夜
ようやく婚儀という婚儀が終わり、重たい衣装から解き放たれて自由になったのは夜の初め頃だった。
あとは婚儀の宴が一晩中催されるだけのようで、最初だけ顔を出した後にようやく自分の離れに戻って来ることができた。
タニイは今日一度自分の屋敷に帰るらしく、この離れに戻る時に別れてしまった。ずっと傍にいてくれただけに、いざいなくなると心細く感じる。
いや、それよりも。
「……疲れた」
メレスとラジヤたちに衣装をとってもらい、薄い衣1枚になるやいなや寝台にうつ伏せに倒れ込んで、目を閉じた。
自分のものとは思えないほどに身体が重い。目を閉じてしまえば聴覚がこれでもかと鋭敏になる。
この離れは宴席から大分離れているはずなのに、宴の騒がしさがえんやわんやと聞こえてくるかのようだ。父も兄たちもあちらにいるのだろう。結局朝にアネンと話した以来、家族と話す機会はなかった。
金や石からなる装飾品が重たかったせいか、肩に一番倦怠感を感じる。ずっと緊張しっぱなしだったから、考えることをやめたらこのまま眠ってしまいそうだ。
「お嬢様、伏せってる場合じゃありませんよ」
ラジヤが忙しそうにこちらへやってきた。
「まだ何かあるの?」
寝具から頭を持ち上げて、私を覗き込むラジヤに尋ねた。
もう疲れて動けそうにないのに。
「殿下がいらっしゃいますから準備をいたしませんと」
何となく聞いて、「そうか」と思い至る。
婚儀が終われば毎日ここを訪れるつもりだと彼は言っていた。今日のほとんどを隣で過ごしていたのに、彼ともほぼ話さずに終わっている。
「着飾るために、メレス殿が用意して下さっています。さあ」
あとは寝るだけなのにまた着飾るのかと首を傾げたが、ラジヤともう一人の侍女に促されて身体を起こし、そのまま湯浴みをさせられて、さっぱりしたところに全身に香油を塗りたくられた。
今日の最後の仕事だと言わんばかりに皆が張り切っているのが伝わってくる。
「初夜に相応しいものを身に付けて、殿下をお待ちしましょう」
その言葉にどきりとする私を置いて、侍女たちは私に白い寝間着を着せ、肩紐を金の留め具で留めていく。足首までスカートを伸ばされると、胸の下を黄色の細い帯で結ばれた。寝間着にしては上等な衣で、ただ寝るだけではないのだと思い知らされる。
「ティイ様はハスの花がお似合いになりますから、一輪髪に飾りましょう」
メレスが私の髪に小さなハスを挿した。寝台に腰掛けて、渡された手鏡の中の自分を見る。相変わらず、自分が自分でないような感覚があった。これからあの人を迎えるのだということも、何だか不思議に思えてしまう。
「お美しゅうございます」
「きっと殿下もお喜びになりますわ」
惚れ惚れとした様子の侍女に言われて顔をあげると、メレスを初めとしたラジヤとその他の侍女たちが私の前に膝をついて頭を垂れていて驚いた。
「まことにおめでとうございます。神々が祝福している声が聞こえてくるようです。どうか末永くお幸せでありますよう」
いつもの夜とは違う。まるで別れを告げられているような気分だ。
「……ありがとう」
一糸乱れぬ彼女たちの様子に戸惑いながらお礼を告げた。
「私どもはこれにて」
ここから一人にされるのかと戸惑う私を残して、皆が頭を下げていそいそと寝所から出て行ってしまう。最後に笑顔で「頑張って下さいね」と仕草で伝えて出て行くラジヤの姿があった。
扉が閉ざされる音を最後に、あれほどばたばたしていた部屋がいきなり静かになる。物音ひとつせず、自分の鼓動ばかりが身体に響いていた。
整えられた寝台も、白く流れるようにある天幕も、僅かな灯りだけが揺れる整頓された部屋も、半月過ごした場所なのに何だか知らない場所に見える。
一人がこれほどまでに心細いと思ったことはない。書物を読む気にもなれず、今自分が何をしていればいいのか分からない。
王宮に入る前、ムノでメティトから教わったことが思い出され、これから始まることを予感して寝台の上で身を固めた。
──これから、閨のことが始まる。
話と絵だけでしか知らないが、本当にそんなことをするのかと今でも信じられないでいるのに。
頭を抱えていると、扉が開く気配と共にサンダルの音がした。
黄金のサンダル──彼だ。
こちらに近づいてくる足音にはたと顔を上げて、寝台から反射的に立ち上がった。
「どうした、そんな固い顔をして」
伴も連れず一人で部屋へやってきた相手は、寝台の前で突っ立っている私を見るなり少し驚いた様子でそう言った。昨夜とは違って庭からではなく、今夜は離れの正式な入口から入ってきたらしい。
服装も儀式のための衣装をすべて取り去った、昨夜と同じ寝間着姿だ。
何か言葉を返そうにも相手を真っ直ぐ見ることすら出来ない。緊張で右も左も分からなくなりつつある私に対して、彼はいつもの変わらない悠々とした様子でこちらへやってきた。
「今日は疲れただろう」
私の髪を撫でながら、こちらを覗き込んでくる。
黒い瞳に映る自分を見ることすらままならなくて、近くまで来た相手の胸元に視線を落とした。
「慣れている私でも疲れるのだ。初めてのティイには辛かったはずだ」
儀式が多いのは、神の数が多いからだ。確かに疲れたが、アメンラーを始めとした主な神々に私たちの婚姻を知らせるために、それらの儀式を熟さなければならないのは分かっていた。義務なのだ。
「もう少し簡略化しても良いように思うのだが、神官たちはそう思わないらしい」
彼はそうぼやきながら私の寝台に腰掛けた。
すべての神々に伝えなければならない、古から続く行事を簡略化するなど考えも着かないことで目を丸くする。本当にこの人は、一風変わった考え方をする。
「座ったら良い」
自分の隣をとんと軽く叩く姿は、昨夜とまるで同じだ。
特別な空気はない。夜の宴を抜け出して、灯りがない場所でよく会っていたあの時の感覚に似ていて、ゆるゆると溶けていくものが胸の内にあった。
少しだけ距離を置いて腰を掛けると、寝台の軋む音がした。
「さあ、何から話す?」
寛いだ様子で彼が笑んだ。
近くにある小さな灯りがその表情を照らして浮かび上がらせている。
「え?」
何のことだろうと聞き返した私に、彼は嬉しそうに笑った。
「ようやく声を発したな」
言われてみれば、この人が部屋に来てから声を出していなかった。
「昨日の別れ際に、また話したいと言っていたではないか」
そうだった、と思い出す。
昨日話せたのが楽しくて、別れが惜しくて、この人にそう告げたのは自分だ。
昨夜と同じように話しにきてくれたのだろうか。
だが、何を話そうかと尋ねられると、話題とはすぐに出てこないものだった。
「……あなたの年は?」
突拍子もなく出てきた質問に、彼は笑うことなく穏やかな表情のまま口を開いた。
「次のナイルの氾濫で二十歳になる。ティイは十八になる頃か」
頷いた。私も次の氾濫でひとつ年を重ねる。二つ違いだったのだと初めて知った。
「年が近いと良いな、話しやすい」
誰と比べてかは尋ねなかった。おそらく多くいるという側室のことだ。
「あなたのこと、二人の時はなんて呼んだらいい?」
人前では「殿下」や「王子殿下」が相応しいだろうが、子供の頃から彼を知るヘルネイトはヘカワセトと呼んでいる。前に尋ねたときにアトラーと教えてくれたから、王宮に入った今もそのまま呼んでいるが、他に相応しい呼び方はあるのだろうか。
「ティイの好きなように。アトラーでも良い。ティイだけに許した呼び名だ」
自分だけが呼べると言われると、嬉しさがぽつりと胸に生まれる。
「……なら、アトラーにしようかしら。もうこちらの方が呼びやすいの」
自分の頬が綻ぶ。
今まで聞いてもはぐらかされていただけに、こうしてすんなりと応えて貰えるのは素直に嬉しかった。そして相手の名を呼べることにも、幸せを感じる。
「ねえ、アトラー」
質問を続けようと名を呼んだその時、彼がぐっと身体を近づけて私の両肩を掴んできたものだから驚いた。
「急にどうしたの」
突然身体が接近して狼狽えてしまう。
「もう一度」
「……え?」
ぽつりと零れた言葉を拾う。
「もう一度名を呼んでほしい」
近づいた相手の息遣いを感じて、顔に熱が走った。
名前を呼んだらいいのだろうか。
「……アトラー」
少し緊張しながら再度相手の名を呼ぶと、その顔がぱっと花が咲いたように綻び、彼は軽く私を抱き込んだ。
「名を呼ばれることを、こんなに嬉しく思ったことはない」
そう言われて思わず笑ってしまう。
身体を離して相手を見上げた。
「だってあなた、私に名前さえ教えてくれなかったじゃない。これからは何度だって呼んであげるわ」
「それは素直に嬉しい」
少しはにかむ彼がまるで子どもように笑う。
「あなたのこと教えて」
相手に少しだけ身を乗り出した。この人について知りたいことが沢山ある。
「何から話せば良いだろうか」
「じゃあ、まずは生まれから」
そこからかと彼は肩を揺らして、顎先に手を添えて考える素振りをした。
「そうだな……もう知っているだろうが、父は紛れもなく現ファラオだが、母は父の側室ミタンニの王女だった」
ミタンニ王女ムテムウィアだ。
今のファラオの側室としてミタンニからやってきた彼女ももうすでに亡くなっている。
「父の正妃に子が生まれたこともあったが、育たなかった。残ったのは私だけだ。それで私が王位継承の第一位になった。次期王たる存在の母がミタンニの人間であることをよく思わぬ者もいて、それを隠すべきだと唱える者も出たために、神から生まれたという記録にされている」
その記録も聞いたことがあった。彼が生まれたときも、ミタンニ王女が母親だとは公にされず、神から賜ったと声明が出ていたはずだ。確かにエジプト王家の両親から世継ぎが生まれることが一番望ましいことだろうが、母がミタンニの人間だとそれだけで問題視されてしまうものなのかと驚く。
「生まれは今更どうこうできるものでもない。私以外に王位を継承できる人間がいないのだから意味は無いのだが、回りは細かいことにうるさい」
自分の出自を変えられてしまうとは、王家はなんて大変なのだろう。
話で聞いていたことを、本人の口から聞くと、まるで違う話に聞こえてくる。
「ティイもミタンニの血が入っていると聞いた」
尋ねられて頷く。
「母の家系がミタンニなの。あなたが褒めてくれたこの目の色もミタンニの由来だって言われたわ。母方の祖母が同じ色だったみたい。母も兄たちも皆黒い目なのに、私だけ違っていて、小さい頃はとても嫌だった」
ミタンニはこの国より北にあり、そこにいる人々は瞳だけではなく肌も髪も色が薄いのだと言う。
彼の外見もこの国のものではあるものの、どこか違って見えるのは、私の目の色と同じように北の血が入っているためだろうか。
「私はその瞳が好きだ。ずっと見ていたくなるほどに」
不意に、伸ばされた手が自分の頬に触れる。
鏡を見て、この目の色もいいかもしれないと思えるようになったのは、この人に褒められてからだ。触れられたところから熱が全身に回るようで狼狽する。
「……小さい頃はどうやって過ごしていたの?」
自分の戸惑いを払拭するように相手に尋ねた。
頬にあった彼の手は、ゆるゆると肩に流れる私の髪に移ろう。
「幼少期は乳兄弟のウセルハトをつれてよく王宮を駆け回っていた。あれとはほとんどの時間を一緒に過ごしている」
「二人は息がぴったりよね」
今日時々言葉を交わす二人を見ていて思ったことだった。
ウセルハトは自分の主人が何を欲しているか、すべて分かっているようによく動いていた。
「最早腐れ縁だからな。ちなみにメレスは私の元乳母だが、ウセルハトの母親だという話は聞いたか?」
「そうなの!?……言われてみればなんとなく似ているかも」
驚いて声が大きくなった私に、彼は軽く笑った。
「改めて見てみると案外似ているところは多い」
互いに笑いながら話せていることが嬉しくて、頬が綻ぶ。
「タニイとはいつからの知り合い?」
知りたかったことを尋ねながら、自分の髪を撫でる彼の手を取り、その手に視線を落とした。暖かくて大きな手だ。指は自分よりも長く、その甲は骨張っている。剣は頻繁に握っているようで、剣だこがあるが、手入れの行き届いた綺麗な手だった。
「タニイとはラモーゼが宰相になってからだから、私が五つくらいの時だな。タニイは八つで、初対面の時から偉そうな顔をしていた。こちらが王子だと分かっているのかと思うくらいに、よく私を負かしては馬鹿にして……そもそもタニイのことは数年間男だと思っていたくらいだ」
何気なく彼の手の甲を指で触れた。自分の指から伸びる影が、彼の手の上で踊る。
「だから私があなたにタニイを会わせたいと言った時、あからさまに嫌な顔をしたのね」
視線を上げた先、思ったよりも近くに相手の顔があって、ひとつ大きく鼓動が鳴った。
「タニイは今でこそ父親に似て良い助言をくれるが、私よりも早くティイと知り合い、楽しく過ごしている事を知って嫉妬したのだ。私たちは月に一度の夜にしか会えぬというのに、それまでタニイに邪魔されては堪ったものではない」
相手の言い草に思わず笑ってしまう。
あの時、彼の言葉や表情からどこの誰なのかと思考を巡らせていたが、当の本人はそんなことを考えていたのだと分かると何だか可笑しく思える。
「ティイに正体を明かしたあの日の翌日も、タニイに叱られた」
「そうなの?」
タニイからそんな話は聞いていなくて目をしばたたかせる。
「何も知らないティイになんてことをしてくれたんだ、殴られて当然だと」
私が、王子に口付けされそうになったと告げた時、タニイは怒ってくれたのだ。
「あれはティイの姉気分なのかもしれぬ」
「あら、私もタニイのことは姉だと思っているのよ」
勘弁してくれ、と彼は笑った。
「ヘルネイトとは?彼女ともタニイと同じように小さい頃から一緒だったの?」
彼女が彼のことをヘカワセトと呼んでいて、二人は呼び捨てにするくらいの仲なのだと、最初は驚いたものだ。
「宰相の娘であったタニイほどではないが、最高神官の娘ヘルネイトとも顔を合わせる仲ではあった。最初に会ったのは十の時か。ラモーゼに学ぶ時はタニイがいて、神殿に行くと最高神官に連れられたヘルネイトがいた。だが、それだけだ」
私がテーベで生まれ育っていたら、そこに混ざることはあったのだろうか。
決して実現することのない想像に思いを馳せていると、自分の手の中にあった相手の手がゆるりとこちらの指に絡んだ。
心地良いぬくもりがある。
「……王族でいることは大変?」
自分の手元の様子を眺めながら、ぽつりと尋ねた。
きっと今の仲でなければ、決して尋ねることがなかった問いかけだ。
彼は少し首を傾げて口を開く。
「どうだろうか。他の暮らしを知らぬからな……ただ、父のことは誇りであり、尊敬もしている。父の後を継ぐとなると背負うものも多いが、こういう立場は案外性に合っているのかもしれぬ、とは思っている……自分が王位を継いだ時どうなるかは分からぬが」
手のぬくもりを確かに感じ、夜の闇にしみいるような声に耳を傾けながら、目の前にいる彼の目を見た。彼の澄んだ瞳が、私の網膜にある。
「変なことを言ってもいい?」
構わないと彼は優しい表情で頷いた。
「あなたと会うまで王家というのは神のような存在だと、神そのものだと思っていたの」
幼い頃からすり込まれてきたことだ。そして王族たちの姿を見る機会もなかったために、この人に会って正体を知るまではずっとそう思っていた。
「今まで誰のことも差別しないで生きてきたつもりよ。誰もが同じようにあるべきだと。学ぶ権利は誰にでもあるのだと。身分など関係無しに、何も変わらないのだと。でも、王家だけは違うのだと当たり前のように思っていた」
少し目を伏せて言葉を探す。
「王家は神そのものであって、私たちとは全く違う存在で……王族の方々に感情があるとは考えたこともなかったかもしれない」
瞼を開けば、私の話に耳を傾けてくれるその人がいる。
「でも、あなたは私と同じなんだわ。喜んだり、悲しんだり、怒ったり、楽しんだり……皆と何も変わらないのよね」
彼が正体を明かさないでいてくれたから、辿り着いた考えだ。
自分の指に絡む彼の手を胸に抱いた。
「だから私はあなたと二人でいるときは、あなたが王子であろうと王であろうとそれを忘れて接しようと思っているの。あなたは私の夫で、ただのひとりの人なんだと」
勿論、外では立場を尊重しなければならないけれど。
「あなたと何でも話せる仲でいたい。困っていることも、嫌だったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、好きなことも、面白かったことも」
苦楽をともにするというのはきっとそういうことだろう。
「皆、夫の後ろを歩くように言うけれど、私はあなたの後ろではなく、あなたの隣を歩いて行きたい」
そのためには、これから色々と学ばなければならない。
今の私にはどうしたって政治のことや国に関する知識が足りない。諸外国の知識も増やしていかなければならない。でも勉学を許された今、私は望むままに学ぶことができる。そうすれば微力ながらもこの人の力になれるかもしれない。
「そんな風に考える私でもいい?」
自分の今の正直な想いだった。
今の発言が、本来ならあり得ない、考えもしない、常識外れなことだと分かっている。
それでも、この人が王家の人間でありながら自分と変わらないことを知って、夫婦になることを思えば、伝えずにはいられなかった。
「勿論だ」
なんて返事が来るか緊張していたところに、彼はそう言って私をそのまま抱き込んだ。視界が彼一色になる。
「それでこそティイだ」
彼が喜んでいるのだと分かって、胸が熱くなった。
「そういうところが好きだ。愛おしくて堪らない」
相手の一言一言が無性に嬉しく、胸がときめいて仕方が無い。
力の限り抱き締められ、息が詰まってしまいそうなほどの喜びが自分の中にあった。
「さて、」
不意に彼は腕の力を緩めて、そこにいる私を覗き込んだ。その表情は嬉しさに満ちている。
「ひとつ、頼みごとがある」
改まった様子で彼は私を見つめる。
「頼みごと?」
首を傾げて尋ね返す。
「気づいたのだ、大事なことを確認していないと」
今更確認していない大事なことなどあっただろうか。
互いの額を合わせるように顔を近づけた相手は、目を伏せて口元を綻ばせる。
「ティイが私をどう思っているかまだ聞いていない」
彼の指が私の頬に触れて、顎先へと流れていく。寝台の近くの小さな灯りが小さく揺れて私たちの影も揺れた。
「ティイは私を好いているのか?」
相手の艶やかな指の動きに、柔く笑む。
「好きじゃなかったら、こんなところに来たりしないわ」
どうにか答えたのに、彼は首を横に振った。
「遠回しな言い方は好きではないのだ」
互いの鼻先が触れ合うくらいの距離になる。
相手がどんな言葉を望んでいるのか分かって、思わず彼の頬に両手を伸ばした。
自分が恋い焦がれた相手のすべてが今目の前にある。その黒い瞳に自分だけが映っていることが、何よりも嬉しい。
「……好き」
囁くように告げる。
目を見て伝えるのが恥ずかしくて、そのまま彼の首に腕を回して身体を寄せた。
「あなたが、大好き」
私の精一杯の返答を受け取った彼は、私を抱いて寝台に倒れ込んだ。
心地良い重みが身体に加わり、世界はぐるりと反転する。寝台が一段と軋む音を響かせ、反動でメレスが挿してくれたハスが髪から落ちていった。
すぐそこに愛おしい人の顔が迫る。柔和の中に優艶さを孕んだ切れ長の目で見つめられ、私の心臓は早鐘を刻み、胸を押し上げるようだった。
「ティイ」
静かに名を呼ばれるだけで胸が疼く。
闇の中で僅かな灯りに浮かぶ黒い瞳に見惚れていたら、ぬくもりを帯びた彼の手が私の顎を掴み、ゆっくりと唇が重ねられた。
昨夜交わしたものよりも、それはすんなりと馴染んだ。
何も考えられなくなるほどの甘ったるさ。夢心地で、例えようのない甘美なものが世界に満ちる。ずっとこのままでいたくなる。怖くなるほどに。
昨夜のような触れ合うだけのものから次第に深いものへと変わっていく口づけに驚いて、接していた彼の胸を思わず押し返したが、彼はたじろぐ私の身体を更に引き寄せ、息苦しさで合間に漏れる私の声を奪うように口づけを深くする。
何が起こっているのか分からず、翻弄されるままにぐっと瞼を閉じた。
自分の口から漏れる声も、口付けで恍惚とする感覚も何もかもが初めてで訳が分からない。
身体の奥底が熱くなって、いずれ爆ぜてしまいそうだ。
ようやく唇が離された時、私は肩で息をしながら固く閉じていた瞼を押し開けた。広がった視界に、穏やかな表情を浮かべた相手が私の顔に掛かった髪を撫でるように払いながらこちらを覗いていた。
自分の呼吸音ばかりが部屋に響く。何も考える余裕がない。
本能のままに手を伸ばして、目の前に浮かぶ彼の頬に触れた。暖かな肌だった。
──もう一度。
とても苦しかったはずなのに、もう一度してほしくて仕方が無くなる。感じたことのない心地良い息苦しさだった。
「……アトラー」
堪らず、自分にだけ許された名を濡れた唇で呼ぶと、寝台の軋む音を背景に、私の欲求に応えるように彼の吐息が近づき、再びどちらからともなく互いの口先が合わさった。彼も同じ想いだと知ると胸が嬉しさでいっぱいになる。
角度を変えて熱を交わし、二人の吐息が混ざり合い、やがてはどちらの息かさえ分からなくなった。
相手の指が私の指に音無く絡み、二人のぬくもりが合わさってその熱を上げていく。重ねられていた彼の唇が私の頬へ、首筋へと流れていき、唇の辿った跡が、夜気に晒されて濡れた感触を残していく。
やがて長い指が肩紐の留め具を外し、寝間着が肌を沿って落ちていった。
一糸まとわぬ心許なさに訳も分からず相手に縋り付くと、彼も私の身体を掻き抱いて私の肌に唇を落とした。
初めてのことへの怖さは少しだけある。それでも互いの素肌が触れ合い、重なり合うほどに溢れる幸福感がそれを覆い隠すようだった。
彼が繰り返し私の名を呼ぶ。愛おしいと囁く声が、私の耳を打つ。その声を聞きながら彼の腕に抱かれ、私は夜の闇に身体を委ねる。
視界の端に、小さな灯りがひとつ揺れているのを眺めて、私は静かに目を閉じた。
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