『廃人回収車』
『廃人回収車』
「不気味な放送を聞いた?」
「はい……」
怪異探偵を自称する雛菊香が聞き返すと、彼女のSNSアカウントに依頼の連絡を送ってきた看護師の秋田佐那は神妙に頷いた。
その日のある午後すぎ、二人は香の行きつけの喫茶店にいた。他の客が近くにいない、小さめのテーブルを挟んで向かい合うように座っている。
「もう一度、例の、放送を聞いた夜のことを話してください」
「はい。あれは三日前の零時くらいだったと思います」
佐那は神妙な顔つきをして、ホイップクリームがトッピングされたキャラメルマキアートを啜った。高カロリーなものを摂取しないと、看護師の激務は務まらないそうだ。
香はつられて、自分の分のアイスコーヒーで喉を潤す。
「その夜は、朝まで宿直する予定でした。数時間おきに院内を見回って、院内の患者さんたちの様子を確認したりするんです」
「分かります。仮眠が設けられている場合もありますが、基本的には起きていないといけなくて大変なんですよね」
「そうなんです。その割には給料もよくないですし……」
「国は一刻も早く、エッセンシャルワーカーの方たちの待遇を改善するべきですね」
おっと、脱線しました。香は何度も頷きながら、自然に話題をレールの上に戻した。
「ああ、すみません。それで零時前くらいに、私は一人で院内の見回りを始めました。ナースステーションを出て、いつも通り三階と四階の廊下を巡回する予定でした」
佐那は消化器内科の配属だそうだ。消化器内科の病床は院内の三階と四階にある。
「いつも一人で見回りをされているんですか?」
「いえ、普段は先輩と二人でやっていたんですけど、その日は結構忙しくて。本当は駄目なんですけど、とりあえず私だけで見回りしてました」
「忙しいなら仕方ありませんよ。それで、例の放送を聞いたのは秋田さんだけだったんですよね?」
「そうです。同僚や先輩に相談したんですけど、誰も信じてくれなくて……」
「続けてください」
佐那は不安がっているが、香は努めて冷静に話を促した。
「はい。ナースステーションを出て、道なりに廊下を進んでいきました。その後突き当たりを右に曲がって、まっすぐ進みました。それをあと二回繰り返して、ナーステーションまで戻ってきたんです」
「なるほど」
佐那が勤める病院は地域医療を担う大病院だ。建物が大きく、一辺の廊下も長い。廊下はほぼ正方形をなぞっており、カタカナのロの字のような形をしている。廊下の内外に一定の間隔で病室が設けられている。
そして、消化器内科のナースステーションはロの字の南東の角にある。右に曲がって巡回していたので、当夜の佐那は時計回りに見回りをしたことになる。
香は今まで佐那から受けた説明を総合し、頭の中で情報を整理した。
「三階の巡回は普通だったんです。薄暗いですけど、常夜灯が廊下を照らしていましたし。患者さんのいる病室はドアをそっと開けて中に入って確認してみたら、どの患者さんも眠っていました。これもいつものことです」
「二人でやっているときと、変えたところはありませんでしたか?なにかをやり忘れたとか、あるいはなにか余計なことをしてしまったとか」
「ないと思います。ただ、二人で廊下を歩くときは並んで雑談しながらなんですけど、あの夜は一人だったのでずっと黙っていました。あと、病室の様子を見るときは一人が病室の中に入って、もう一人は廊下で待機しているのが普通なんですけど、一人でしたので私が病室の中に入っている間、廊下は無人だったはずです」
「なるほど。それならやはり、患者さんのいたずらというわけではなさそうですね」
「え、そうなんですか?私はてっきり……」
やっぱりそうか。佐那の反応を見て、香は得心した。
反応からしてほぼ確実に、佐那は患者のことを調べさせるために香に調査を依頼したということがはっきりした。看護師が受け持っている患者たちを疑うなどあってはならないことだから、探偵に頼むことにしたのだろう。
香は頭を回転させながら、断定した根拠を言葉に象る。
「もし患者さんのいたずらだとすると、不気味な放送を秋田さんに聞かせるという計画が成功する可能性があまりにも低いのです。もし犯人が患者さんだとすると、秋田さんは黙って廊下を歩いていたのですから、犯人は秋田さんがいつ、廊下のどこを通るのかを病室の中から把握するのは非常に難しい」
「確かに。病室の防音はしっかりしています。私の足音は患者さんに届いていなかったと思います」
「それが根拠の一つです。それに秋田さんが病室の中に入っている間、廊下は無人とのことでしたが、患者さんたちはそもそも秋田さんが一人で見回っていることを知らなかったはずです。なので、たとえいたずらを計画した患者さんがいたとしても、廊下に人の目がない時間ができることは知る由もありません。よって、秋田さんが病室に入っている隙に、例えば音声の録音されたレコーダーを廊下に設置するなどといったことはできません」
「それもそうですね。でも、あらかじめ置いてあったとしたらどうでしょうか?消灯時間の午後九時から見回りの始まる午前零時までの間に、患者さんの誰かが廊下に設置したとしたら?」
「それは一つ目の根拠が否定しています。秋田さんは静かに見回っていたのですから、録音した放送音声を再生するタイミングは患者さんには分かりません」
「じゃあ、患者さんが狸寝入りしていて、私が病室から出ていったすぐ後に音声を再生したという可能性はありませんか?」
どの患者さんも眠っていたんじゃなかったんですか?そう反論したくなるのをこらえ、香は別解を提示した。
「それなら、あらかじめレコーダーなどが廊下にあったはずです。必然的に秋田さんは犯人の病室の前まで来ることになりますから、病室に入る前にそうした機器の存在が気づかれたらおしまいです。秋田さんはそうした不審物を見かけませんでしたよね?」
「はい。でも薄暗かったし、小さなものだったら気づかなかったかも……」
「確かに、ボールペンくらいのサイズのレコーダーもあるにはあります。広く市販もされていますが、それでも入院されている患者さんがおいそれと入手できるものではないでしょう。入院中はもちろんのこと、入院する前に持ち込むなんて意味が分かりません。一度退院されてから再び入院された方や、面会で訪問者から受け取るなどすれば可能ですが、それでも疑問が残ります。秋田さんもしくは他の看護師さんを怖がらせるために、そこまでするでしょうか?」
「しない、と思います」
「失礼を承知でお聞きしますが、秋田さんを含めた消化器内科の看護師さん方は患者さんを不当に虐げたりはしていませんよね?」
こういう場合はなんと言うんでしょうか。ナースハラスメント、略してナスハラ?
余計なことを考えながらも、香は真剣な顔を作って佐那に尋ねる。
もしナスハラがあったのなら、これほどめんどくさく回りくどいことをしてでも看護師を怖がらせたいという動機が患者側に存在することになる。
ただ、その心配は杞憂だったようだ。佐那は食い気味に興奮し、首をぶんぶんと横に振った。
「ありませんっ!そんなことは絶対にありません!確かに看護師の仕事はストレスが溜まりますけど、私たちはいつでも患者さん第一です!」
「それならよかったです。では、患者さんからはどうですか?いわゆるペイシェントハラスメントです」
「それもありません。うちは消化器内科ですから、穏やかな患者さんばかりです」
「でも、あなたは患者さんを疑っていましたよね?」
「別に、疑っていたわけじゃありません。看護師の中で他に聞いた人がいなかったから、じゃあ患者さんしかありえないと思っていただけで……」
それを疑っているというのでは?香は鋭い指摘の言葉を飲み込んだ。今回はなにかと飲み込みがちである。
「分かりました。それでは、放送を聞いたときについて教えてください」
「はい。ステーションの横にある階段で上に登って、三階と同じように四階の見回りを始めました。四階の間取りも三階と同じです」
「四階の患者さんも、穏やかな人ばかり?」
「そうです。それで、あれは一回目の右折のときでした」
建物の南西の角辺りか。
「なにか、音が聞こえてきたんです。音というより、音声です。多分、外から」
外からだと思うなら、患者さんのいたずらではないか云々のやり取りはなんだったんでしょう?香は相変わらず、余計な一言を思いついては飲み込む。
「それは建物の外側から聞こえましたか?ロの字になっている建物の内側からではなく?」
「外です。病院の西側に沿って幹線道路があるんですけど、ちょうどその辺りからの距離感で、音声のようなものが聞こえてきて。選挙カーとか廃品回収車のアナウンスみたいでした」
「選挙カーの演説は公職選挙法で、廃品回収車のアナウンスは基本的に自治体のルールで、深夜に行うことは禁じられています。零時過ぎにそうした音声が聞こえてくるというのは、確かに妙ですね」
「私も不思議に思いました。そして立ち止まって、耳を澄ませてみました。そうしたら……」
佐那はそこで口を止め、大きく身震いをした。
「『金も将来の希望もない、なにも生産することのない殻潰し。周りに迷惑しかかけない厄介者、鼻つまみ者。一生をかけても、死をもってしても償いきれない罪を犯した大罪人。治る見込みのないアルコール、薬物、ギャンブルの依存者。どうにもできない心身の障害を抱えた者。余命いくばくもない大病を抱えた者。要らなくなった廃人を、無料で回収致します……』。掠れた機械の音声で、確かにそう言っていたんです」
「それは、はっきりとそう聞こえたんですか?一字一句」
「はい、聞こえました。音量はそれほどなかったんですけど、周りが静かだったのではっきりと」
ホイップクリームのついた口元を歪ませ、佐那は口にするのも恐ろしいとばかりに述べる。
「廃品回収車ではなく、廃人回収車ですか」
「ど、どうなんでしょうか、雛菊さん。同僚からは疲れていて幻聴を聞いたんだと言われて、相手にされません。廃人を回収するなんてありえませんよね。幻聴ですよね?」
「それは分かりませんよ」
「え?」
香があっけらかんと答えると、佐那の顔が一瞬で蒼白になる。
「廃人回収車など存在しないという考えは、私たちの普遍的な価値観が導き出したものです。『どんな人であっても人権はある』、『どんな特徴や疾患があっても、廃人と差別することは許されない』『ましてやそれをゴミのように回収していく車があるなんて、ありえない』。これらはすべて、私たちの中では常識に等しい、普遍的な価値観から生み出されています」
「そ、その通りです。だから廃人回収車なんて……」
「ないと言い切れますか?」
香は強い口調で言った。佐那は思わすたじろぐ。
「例えば、国が違えばどうでしょう。東南アジア、東アジア、中東、アフリカ、そして中南米。具体的にどこの国とは言いませんが、こうした国々では未だに、社会的に弱い立場にある人たちに向けられる目は厳しく、彼らの人権は軽視されています」
「それは、そうですけど……。でもここは日本ですよ。ありえません」
日本が外国に虐げられることなどないと考えているのか。のんきですね。
とは、言わなかった。今は政治や外交の話をしたいのではないから。
「それでは日本の話をしましょう、昔のですけど。『姨捨』って言葉、聞いたことありませんか?」
「口減らし、ですか」
「そうです。昔々の日本では、これも具体的にどことは言いませんが、労働力にならないお年寄りを山に捨てるという、とんでもない因習がありました。これは現代日本の価値観とは大きくかけ離れていますが、当時の日本では当たり前のことだった……」
「でもそれは、昔の話です」
なにかを振り払うように、佐那は声を絞り出した。
彼女は気づいている。廃人回収車と姨捨が似ていることに。
「そうですね。では整理しましょう。海外では、強者が弱者を虐げる構図が今もある」
「……」
「これは穿った見方をすれば、強者は常に虐げるべき弱者を欲していると捉えることができる。言い換えると、弱者への需要がある」
「なにが言いたいんです?」
「そして都合のいいことに、もう廃れてはいるものの、日本にはかつて『姨捨』のシステムがあった。弱者を山に置き去りにし、見殺しにするという悪習が。これはそう、弱者の供給とみなすこともできる」
「もう結構です」
頭がおかしいと思ったのだろう。佐那が話を遮って強引に立ち上がろうとした。
だが香は、彼女を両腕で押さえつけた。
「すぐ終わります」
「は、離してくださいっ!」
「需要と供給があれば、市場が成り立ちます。弱者を商品とするような、まさしく現代世界ではあってはならないような市場が、もし存在するとしたら?」
「廃人回収車が、それに加担しているって言いたいんですか」
「可能性の話です」
弱者ビジネスというべきだろうか。社会的立場が弱かったり、判断能力が鈍いせいで弱者が食い物にされるケースは数あれど、そうではない。
カモではなく、弱者自体を商品にしてしまうという、人権の一切を無視したとんでもない商いが横行している可能性について、香は話している。
話の流れを理解した佐那は、不承不承で椅子に座り直した。
「まあ今言ったことの真偽はともかく、廃人回収車は危険です。アングラな組織や海外の闇業者などが用いる、一般社会との窓口である可能性は捨てきれません」
「そ、そうですよね。危ないですよね……」
「秋田さん」
「は、はい」
「廃人回収車については忘れてください。今日話したこともすべて、ただの幻聴が原因だと納得してください」
「でも、私は……」
「問題が大きすぎます。一人の看護師や、私のようなしがない探偵一人が動いたところでどうにかなるものではないでしょう。相手は社会の闇そのものなのですから」
「そう、ですね……」
渋々といった様子がだが、佐那は諦めたようだった。
大きく溜め息を吐き、肩をすとんと落とす。
「軽い気持ちで依頼したのに、こんな……」
「あくまで可能性の話です。なんの意味もない、不法な音声の放送に過ぎないのかもしれません。でも、闇は案外私たちのすぐそばに潜んでいるものです。用心に越したことはありません。忘れるのが一番です」
「わ、分かりました」
怯えた顔で頷きを繰り返す佐那を見て、香は笑みを作った。
話は終わったとばかりに立ち上がり、身支度をする。
「それでは秋田さん、本日はありがとうございました」
「はい、ありがとうござ……」
同じく立ち上がろうとした佐那の顔に向かって、香は顔をずいと寄せてささやいた。
「もしまた同じ放送を聞いたとしても、幻聴だと思ってください」
「は、はい……」
佐那は竦み上がり、ほとんど吐息に近い肯定の言葉を返した。
「では、さようなら」
顔どうしが離れ、今度こそ密談は終わった。
香は伝票をひったくり、佐那を残してレジに向かった。
※※※
「ここにしましょう」
助手席の香が、隣で運転する優斗に話しかけた。
二人は今、数時間前に近所で借りたレンタカーの車内に収まっている。
「ここね、了解。……でも、本当に来るのかい?『廃人回収車』なるものが」
優斗はハンドルを軽快に操作し、大病院がよく見える幹線道路の路肩に停止する。
道路の交通量はまばらにあるが、一車線を塞いでも支障がないほどだ。少しの間なら駐車ができそうだった。
香はスマホを取り出し、画面をタップして時間を確認する。二十三時五十分。
「ええ、きっと来るでしょう。普通の曜日間隔なら」
「よ、曜日間隔?」
「そうです」
優斗はちっとも分からないという顔で振り返ると、香はわずかにほほ笑んでいた。
「自治体によりますが、ゴミの回収は週の曜日で決められています」
「月曜に燃えるゴミ、火曜に燃えないゴミ、水曜にペットボトルとかだよね。それが、廃人回収車にも当てはまるってこと?」
「そうです。秋田さんいわく、三日前に放送が聞こえた。私が秋田さんと会ったのが日曜日だったので、廃人の回収は木曜夜のようです。つまり、今日」
『廃人の回収は木曜夜のようです』。ふざけた一言だ。優斗も、もちろん香もそう思っている。
だが、今は感情的になっている場合ではない。病院近くに張り込んで廃人回収車を見つけ、弱者ビジネスをやめさせようとしている、今この場合には。
「だから、今日じゃなきゃいけなかったんだ。回収の日だから」
「無理を言ってしまい、申し訳ありません。お車も、本当にありがとうございます」
香はそう言うと、頭を下げて優斗に礼を言った。
「いいよいいよ、気にしないで。深夜に雛菊さん一人で行かせることなんてできないよ。それに……」
香に良いところを見せるチャンスだから、とは言えなかった。へたれな優斗には。
「それに、俺も気になる。廃人回収車が……」
「ええ、廃人を集めてなにをするのか。シンプルにして最大の謎が残ったままです」
「え?」
思わず、優斗の口から呆けた音が漏れる。
「売買されて、奴隷のように扱われるんじゃないの?看護師さんの話ではそうだったじゃん」
「ええ。確かに、彼女にはそう説明しました」
ここに来る途中、秋田佐那と会ったときのことを、香は優斗に話していた。故に、優斗の疑問は至極真っ当なものだった。
「秋田さんとの場ではああ説明しましたが、私はあれが正解だとは思っていません。おそらく、はずれかと思われます」
「はずれ?」
「そうです」
香は真顔になって続けた。
「だってそうでしょう。弱者ビジネスなるものが仮にあり、それを生業としている業者なり組織なりがあるとして、わざわざ放送を流すなんて目立つ真似はしない。深夜にとろとろ走りながらアナウンスしたりせず、できるだけ自分たちの存在を隠そうとするはずです」
「それはそうだけど。姨捨て山のように、引き取り先を探している客の需要があるんじゃ……?」
「今はネット社会ですよ。それこそSNSで秘密裏にやり取りをすれば事足ります。わざわざアナログな手段を用いる理由がありません」
「ネット経由だと足がつくからじゃない?よく分かんないけど、履歴とかで」
「アングラなことを企む連中が、そうした痕跡を残すようなヘマはしないでしょう。足がつくかもしれないというだけでは、デジタルな手段を捨て、回収車を走らせる理由には到底ならない」
「そっかあ……」
完全に言い負かされ、優斗は頭を落としてハンドルに額を当てた。撃沈である。
「なにかもっと、そうしなければならない理由があるはずなんです。廃人回収車を走らせる理由が」
「理由……。僕には分からないな」
「私にも分かりません。ですから、会って確かめたいんです」
「廃人回収をしている人に、だね。でも……」
優斗はここで顔を上げ、香の澄ました顔を見つめる。
「会ってどうするの?危険かも」
「そのときはそのときです。降りかかる火の粉は払う」
「……えーっと、具体的には?」
「逃げます」
払ってないじゃん。優斗は瞬時に思った。
「逃げられない場合は?」
「優斗さんを囮にして逃げます」
「え!?」
思わず大声が出た。男性にしては高めの声が車内に反響する。
「冗談です」
香はちょっとのけぞりながらも、瞬時に訂正する。
「帰っていい?」
「ダメです」
「頼む~、来ないでくれ!」
後悔先に立たず。今の優斗には、せめて大事にならないでと祈ることしかできなかった。
「なに言ってるんですか、今夜は回収車と出会うために……」
「ああっ!」
香の小言が始まるや否や、逃げるように正面へと滑らせた優斗の目が、ターゲットを捉えた。
なんてことのない白の軽トラ。幹線道路の対向車線から、白い車体がやってくるのが見えた。
放送は聞こえるか。優斗の発言の意味に気づいた香はターゲットを視認しつつ、耳を澄ませた。
「静かに。なにか聞こえませんか?」
そして、囁くような声量で聞いた。
「うん……」
問われた優斗は顔を上げ、両手をそれぞれの耳の後ろに立てて、滑稽なポーズを取り周囲の音を探る。
「確かに、聞こえるね」
「さながら、廃品回収車のアナウンスのように聞こえませんか?」
「そうだね。久しく聞いてなかったけど」
文章を読み上げる音声を、無理やり大きくしたもの。そう表現できる機械的な放送が、車外に流れている。そしてそれは、聞き間違いではない。香の耳にも優斗の耳にも聞こえている。
ただ、放送の詳細な中身が聞き取れるほど、音声は大きくなさそうだった。レンタカーの内外を隔てる強化ガラスとアルミのボディに遮られ、わずかなニュアンスすら把握できない。
「行ってきます」
「え!?もうちょっとこう、準備とか……」
「ぐずぐずしていたら見失ってしまいます。優斗さんはここにいてください」
「え?一人で行くの?危険だよ!」
「二人で行っても、共倒れになるだけかもしれませんよ。それに……」
香はウインドウの外、歩道の方を指差し、
「ここはオレンジ色の路側帯、駐車禁止区間です。停車と言い張る建前のため、優斗さんは車内に残る必要があります」
「……免許持ってないのに、そういうことには詳しいんだから」
「常識でしょう」
確かに。車を運転しなくても、交通ルールは知っていた方がいいけど。まさかこんな形で言いくるめられるとは。
不覚にもそんなことを考えたせいで、優斗は「一緒に行くよ」といった男らしいセリフを吐くタイミングを逃してしまうのだった。
※※※
レンタカーの車内から秋めいた夜空の下に出た香は、予想以上の冷え込みに肩をすくめた。
まだ熱の残る指で、ジャケットの前を閉めていく。
「やはり聞こえますね、廃人を募る放送が」
手元から前に向き直ると、白の軽トラがはっきりと見えた。時速十キロに満たない低速で、対向車線を走っている。
『……抱えた者。要らなくなった廃人を、無料で回収致します』
例の音声が軽トラから聞こえている。香の聞き間違い、見間違いではない。
香は車両から目を離さずに、歩道を進んでいく。
『……金も将来の希望もない、なにも生産することのない殻潰し。周りに迷惑しかかけない厄介者、鼻つまみ者。一生をかけても、死をもってしても償いきれない罪を犯した大罪人』
放送は一字一句、依頼主の証言通りだ。香は歩きつつも、耳を澄ませる。
こちらに向かってきている軽トラと香の距離はみるみる縮まり、フロントガラス越しに運転手の姿が……。
「え?」
見えない。真夜中で空は暗いが、幹線道路には等間隔で街灯が設置されているおかげで、路面は充分に明るいはず。
なのに、見えない。外に比べて車内が暗いために、光が反射している?
いや、違う。そうではない。軽トラの助手席の方はなんの問題もなく見える。黒に近い灰色のシートとヘッドレストが直立している。一般的な車両のそれだ。
「どういうことでしょう……?」
助手席が確認できるのだから、運転席も確認できるはず。
だが、いくら目を凝らしても、見えない。運転手はおろか、シートがあるのかさえも……。
ん?シートがあるのかすらも、見えない?
「まるで、認識を阻害されているかのような……」
香は立ち止まり、戸惑いを込めたため息とともにあり得そうな仮説を唱えた。
こんな感覚は初めてだった。運転席が見えない。物理的にではなく、見ようとした途端、そこが運転席であることに自信がなくなる。
目が滑る、とも違った。認識ができない。そこには運転手も運転席もないとはぐらかされ、なにもないと言い聞かされているかのような感覚。
「あたり、ですかね」
香は強く目をつぶり、瞬きを忘れた両目を潤す。
視界が閉ざされて軽トラが見えなくなるが、それでいい。
『日本産の乗用車における運転席とは車両内部の右前に位置する座席のことで、そこにはハンドルやギア、ブレーキペダルやアクセルペダルなど、車の運転に必要な設備が設けられています。
そして、自動運転ではない車両の場合、車を運転する際には運転席に運転手が乗車します。運転手はハンドルを握り、必要に応じてギアやペダルを用いて車両を運転します。
これらは普遍的な常識であり、例外はありません。車両には運転席があり、車が動いているときには運転手が運転席に存在します。絶対に、です』
目を開ける。
見えた。今度は、運転席とそこに座る運転手がはっきりと認識できる。
成功を確認した香は怪しまれないよう、視線を逸らさずに歩き始めた。
「顔は、いわゆるイケメンというやつですね」
運転手の顔をそれとなく、かつしげしげとみていると、そんな感想が湧いてくる。
男。黒髪黒目。髪は短すぎず長すぎず。とはいえ前髪で額が、襟足で耳の下、顎の付け根辺りが隠れるくらいには伸ばしている。
目は大きく、ぱっちりしている。つけまつげやコンタクトレンズはおそらくしていない。感情が伺えない両目は正面を見つめている。
鼻は高いが、高すぎではない。あくまで日本人がつけていても不思議ではない大きさの鼻だ。顔のバランスを崩さないくらいに中央で主張している。
口も普通だ。ほんの少し赤みが強いが、分厚くもなく幅広くもない唇が真一文字に結ばれており、シャープな顎と鼻の中間地点に位置している。
総合的にみると、運転手の顔は若干の面長で整っている。昨今は男性も美容に気を遣う時代だが、軽トラの社内の薄明りの下で見る分には、化粧をしていないように見える。ただ、肌が異様に白かった。
「当たってみるべきですね」
軽トラには認識阻害がかかっていたが、誰も乗っていない、もしくは人ならざる者が乗っていたという悪いケースではなかった。
話が通じる相手なら、接触すればなんらかの反応が期待できる。次にいつ遭遇できるかも分からない。悪人の可能性は高いが、ある程度話をしたら逃げればいい。
香は脳内でそう結論づけ、体の向きを変えた。軽トラに向かって大股で歩みを進める。
すると、どうだろう。手持ち無沙汰にハンドルを握り、真顔で車を動かしている男は、いきなり香の方を向いた。
香と男の目が合う。
その黒い目に、興味や好奇心と形容できるような色が宿った。少なくとも香にはそう感じられた。
『お聞きしたいことがあります。お車を停めて頂けますか?』
香は声に出さず、口の動きだけで伝えた。
根拠はないが、男にはそれで伝わるだろうという自信があった。
「……」
男は黙ったまま、微笑んだ。
彼から見てハンドルを右に切り、外側の車線に車線変更すると、ウインカーを右に出して路肩につける。
軽トラは香の目の前、十メートルほど前方に停車した。
『余命いくばくもない大病を抱えた者。要らなくなった廃人を、無料で回収致します……』
不気味な放送は、未だ流れたままだった。
※※※
香はフロントガラス越しに男を見た。
『放送を停めて、外に出てきてくれますか?』。香は口パクでそう言い、手ぶりも交えて車から出てきてほしい旨を伝える。
男は無言のまま、香の言うことに従った。
まず、いつの間にか持ち上げていた右手の指を鳴らすと、廃人を募る放送がぴたりと止んだ。
これも、超常的な能力の一つなのでしょうね。香はそう判断した。
男は続けて、軽トラを駐車する一連の操作を行い始めた。
ギアをニュートラルにし、エンジンを切り、サイドブレーキをかける。男は儚げな笑みを浮かべながら、一連の流れを淡々とこなしていく。
軽トラの駐車が完了したところで、男は運転席側のドアを開け、滑るように出てきた。
男の行動を注意深く見ていた香との距離は、わずか五メートルほど。
「背が、高いですね」
立っている男の全身を捉えつつ、香は男に話しかけた。
男はほっそりとした体躯だったが、背がかなり高い。百八十センチメートル以上はあるに違いないと踏んだ。
「ここで、話すのか?」
男は低く、腹の底から響くような声で尋ねてきた。
「ええ。外なら、もしあなたが私を拉致しようとした場合でも、難易度が上がります」
「あくまで信用していない、と?」
「ええ。どんなことをしてくるか、なにをされるかなど、ただの人間である私には分かりませんから」
「そのただの人間が、私の認識阻害を破ったわけか」
彼はそう言って一瞬、わずかに訝しんだ。
どういう意味なんでしょう?香は疑問が顔に出る前に真顔を作り、問いかけの答えを考える。
「だが、ふむ……」
幸い、香の逡巡に男は気づいていないようだった。
「感じられない……」
顎に手を当て、ぶつぶつ呟きながら思索に耽っている。
「答えになるか分かりませんが……」
だから焦らなくていい。そう分かっているはずなのに、なぜか緊張している。
香は前置きもそこそこに、乾燥した唇を湿らせた。
「私は、マジックを見るのが好きなんです。派手な演出が面白いのもあるんですが、どちらかというとマジックそのものより、マジックを成功させるためにしかけられたトリックが好きなんです」
「……」
「トリックの中には、観衆の注意を逸らすことで、当たり前のことをしただけなのにマジックが起きたかのように錯覚させるものもあります。コインが消えたと思ったら別のところから出てきたり、トランプで目当てのカードを言い当てたり、がその例です」
「それと、似ていると?」
「はい。あとは自己暗示ですね。メタ認知という考え方があって……」
「それは知っている」
「であれば、話は早いです。マジックのトリックを見破るときのように、私は常に周囲の違和感を察知できるよう、注意を払っています」
「……」
「そしてもし、なにか違和感があれば、自己暗示などの心理的アプローチを試してみて、違和感を自分なりに解釈しようとします。もちろん、毎回上手くいくというわけではありませんが」
「それで、私の認識阻害を看破したのか」
「そうです」
香が言い切ると男は驚き、すぐに納得したような表情を浮かべた。
かと思うと、再び思案顔になって、
「なるほど。純粋な『人間性』のみで……」
と、虚空に言葉を並べ始めた。
「あの……」
「ああ、置いていってしまったな」
置いていく?また分からない表現が出てきた。
彼の中でなにが進んでいるのか、自分はなにから置いていかれているのか。理解しなければならないと、香はなぜか強く思った。
「雛菊香。どうやらきみは、洗練された『人間性』を持っているようだ」
「私の名前、どうして知っているんですか?」
「それを含めて、これから話そう」
男は不意に顔を反らし、香に向かって歩いてきた。
捕まる?危害を加えられる?そう思ってとっさに動こうとするも、できなかった。
体が動かないのではない。男がなにかしてくるから逃げないといけないという思考に、なぜか至れない。自分のことなのにまるで他人事のように頭が考えてしまい、身動きが取れないのだ。
「……!」
男はぽつぽつと歩き続け、香の目の前に迫り……、
「歩きながら説明する」
香の左を通り過ぎた。
「分かり、ました……」
男から醸し出されるなにかに気圧され、香はかろうじてそう答えることしかできなかった。
※※※
「結論から言おう。『人間性』を集めている」
男は言った。
香は、なにを求めて男のもとにやってきたのかをまだ話していないのに、全て把握しているかのような口ぶりだ。
「『人間性』、ですか。それは、私が理解している意味の人間性ですか?」
「そうだ。他の言葉で例えるなら、理性や知性に近いだろう」
夜の通りをどこともなく眺めながら、男と香は口と手を動かしていた。
「『人間性』を集めるとは、どういう意味ですか?病気を患っている方や犯罪を犯した方たちを拐して、なにをするんですか?」
「有効利用だ。廃人から『人間性』を抜き取り、それから殺す。廃人回収車はそうした目的で走らせている」
「廃人ではありません……!」
怒りが、先に来ていた。
なんの抵抗もなく『殺す』と口にする男に恐怖を覚えるより先に、怒りが、香の胸の内に湧いていた。
香は立ち止まった。男がゆっくりと香の方を向く。
「定義のことで言い争うつもりは……」
「今の人間社会に、廃人なんていません。あなたに物のように人間の尊厳を奪われ、殺されていい人間なんて、ただの一人としていません」
危害を加えられるかもしれない。殺されるかもしれない。それでも恐れずに、香は静かに、それでいて力強く言った。
だが、男は、
「『人間の尊厳』か。いい表現だ」
笑って、受け流していた。
香の言葉選びに納得し、感心さえしていた。香の伝えたいことを一切理解しようとしない。
単に無視しているのではない。この男は本当に、香の主張に興味がないのだ。何の疑いもなく、自分が正しいことをやっていると思っている。
では、男は俗にいうサイコパスなのか。いや、違う。考え方が、価値観が、人間のそれとは異なっているのだ。
香はそこで初めて、全身に鳥肌が立つのを感じた。
薄々分かっていたことだが、この男、人ではない。
「私のことを知りたいか」
「いえ……。あ、本当は少し知りたいです」
「そうか」
男は短く答え、香の方を振り向いた。
彼のすぐ後ろに、一台の車が停まっていた。優斗が借り、ここまで走らせてきたレンタカーだった。
いつの間にか、停車した場所まで戻ってきていた。
「ここなら、自分の領域だろう?」
男は少し歩き、後部座席左側のドアを開けてするりと車内に入った。
鍵はかかっていないのか。
いや、それ以前に、車内には優斗が。
まさか。
香は気づき、駆け出した。
数メートルを全力疾走し、開いたままのドアを掴み、体を滑り込ませる。
「優斗さんっ!」
「眠っているだけだ」
右隣に腰かけている男を無視し、香は運転席の方に身を乗り出した。
優斗の目が閉じていることを目視で確認する。
急いで彼の口元に手をやる。息が手のひらに当たる。彼のぶら下がっている左の手首に指を這わせる。しっかりとした脈拍を人差し指と中指に感じる。l
生きている。優斗は生きている。
「だから言っている。眠っているだけだと」
「これも、人智を超えた力によるものですか」
「いいや、彼の居眠りだ。まあ、眠っているのを知ったのは力によるものだが」
なんだ、居眠りですか。この、私がどうなろうかという瀬戸際に。
香は、優斗への折檻を決意した。
「きみのお察しの通り、私は人ではない。では、なんなのか」
「……」
「定義は厳密ではないが、私は神ではない。神に仕える者だ。人間の解釈で当てはめるなら、天使だろうか」
「天使……。あなたが?」
「言っておくが、善ではない。かといって、悪でもない。私は、人間の善悪という尺度で動いていないんだよ」
「それは、よく分かりました……」
言葉の端々からにじみ出ている。香はいやというほど理解させられている。今、この瞬間にも。
「とにかく私は天使で、人間性を集めている。ある目的のために」
「目的……。どんな目的ですか?」
「左だ」
「え?」
「左を向けば分かる」
香は後部座席の左側、男は右側に座っているので、香は右を向いて話していた。
そんな中、男は左を向けと言う。男を視界から外せと言う。
「優斗さんと私になにかしたら、許しませんから」
「しない。早くしてくれ」
軽々しく人を殺せる相手だ。念を押しておくに越したことはない。香は釘を刺してから、ゆっくりと首を回す。
獣がいた。
窓ガラスの向こう、さっきまで歩いていた歩道に、大きな獣の顔があった。
「~~~っ!!」
思わず叫びそうになるのを、ぎりぎりで堪える。
両手で口を押さえ、絶叫を飲み込む。脈拍が急上昇するのを感じる。胸が早鐘を打つ。
だが、目が離せない。
長く、等間隔に節があり、頭の左右上部から伸びる黄ばんだ二本の角から。
頭と胴体を覆う、長く太く、黒い体毛から。角の下にあるくぼんだ、二つの黄色く光る濁った目から。その目の眼光から。
顔の中央に位置し、湿り気を帯びた漆黒の鼻から。鼻から出る白い鼻息から。
鋭く白い歯を覗かせる、三日月状に開いた大きな口から。口の真ん中から漏れる白い息と、見え隠れする赤紫色の太い舌から。
ずんぐりとしていて、呼吸とともに波打つ黒い胴体から。
異形の上半身から、目が離せなかった。
「こ、これ、こ、これは……?」
「神だ」
「か……、かみ?」
「正確には、『獣に堕ちた元は神だった存在』だ」
「神が、獣に……?」
「すぐに理解しなくていい。きみは人より、いわゆる怪異に触れた経験はあるらしいが、神を、ましてや獣に堕ちた神を直接見たことはないだろうからな」
「はい……」
神の、いや獣の荒い息遣いする様子を見ながら、香はかろうじて返答した。
男の声は依然として、香の左側から聞こえている。
「神様は、本当に存在するのですね……」
「それこそ、八百万とな。天使はさらにその数十倍はいると思っていい」
「なるほど……」
そう答えるのが精いっぱいだった。
「私の主、神は『神性』を奪われたことで獣に成り下がった。魂の内の『獣性』が支配的になり、肉体が獣へと変化したのだ」
「ちょっと待ってください。その『神性』や『獣性』っていうのはなんですか?人間性のようなものと解釈してよいのですか?」
「概ねそうだ」
男、天使は頷くような素振りをし、
「この世界を生きる全ての生命には一つの肉体、それと一つの魂が与えられる。人間も神も獣も、私のような天使にもな」
「なるほど」
「人間性、神性、獣性はいわば、魂の属性だ。人間性は人間らしさ。賢く、並み程度の肉体的、精神的強度を持ち、世界に抗う力を持つ。ここで言う『世界に抗う』とは、自然に対抗できるという意味だ。今はそういう解釈でいい」
「含みがある言い方ですね」
「これから説明する。次に、神性は神らしさと表現できる。賢いのは言うまでもない。神は基本的に全知全能だ」
「そうなんですね」
なぜなのかを聞きたいが、今はそういうものだと納得せざるを得ないのだろう。香は半ば諦めつつも、せめて聞き逃すまいと耳を傾けていた。
「神にも肉体はあるが、可変的だ。具現化、抽象化は自由自在で、世界そのものになれる。まさしく、神は世界である」
「神は、世界……」
「神は万物に宿り、多くの人間が思い描くような概念でもある。自然であり、思想であり、作品であり、信仰である。きみに分かるような表現だと、このような言い方しかできない」
「なんとなく、掴めた気がします」
「続ける」
要は、世界を構成するあらゆる要素が神だということなのだろう。香はそう解釈した。
「最後に、獣性は獣らしさだ。知性は薄く、高い肉体的、精神的強度を持つ。だが、世界に抗うことはできない。これはなんとなく分かるだろう」
「動物は野生でこそ、のびのびと生きられますからね」
「そうだ」
天使は再び頷いた。
「全ての魂にはこれら、人間性、神性、獣性が混じり合った状態で含まれている。そして、その割合は個体によって異なる」
「獣性が支配的になるって、そういうことだったんですね……」
「理解が速いな。流石は怪異探偵」
人外に褒められても嬉しくはない。
「そう、肉体の外見や人間がそうみなしている、人間、神、獣といった生命のカテゴライズは、人間性、神性、獣性の割合によって決定される。人間性が多い魂を宿した生命は人間に、神性が多ければ神に、獣性が多ければ獣になる」
「では私は、人間性が多いのですね」
「そうだ。ただ、神性が全くないわけではないから、世界に干渉できる。物を動かし、考えられる。自然を乱し、思考を巡らせ、作品を作り、信仰を選択できる。神そのものに影響を与えている」
「この世界に生きていること自体が、世界に、神たちに影響していると」
「そうだ」
天使の声に追従するかのように、獣の目がぎょろりと動いた。
恐いが、話は止められない。今は天使の言うことを、理解しなければならない。
「さて、ここからが本題だ。神性を持つ人間や神は、世界、神に影響を与えられる。であれば人間や神は、他の神から神性を奪うこともできてしまうのだ。無論、特殊なやり方が必要だが」
「そうして神性を奪われた神が、この獣なのですね」
「そうだ」
何度目かの頷き。
「私の主は神性を奪われ、神性の次に多かった獣性に基づいた姿へと身をやつした。だから私は廃人を集め、人間性をかき集めているのだ」
「せめて人間に戻そうと?」
「そうだ」
「そのために、なんのいわれのない人たちを使うんですか?」
「いわく付きではあるだろう」
「……そこについてはいいです。言い争いで勝てそうにないですから」
香は居住まいを正した。
「私が気になるのは二つ」
出自の一部を知ることができ、香の中でほんの少しだけ、目の前の獣に対する恐怖が薄れたような気がした。
「神様の神性を奪ったのはどこの誰か。そして、神様を人間にして、その後あなたはどうするのか、です」
「一つずつ答えようか」
ただ相も変わらず、天使の声は平坦だった。
「まず、神性を奪ったのが何者なのかは分かっていない。私の神性をもってしても、複数存在するということまでしか分からなかった」
「待ってください。神性というのは、超常的な力のことなんですか?」
「それも含む。物理法則に則った現象や、いわゆる神の御業や奇蹟と呼ばれる超常的な現象など、世界で起こる事象全てに神性が用いられている。一方で人間性や獣性は、神性に抗ったり従ったりするその生命の意識ともいえる。哲学でいうところの自己や自我だ」
「な、なるほど……」
再び話が飛躍してきた。
「他人事ではないか。きみの範疇でもあるんだぞ」
「え?」
どういう意味だ。私の範疇?
私の範疇、怪異探偵である、私の……。
「ま、まさか……!」
「そうだ。人間が定義する、怪異と呼ばれる超常現象や未確認生命体にも、神性が関わっている。いやむしろ、神性を悪用した結果や産物というべきか」
「どこかの誰かが、神様から盗んだ神性を使って好き勝手している、と?」
「そうだ。そこで、主を人間に戻すことが必要になる」
「それはなぜですか?あなたが一人で取り返せばいいじゃないですか。無辜の人を巻き込まずに」
「それでは自分勝手だ。神性を盗んだ連中と変わらないだろう」
いや、あなたも廃人回収車を走らせて無茶苦茶しているでしょう。
香はそう言いたかったが、口を挟む勇気はなかった。
「それに、天使は神に導かれなければならない存在だ。仕える主の手となり足となり働くのが天使の使命だ。だから主を人間にし、教えを頂かなくてはいけない」
「だから、こんな回りくどいことをして、神様をまずは人間にしようとしているのですか」
「そうだ」
「だから、こうして私に情報を明かして、神性を取り戻す取り組みに加担させようとしているのですか」
「……その察しの良さ、人間のままにしておくのが惜しいな」
天使を話すうち、香は理解してしまっていた。
今まさに、彼女の人生を大きく左右する、神と怪異が巻き起こす一大事の片棒を担がされようとしていることに。
「人間の協力者がいるに越したことはない。私は私で動くが、きみはきみなりのやり方で動いてくれ」
「……」
有無は言わせない。拒否権はない。
人ならざる者から放たれる、協力しろという圧力。
香は屈するしかなかった。
「分かりました。私のやり方で、怪異を暴きます」
「それでいい。怪異が暴かれれば、あとは私の領分だ。神性を回収する」
「……ただ、一つ約束してください」
「なんだ」
「廃人回収車は、二度と走らせないでください。私が神性を探しますので」
「もちろん、やめるさ。神性が手に入るのなら、わざわざ遠回りして人間性を集めなくてもよいからな」
天使は、今にも口笛を吹き出しそうな軽口で約束した。
「話は以上だ」
天使が言い終わるや否や、獣が動き始めた。
木の幹のように太い四本の足を前後させ、車の後方に回り込む。
「あなたも大概、好き勝手してると……!」
獣の威圧感から解放された香は首を回し、天使の方に向き直る。
が、そこには誰もいなかった。
「期待しているぞ」
どこからともなく、天使の声。
香はすぐに周囲を探り、声の出どころを探す。
「……これも、神性の成せる業ですか」
しかし既に、天使も獣も、煙のごとく消えてしまっていたのだった。
※※※
「なあんだ、結局いたずらだったの!」
大事な局面で居眠りした罰で折檻を受けた後、腫れ上がった顔に笑みを浮かべながら、優斗は軽口を叩いた。
天使と獣が消えてから、約一時間が経過していた。今は優斗の運転で帰宅の途に着いている。
「勘が外れましたね。残念です……」
実際は真逆、当たりも当たりの大当たりだったのだが、とても話せる内容ではない。
墓に持っていく秘密がまた一つ増えた。香は優斗に気づかれないよう小さく、溜め息をついた。
「こっちの方はまだ、可愛げがあるんですけどね……」
「ん、なにか言った?」
「なんでもありません」
香は一方的に話を終わらせると、右隣でハンドルを握る助手の相手は終わりだという風に、安らかな顔で目を閉じるのであった。




