 ピラーをひしゃげさせ、ウインドウとフロントガラスを粉砕しながら、俺の右肩に真っ黒な上腕が食い込むのを視認する。


 ああ。俺は声にならない声を上げた。全てを思い出した。


 この怪物は……。この怪物は、俺の……。


 夢は終わりを迎えた。



 ※※※



 香は前に会ったホテルの一階のラウンジに、宝田純夏を呼び出した。


 依頼を受けたときと同じ席に座り、同じ飲み物を注文して一息ついた後、香は口を開く。


「お忙しい中、ありがとうございます」


「全部分かったんでしょ?なにを差し置いてでも来るわよ。犯人は捕まったってニュースにあったけど、いまいちしっくりこないし」


 純夏は控えめに微笑みながら言った。


 彼女がしっくりきていないのは、やはり亀山が亡くなる前に『命を狙われている』と漏らし、実際に怪我をしていたからだろう。ニュースや新聞、雑誌などのメディアでは動機の部分はあやふやにされ、衝動的に亀山を死なせるに至ったという報道のされ方をしている。


「はい。おそらく私の推理は合っています。そして、それを裏付ける証拠も既に発見されました」


「じゃあ、聞かせてくれるのね?」


「はい。この場をお借りして依頼を達成させて頂きます」


 香は自信満々に言った。ストローを豪快に吸い込み、アイスコーヒーを飲む。


「結論から言うと、報道の通り、亀山さんは仕事仲間の一人の手によって命を落としました。しかし、その人には殺意はなかった。亡くなり方も少々特殊で、殺人ではなく過失致死の疑いが認められました」


「何度か命を狙って怪我を負わせたのに、犯人に殺意がなかったの?」


「そこです。そこが事件を複雑にしていました」


 素朴な疑問を犯人への恨みを込めて言う純夏に、香は人差し指をぴんと立てて応えた。


「亀山さんが亡くなるに至った経緯と、それ以前に大きな怪我を負っていたのには関連性がありますが、怪我は犯人がやったことではないのです。更に言うと事件が起こったのも、亀山さんの怪我と関係しています」


「どういうことかしら?犯人は複数いたの?亀山はそんなに恨まれるような人じゃないのに……。わけが分からないわ」


 純夏はお手上げとばかりに両手を上げる。


「順を追って説明します。まず、犯人の供述によると、亀山さんは『夢の中で真っ黒な怪物に襲われた』と言って、事件当時に錯乱状態にあったことが分かっています」


「それって、信じてもいいの?」


「降霊術が実在したんです。『夢現の怪物』が実在しても不思議ではありません」


「そう言われたら、なにも言えないわね」


 純夏はユーモアを聞かされたときのように笑う。


「さらに怪物の存在を裏付ける証拠があります。それこそが亀山さんが負っていた怪我と、家や車の破損です」


「まさか、本当に?」


「ええ、全て本当のことです」


 香は真面目な顔で頷いた。


「亀山さんは周囲の人に『車に轢かれた』、『階段から転げ落ちた』と言っていましたが、それは方便だったんです。本当は夢の中で怪物に襲われ、怪我をしました。おまけに、怪我と同じくらいの時期に、亀山さんが寝ていた寝室やリビングの一部と自家用車が損壊するということが起きました。状況から鑑みて、それらも怪物の仕業でしょう」


「……まさに、夢と現の両方に作用する怪物、ということね」


「そうです」


 香は、純夏の端正な顔をじっと見つめて続ける。


「亀山さんは、家のリフォームや車の買い取りの記録時期から推測して一月に一度のペースで三ヶ月間、『夢現の怪物』に夢の中で襲われ、怪我を負って家や車を損壊された。ここまではよろしいですか?」


「……分かったわ。信じられない内容だけど」


「突飛なのはむしろここからです」


「聞くわ。知りたい」


「『夢現の怪物』は、なにも突然亀山さんの夢に現れたのではありません。宝田さんは、亀山さんの妻である時雨京華さんをご存じですか?」


「ええ、五年くらい前まで俳優をしていた、あの時雨京華でしょ?もちろん知ってるわ。直接会ったことはないけど、亀山から話を聞くことがあったもの。……そういえば、彼女はどうしていたの?今はどうしてるのかしら?」


「その答えを、警察も探していました。三年前、亀山さんは時雨さんと結婚した。二人の婚姻はきちんと役所に記録が残っている。にも関わらず、彼女は今、一切の音沙汰がない」


 香はわざと、そこで言葉を区切った。純夏に目線を送り、理解したかを尋ねる。


 純夏は頷いて返した。目の前の怪異探偵はなにかとんでもないことを言おうとしていると、納得した。


「刑事から事情を聞いた私は、その刑事にとあるお願いをし、その結果、彼女の所在が明らかになりました。……彼女は約一年前に亡くなっていました。遺体が白骨化した状態で、亀山さんの家の庭から発見されました」


「え……?」


 純夏の頭が機能を停止した。


「時雨京華が、亡くなっていた……?」


「死亡届は出されていませんでした。状況から見るに、亀山さんが彼女の死亡に関わっていた可能性が高いです」


 香は淡々と続ける。


「手段や経緯はともかく、時雨京華の死が、『夢現の怪物』出現の引き金になったのは間違いないでしょう」


「そんな……。亀山が奥さんを……?」


「そしてここからは、私の独断と偏見による推測です。証拠は一切ありません。ですがとても重要なことです。聞いて頂けますか?」


「ええ、もちろん」


「ありがとうございます」


 頭を軽く下げ、香の視線が外れる。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には真剣な顔で純夏を見つめ始めた。


「時雨さんは恐らく、亀山さんを虐待していたのだと思われます。家庭内暴力、いわゆるDVを行っていた。それも日常的に」


「……」


「時雨さんが亡くなったのは、亀山さんが度重なるDVに耐えられなくなった結果、手を下してしまったからじゃないでしょうか。衝動的に彼女を死なせてしまった。そしてどうしていいか分からず、遺体を庭に埋めた」


「……」


「そう考えると、『夢現の怪物』の正体が腑に落ちます。怪物は、亡くなった時雨さんの怨念だったんです」


「それはつまり、あの世にいる時雨京華が亀山に干渉したということ?」


「いえ、少し違います。亀山さんの寝室から、市販されている比較的効果の強い睡眠薬が見つかっていることから、彼は睡眠障害を患っていたと考えられます」


「睡眠障害……」


「私と警察が調べた限り、亀山さんが心療内科や精神科を受診した記録はありませんでした。言えなかったのでしょう。誰にも打ち明けられずに不眠を抱え、遂には自責、自罰の意識から、夢の中に怪物が現れるようになった。生前の彼女のように、怪物も暴力的に振る舞った」


「でも、それだと現実で怪我や損壊が起きていることに説明がつかないけど……」


「そうです。なので、ここからは推測を通り越して邪推になります。私の最悪な邪推です」


「聞くわ」


「ありがとうございます。……亀山さんの睡眠障害は、単に不眠になったり悪夢を見るだけに留まらなかったと、私は考えています。夢遊病をご存じですか?」


「ええ、知ってるけど……。まさか」


「はい。亀山さんは悪夢を見た後、夢遊病の症状を発症した。悪夢で見た通りに自分の体を傷つけ、部屋や車を損壊した。一通り暴れてから目覚めたことで、現実の被害を夢の中で起きた暴力によるものだと認識するに至ったのではないか。そう、私は考えました」


「……ない、とは言えないわね」


「そして事件当夜、犯人によって頭を打って気絶した亀山さんは、四度目の悪夢を見た。時雨さんが変貌した怪物に頭を殴られる悪夢です。さらに夢遊病の症状でそれを再現するために、自らローテーブルの角に頭をぶつけた」


「怪物の手で亡くなったと思い込んでいたけど、実は自分で自分を、ということ……?」


「おそらくは。そう考えると、怪物に襲われたものの、亀山さんが現実の物理現象で亡くなった状況を説明できます」


 香は息継ぎをする。純夏が紅茶を飲む。ティーカップとソーサラーがぶつかるカチャンという音がやけに響く。


「暴力を振るってくるが、愛して結婚までした人を死なせてしまった亀山さんの心中は、到底察せられるものではありません。悪夢と連動した夢遊病という奇妙な症状が起きていたとしても、不思議ではありません」


「確かに、そうね。逆に、今の話以外で納得できる説明は、私には思いつかない。雛菊さんの邪推を、私は信じるわ」


「ありがとうございます」


 香は、今度は深く腰を折って応えた。


「私の話はこれで以上です。近々警察が、今度は時雨京華さん遺棄の件について話を聞きに来ると思います。ご協力をお願いします」


「私でよければいくらでも力になるわ。それが彼への手向けになるもの」


「手向け……。確かにそうですね」


「時雨京華のDVと亡くなったこと、それと彼が気を病んでしまったことに、私や周りの人が気づかなかったのが悪い、とは思わないことにするわ。『夢現の怪物』はもう、これっきりよ」


「ぜひそうしてください。縁起というものは、馬鹿にはできませんから」


 そう言って、香と純夏ははにかみ合った。


 本物の降霊術を目の当たりにした二人の間だからこそ、成り立つ冗談だった。


「ありがとう。全部納得できた。あなたにお願いしてよかったわ」


「そう言って頂けるとありがたいです」


 ぜひご贔屓に。


 香はそう締め括り、テーブルの上の伝票を引ったくるのであった。


 四


 これは夢ではない。明晰夢の中ではない。現実だ。ローテーブルに頭を打ち、ついさっきまで気絶していたが、これは現実だ。間違いない。


 目を開け、白い天井を見つめながら考える。後藤に全てを打ち明ける前に、突き飛ばされてしまった。


 俺が悪い。一刻も早く真っ黒の怪物、京華の幽霊を取り除いてほしくて、安心して眠れるようになりたくて、半ば狂乱状態にあった俺のせいだ。


 床に手を突いて立ち上がる。意識ははっきりとしている。頭がズキズキと痛む。


 これから、俺はどうすればいいのだろうか?他の人を呼んで、洗いざらいぶちまけるか?この野郎、遂に頭がおかしくなったと思われるだけだ。


 では、庭の京華の骨を見せるか?それなら説得力があるだろう。


 そうだ、そうしよう。そうすれば、俺の苦しみはなくなる。京華から永遠に解放される。なんらかの罪に問われるだろうが、夢の中で怪物に殺されるよりはマシだ。


 俺は、そう思って庭に向かおうとした。カーテンを開けに行こうとした。


 できなかった。


 目の前に真っ黒な怪物がいた。


「え?」


 理解ができなかった。


 これは現実だ。いつもなら夢の中で現れるはずの怪物が、京華が、いるわけがない。あり得ない。


 自分の声がはっきりと聞こえた。だからここは現実だ。夢なんかじゃない。夢じゃない!


「グオオオオオッ!!」


 京華が地鳴りのような咆哮を上げる。俺は思わず耳を塞ぐ。


 急に動かした右肩と左腕が悲鳴を上げる。その痛みがますます、俺が現実にいることを知覚させた。


「なんでだよ……」


 京華が腕を持ち上げる。持ち上げて、大きな黒々とした手のひらで俺の顔面を掴んだ。視界が黒一色に染まる。


 なにが起きるのか。なにをさせられるのか。俺はすぐに悟った。


「…………っ!……っ!」


 いくら叫んでも、口から悲鳴は出なかった。


 突然頭に圧力がかかり、頭が後ろに急加速して落ちて……。


 "現実の世界で、京華が姿を変えた怪物によって"、再びローテーブルの角に頭を強く打ち、俺は死んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ