第七五話 暴走ですわ!
その日の朝もまた、母親は床に臥せったままだった。
街の医師には無理だと言われ、頼みの綱の牧師には祓えない闇がとり憑いていると突き放された。
「ねえ、おかあさん、まだ起きないの……?」
「ああ、もう少し、もう少しの辛抱だから──もう少しで元気になるさ」
そう繰り返す父親だが、彼が本心からそう思っているわけではなかった。
目を覚まさない母親は日に日に衰弱していき、父親は一人で家計を支えるのにも限界になりつつあった。
しかし子供たちの前ではその様子をおくびにも出さず、ただがむしゃらに働いていた。
の、だが。
「お父さん……?」
「エルデか……大丈夫、お父さんなら大丈夫だから。おまえももう寝なさい」
元より体が頑丈ではない父親は母親の分まで働き、慢性的に不調をきたし始めた。
加えて慣れない相手と組んで探索や討伐に出掛ける際の心労も祟り、父親もやがて動けなくなってしまった。
その頃になって、あの日の夜に見た光景をようやく思い出した妹が、兄を呼び出した。
「……ねえ、おにいちゃん」
「なんだよバウム、話って。おでたち今日の仕事まだ終わってねだろ?」
自分の行いをすっかり忘れている兄は、妹に問うた。
そして、妹の口から語られる当時の真実。
何故忘れていたのか分からないほど印象的だった謎の箱が家庭の危機を招いているのかもしれない、と判断した二人は青ざめた顔のまま、普段世話になっている養護施設の長に相談しに行くのだった。
「おや、二人ともどうしたんだい? お父さんとお母さんの調子は?」
「あの、そのことなんですけど」
子どもにしては、比較的論理的かつ冷静に状況を伝達できたと言える。
施設長も一通り話を聞いて事態を察し、二人の肩に手を置いて安心させる。
「話はよーくわかった。いいかい二人とも、今から街の牧師様のところへ行ってきなさい。この街で一番神秘に詳しいお方だ、きっときみたちの助けになってくれる」
「おばさんは……?」
「悪いけど、他の子たちを放っておけない。本当に申し訳ない」
心細さから大人について来てほしい兄妹だったが、そう言われてしまっては無理に頼み込めなかった。
二人暮らしの期間が長い故に、物分かりの良さ、割り切りの良さが出てしまったのだ。
兄妹は手をつないだまま、街の外れにある教会に向かう。
聖堂で書物に目を通していた牧師は二人の姿を認めるや否や、先日の診察について詫びた。
「エルデとバウム。どうしたんだい二人して──ああ、君たちのお父さんとお母さんについては申し訳なかった。症状から幾つか推測できることはあったけど、答え合わせの段階で間違っていると分かってしまってね」
「それはもういいんです」
「あの、今日は、おにいちゃんを見てもらいたくって」
「ふむ、エルデを?」
頼まれた牧師が書物を閉じて立ち上がり、エルデの頬に手を当てて目を覗き込む。
その瞬間、牧師は全身に鳥肌を立てて思わず距離を取った。
「なんてことだ──いや、しかし──この潜伏に対してこの濃密さは──」
「や、やっぱりおにいちゃんの身体に、何か入ってるんですか……?」
「っ、バウム、君は何か心当たりがあるのかい!?」
訳を知っているような口ぶりのバウムの質問に、牧師は質問で返した。
バウムの口から語られた夜の一幕を聞き、牧師は思考を巡らせる。
まず間違いなくその箱が原因だと考えられるが、エルデ本人は知覚できずにバウムが見られたのは一体どういうことだろう。
「不思議な話もあるものだが……」
これまでの知識と経験から、牧師は事態の原因が呪いであろう、と結論付けた。
受容体としてのエルデの素質の高さと、一方で行使者としてのエルデの才能の無さ。
それらが相まった結果、無自覚なまま周囲に呪いを振りまく厄災と化してしまったのだ。
「取り敢えず解呪をしよう。エルデはこっちに来なさい、バウムはここにいなさい。呪いが移る危険がある」
そうして牧師はエルデを聖堂裏の工房を兼ねた空間に招き、バウムを聖堂の長椅子に座らせた。
牧師は諸々の手筈を整え、エルデを椅子に座らせて自分は聖なる証を握りしめた。
「聖なるもの、光なるものよ、今一度此処に奇跡を願わん──」
呪文を唱えながらエルデに手を翳す牧師。
彼の口は淀みなく動き、滑らかに聖なる文言を紡いでいく。
正に経験と年季から来る自信の成せる業、これまでの信頼に加えてその堂々とした様子に、エルデはすっかり安心して身を任せていた。
「──」
しかし、それが拙かった。
牧師は万全を期し複数人の協力を得て、エルデを拘束してから解呪に臨むべきだったのだ。
「……?」
失敗など微塵も頭にない牧師の掌の先、エルデの身体の中で青黒い霧のような液体のような塊が蠢き出す。
長い封印から目覚めた呪いを受け入れられる才能を持った依り代を追い出され消滅させられそうになり、呪いに組み込まれた防衛本能のようなものが働き出す。
エルデの身体に呪いが入り込んでからはや一月以上、
そして、ふと、エルデの手が呪いに操られて持ち上がる。
「──エルデ? エルデ、っ、何故だっ……エルデッ!」
安心感故にすっかり脱力していたはずのエルデの両手が、牧師を押し倒してその喉をきつく絞める。
気道を塞がれて苦し気に呻く牧師の顔を間近にしてエルデもまた取り乱す。
「えっ!?
なにこれ、なにこれッ、どういうこと!?」
「エル、デ」
もしもエルデがこの時点で冷静な頭を持てていたのなら、呪いを乗りこなす術を見出すことも有り得ただろう。
しかし現実はそうではない、エルデは未だ幼い子どもであり、自分の手で目の前の命が失われようとしていることに耐えられる精神力を持っている筈がない。
エルデの腕を何とか振りほどこうと藻掻く牧師の手は次第に力を失い、へたりと床についた。
「はっ、はっ、はーっ」
呼吸を荒げながら、絞めている首に血流がもう感じ取れないことに気が付きながら、それでもエルデの手は牧師の首を絞める力を緩めない。
確実に息の根を止めるまで絶対に力を弱めないと言わんばかりの呪いに、涙目になるエルデ。
「あ……」
ようやく掌の自由が戻り、エルデは腰を抜かしながら牧師から後ずさりする。
そして自分の手を見つめ、床にバンバンと何度も叩き付ける。
「クソッ、クソッ、くそおっ!
何なんだよ、何なんだよぉ!」
事態を受け止めきれないエルデが心のうちの靄を吐き、意味もないのに手を傷つける。
その痛みが、これが夢でも幻でもないことを痛々しいほどに彼に教え込む。
「……くそっ」
自傷行為にも疲れたエルデは、近場にあった裏口から教会の外に出た。
今の彼にとって、草木も雲も、土ですら恐れの対象である。
少しも気が休まらないまま、それでも今自宅に戻ればまず間違いなく親に危害を加えるだろうことくらいは疲れたエルデの頭にも分かり切っていた。
だから、エルデは真っ直ぐに街の壁の外へと足を向け、森へと入っていくのだった。
突然降り出した雨を避けるために適当な洞窟に入ったエルデ。
心労と肉体の疲労から、何時の間にかエルデは眠りに落ちていた。
固い土の上で横たわっていたために眠りが浅かったのか、エルデは洞窟の入り口に誰かが来たことに気が付いた。
「だれだ……ッ、今、おでに近付くんじゃねえ……ッ!」
「お兄ちゃん……」
そこに居たのは、妹のバウムだった。
元より綺麗ではない身なりのエルデだが、今は森を掻き分けたせいで裾が破れ、泥が付いている。
つい数時間前まで一緒に居たはずの兄の姿が変わり果てていることに驚きつつ、バウムは一先ずエルデの身の安全に胸をなでおろしていた。
「探したんだよ。いつのまにかいなくなってたんだからさ」
「やめろ、くるな、くるなバウム……!」
背中を向けてうずくまるエルデに、バウムは一歩ずつ近寄る。
バウムも馬鹿ではない、兄と牧師が居たはずの部屋から兄が消え、牧師だった男の身体が残されていたら、ある程度予想は付く。
それでもバウムがエルデに歩み寄るのは、呪いがあろうと汚れていようと、大好きな兄を愛しているから。
「ねえ……お兄ちゃんに何が起きたのかわかんないけど、あたしはお兄ちゃんと一緒だよ」
「バウム──」
何もわからなくなったエルデにとって、無条件で自分を受け入れてくれる存在は何よりも有難いものだった。
背中から抱きしめられた温もりに、エルデが思わず涙を零す。
この日から、兄は呪いの解放と人殺しの罪を背負い。
妹はそれらを知っていながら咎めもしない、共犯者となったのだった。
<余談:呪いの箱について>
迷境探索中に両親が見つけた小さな箱。
迷境の奥深くの宝箱に籠められていた木箱を見つけた両親は、危険だと分かりながらも放っておくわけにはいかないと判断して持ち帰った。
知り合いの呪術師や絡繰り職人に頼んで分析と処分をしてもらうつもりだったのだが、母親が体調を崩したことや、父親が一人で金を稼ぐ必要があったことを理由に、その話はなあなあで終わっていたのだった。
……あるいは、専門家が街に一人でもいれば、そして少年の奥底に潜む呪いに気付いていれば、一人の牧師の命は失われずに済んだのかも知れない。
<余談:呪いの箱について②>
呪いはかつて外見や呪術師であることを理由に虐げられた呪術師の怨念が、一定の人格を得たもの。
自らの存続を第一に、依り代の安全を第二に、呪いの拡大を第三目的にしており、第一目的を阻害しようとした牧師を最も確実かつ単純な方法で処分した。
しかし三つの目的のうち、第三目的には合致しないものの、第一と第二目的に合致するため、依り代の妹には危害を加えないという判断を下したのだった。




