親の心、子知らず。子の心もまた……
冷たい感触と浮遊感。
ゴボゴボという、くぐもった音。
目の前を上っていく小さな気泡の群れ。
それがいく先へと目を向けると、遠くにぼんやりと光が見えた。
……水面?
って、ここ、水の中じゃねぇか!!
俺は魔法を使って水の中から脱出しようとしたが、詠唱ができない。
隣ではイリスも同じようにもがいていた。
水面までは遥かに遠い。
まずい。今すぐどこかへ転移しないと息が持たない!
そう思った瞬間、何かに首根っこを掴まれた。
振り返ると、シーラが俺とイリスを掴んで、全力で泳いでいた。
そうか、シーラは傀儡だから水中でも苦しくないのか。
これで助かったと安堵したのも束の間、彼女は、あろうことか潜っていく。
待てシーラ!逆だ逆!空気のある方へ泳げ!!
歯を食いしばって、シーラの手から逃れようともがくが、力がうまく入らない。
もう息が続かないと思った時、体を包み込んでいた水の感触が消えた。
俺たちは、ぬかるんだ地面の上にゆっくりと下された。
水を含んだ服で、体がずっしりと重い。
俺は息を整えながら、言葉を絞り出した。
「なんだ……、ここ」
「アイラ様が、空気のある空間を作ってくださいました」
そう言って、シーラは上を見上げた。
つられて俺も見上げる。
頭上には、巨大な空気のドームが広がっていた。
ゆらゆらと揺れる境界の向こうには魚が泳いでいる。
「うわぁ、きれい」
「どうなってるんだ?」
俺は試しに、足元で跳ねていた魚を掴むと、空気の壁に向かって放り投げた。
魚は壁をすり抜け、向こう側の水の中を元気に泳いでいく。
なるほど、俺たちは海底の巨大な空気の泡の中にいるのか。
***
なぜこんなことになったかというと、話は数分前に遡る。
「なぁ、やっぱりオクタムーアまで転移魔法でいかないか?」
街道を歩いていた俺たちは、アイラさんのその言葉に足を止めた。
「歩くと言ったのはアイラさんですよ」
「…遠い」
「分かってたことでしょう!?」
「じゃあ多数決だ。転移魔法でいきたいやつ、手を挙げろ」
イリスが真っ先に手を挙げた。
「はいはーい!今時徒歩の旅なんて誰もしてませんよ!」
シーラはいつも通りの反応だった。
「わたくしは、アイラ様のご意志を尊重いたします」
そして、俺も遅れて手を挙げた。
ここで意地を張ってもいいことなんてない。
楽できる手段はあるんだ、楽しよう。
「結局、お前も魔法で行きたいんじゃないか!」
アイラさんが腰に手を当てて俺を睨んだ。
「俺は今まで、アイラさんに付き合ってあげてたんです!」
「じゃあ決まりだな」
アイラさんの左右の手を俺とイリスが取り、シーラがその肩にそっと触れる。
「いくぞ」
あの時の俺たちは知らなかったのだ。アイラさんのメメントが水の底にあるなんて。
***
イリスが服の裾を絞りながら言った。
「で、結局ここはどこなんです?」
「私の家があった場所だ」
「申し訳ありません。わたくしが転移前に、転移先の現状を確認しておくべきでした」
「まあ、次回からそうしてくれ」
「いや、シーラに甘すぎでしょ!?俺が同じことやったらドヤされてますよね!!」
「じゃあ、これが詫びだ」
そういうとアイラさんは指を鳴らした。
「乾かせ」
途端に温かい風が頬を撫で、俺たちの体を包み込んだ。
そのまま旋風は体の周りを回り、髪を揺らし、服の裾を翻す。
わずか数十秒で濡れた髪も服も乾いていた。
「うわぁ、なんかお日様の匂いがする」
イリスがはしゃいでいる。
「じゃあ、アイラさんの家は水の底に沈んだってことですか?」
「そうらしいな」
アイラさんはうんざりとした表情で腕を組んだ。
「シーラ、どうしてこうなってる?」
「数百年前に、この地はダムの底に沈んだようです」
「なるほどな。おかげで家が潰れて泥に埋もれている」
アイラさんは目の前にある小高い泥の丘を見つめていた。
その横でイリスが表情を緩めた。
「よかったじゃないですか。危ないものが放置されているよりずっといいです」
「危ないものばかりじゃない。私の思い出の品もあるんだ」
「思い出の品って、なんです?」
「マクシムからの贈り物だ。メメントにしたから、この辺りにあるのは確かなんだが……」
そう言ってアイラさんは、指を鳴らした。
「再構築」
その言葉と共に、目の前にあった泥の塊が細かく振動し始めた。
次の瞬間、泥が左右へ崩れ落ち、中から朽ちた木片や割れた石柱、瓦のかけらなどが次々と姿を現した。
やがて泥は地面より一段下がった場所まで取り払われ、石組みの構造物が見えてきた。
「基礎は残っていたか」
アイラさんが小さく呟く。
すると、土の上に転がっていた木片や石柱がゆっくりと浮き上がった。
俺た石柱が、石壁が、石組みの基礎の上に組み上がっていく。
床には細やかなモザイク模様が散りばめられ、かつては簡素ながらも美しい屋敷だったことが偲ばれた。
屋根の上に、赤褐色の瓦が載ったところで全体像が見えてきた。
石柱の回廊と中庭を持つ、古代のヴィラだった。
もちろん折れた石柱や足りないパーツも多々あるが、その部分は魔力で支えられている。
「素敵なお家!」
イリスがかつては木戸があったと思われる開口部から中庭へ走り出した。
俺たちもその後に続く。
中庭は意外に広く、石柱の回廊に囲まれた立派なものだった。
「アイラさんはここにシーラさんやお弟子さんと住んでたんですか?」
「弟子はとっていない。だが、後からマクシムがきた。魔力の制御を学ばせてほしいとの先帝からの依頼だ」
「それで引き受けたんですか?」
「最初は断ったさ。弟子など求めていなかったし、シーラがいれば、無理に社会と関わる必要もないからな」
「社会から離れて森の中で暮らすなんて、1週間で飽きちゃいません?」
「私は、千年飽きなかった。森で自分の時間を生き、時々人と交わるくらいでちょうどいい」
俺は二人の話を聞きながら、中庭の石のベンチに腰かけた。
「じゃあ、どうして賢帝を受け入れたんです?」
「……可愛さに、負けた」
「可愛かったから?それだけ!?」
「名を聞いたらな、護衛の後ろから顔だけ出して『マクチム』と耳まで真っ赤にして言ったんだ。小さな声でな」
アイラさんの口元が緩んだ。
イリスが少し考えてから尋ねた。
「でも、アイラさんって、子育てできたんですか?」
「失礼だな。前にも言ったが私は二十回以上結婚してる。実子はいないが、養子を育てたことは何度もある」
「へぇ!」
「だからマクシムは私にとっては末っ子だ。いや、前の子育てから千年以上経っていたから、感覚としては孫だな」
「孫……」
俺は思わず吹き出してしまった。
賢帝の日記には延々と恋慕が記されていたというのに、相手からは孫と思われていたらしい。
なんだか賢帝が不憫になってきた。
「それにここにきた頃のあの子は、強すぎる魔力が体内で暴走して、全身あざだらけだったんだ」
「うわ、痛そう」
「本当に痛々しくてな。帝都の魔術師には手に負えず、こちらへ送られてきた。なんとかしてやりたいと思った」
アイラさんの言葉にはいつもの尊大さは感じられなかった。
その目は子を思う母の目だった。
「それで、なんとかなったんですか?」
「ああ。とにかく魔力の制御の訓練を徹底させた。その努力の結晶をいま探してるんだ」
「何か手伝いましょうか?」
「いや、場所の目星はついている。お前は休んでいろ」
彼女はそう言うと中庭を横切り、一人で屋敷の一室に入っていった。
俺は立ち上がり、彼女の後を追った。
部屋の中では彼女が、床に散らばる瓦礫を魔法で浮かび上がらせ、何かを探していた。
「手伝いましょうか?」
後ろから声をかけると、彼女は作業を続けながら答えた。
「いや、いい。割れ物なんだ。一人で慎重にやったほうがいい」
そう言いながら彼女は、石板をまた一枚、また一枚と浮かび上がらせた。
何を探しているんだろう。そう思いながらも、真剣な彼女の背中を見ると声をかけるのも憚られた。
「あったあった。これだ」
しばらくして、彼女の嬉しそうな声が響いた。
石板の下から取り出されたのは、透明な玉だった。
「水晶玉?占いでもするんですか」
「いや、これはガラス玉だ。マクシムが作った」
彼女は抱きしめるように抱えていた玉を掲げ、目を細めて見入っている。
「これが、賢帝からの贈り物?」
「そうだ。これは最高傑作らしい。だから私にくれた」
そう言うと、俺にも玉を見るようにと差し出した。
受け取ると、ずしりと重い。
曇りも気泡もなく、表面はつるりと滑らかだ。
とはいえ、ただのガラス玉だ。
正直もっと高価な贈り物だと思っていた俺は、肩透かしを食らった。
「賢帝はなんのために、ガラス玉を作っていたんです?」
「魔力の制御と魔法の熟達のための課題だ。最初はビー玉サイズから始めたんだ」
再びガラス玉を自分の手に持ち直すと、彼女はそれを愛おしそうに撫でた。
「とてもビー玉サイズには見えませんが……」
「あの子は筋が良くてな。すぐに大きなものも作れるようになった」
「どうやって作るんです?」
「火の魔法でガラスを熱し、浮遊魔法で宙に浮かせ、風魔法で回転を加えて形を整えていく。泡を抜くために振動を加えることを思いついたのはあの子自身だ。よく工夫のできる子だった」
……待て。
四種類の魔法を一度に制御するのか?
「子供にそんな高度なことを?」
「子供と言っても、六、七歳にはなっていたぞ。これくらいできるだろう」
「いや、六歳で普通はそんなことできませんよ!俺だっていきなりは無理です」
アイラさんは一瞬黙った。
「そうなのか?」
そのまま腕を組み、俺を見る。
「それだと困るんだが——」
その時だった。
「アイラさん!」
イリスが開いたガイドブックのページを指差しながら駆け寄って来た。
「この近くに湖を見渡せる展望台があるみたいなんです。行きません?」
「湖を見渡せる、か。良さそうだな」
アイラさんが俺をチラリと見た。
「ちょうどいい場所があったぞ」
……ん?何がちょうどいいんだ?
「ね、行きましょうよ!」
イリスは無邪気にアイラさんをせき立てる。
ちょっと待て。
なんでアイラさんはさっき俺を見た?
俺は何かしでかしたか?
いや、まさか、今から何かさせる気じゃないだろうな!?




