エルデ、収穫祭の日に王城後宮に向かう その前に…… 夜のフェルデン小聖堂。
――― 王宮の手配にて、フェルデン別邸に帰り着いたのは夜の帳が降りる頃。
私は、着替えもソコソコに真っ直ぐに小聖堂に向かったの。 精進潔斎は簡易式でね。 アーガス修道士様に『シロツグ卿の真意』を、一緒に考えて貰おうと思ったのよ。 私一人では、手に余るわ。 それに、私が成した事は、王族に対しての不敬とも取れかねないもの。
自分自身の治療も…… 一応はしなくちゃならないしね。
既に日は落ち、辺りは夜の静寂に包まれていたわ。 月は地平から昇り始め、清清とした光を投掛け始めていた。 月光に照らされた本棟から小聖堂への小道を歩む。 静々と、粛々と祈りを口にしながら。 忘れようとしていた痛みが…… かなり腫れて来た頬の痛みが、強くなってきたのよ。
―――― 小聖堂の薬師処に向かう。
アーガス修道士様は、其処には居られなかった。 どうやら、誰かに呼び出され、聖堂教会、王都大聖堂へ向かわれたご様子。 余程、切迫していたのか、教皇猊下からの親書が開封されたまま、テーブルの上に放りだされてたもの。 ダメだよ、『親書』をそんな風に扱っちゃ…… はぁ…… 見ちゃいけないから、テーブルに近寄れないじゃん。
誰も居ない小聖堂は静寂に包まれていたわ。 薬師処のいつもの場所にストンと腰を下ろし、小さく魔法灯火を灯す。 仄暗い薬師処に、橙色の光が溢れたわ。 ジンジンとした痛みが強い。 これは手当をしなくては…… 顎の骨まで逝っている?
――― 薬師処は、私の居場所 ―――
アーガス修道士様を待つ間に、痛み止めと腫れ止めを調剤する。 丸薬と湿布。 まぁ、難しい調合では無いし、いざと成れば『癒しの奇跡』も使えるけれど、自身に使うのは躊躇われるの。 だって、この権能は他者に使うべきモノであって、自身に行使する奇跡では無いのだから。
それに、神様と精霊様にお祈りして、私が行使する『奇跡』は、『聖女の権能』の一つ。 当然、その効果や周囲に顕現する様々な現象は、想像を絶する程に神々しいのだもの。 そんなモノを軽々しく扱う事なんて出来ないし、禁じられても居るのよ。
でも、『錬金調剤』は、禁じられていないし、むしろ『修道女が研鑽』として推奨されているわ。
幸いにして、ルカが沢山の、そして、貴重な薬草やら錬金素材なんかを探索者ギルドから持って来てくれているから、材料、原料には困らないわ。 薬剤による治療は、教会の薬師としては、自身の研鑽にも繋がるから、大いに行使すべきモノなのよ。
アルタマイトから王都に向かう間にも、色々と簡易調合でお薬を作ったわね、そう云えば。 どうしても一人きりの道行では、怪我も有るし不調もある。 だから、オクスタンス様から、小さな怪我や不調に対して、積極的に自身の『手技』を使いなさいと、そう指導されていたのよ。
その延長線上にあると云ってもいいわ。 薬師、治癒師として、実際に検証できる機会として、私はそう捉えているのよ。 でも、まぁ、あんな大きな人に、力一杯に頬を殴られるとは思わなかったけれど。 咄嗟に力を逃がす様に動いたけれど、相当に堪えたわ。
オクスタンス様の薫陶を受けた私には、これだけ豊富な材料さえ有れば、良く効く薬剤を調合するのは全く問題無い。 稀少な材料を元に、錬金製薬の魔法術式を展開して、『痛み止めの丸薬』を作り上げ、直ぐに口にする。
口の中が切れていたのか、とっても沁みた。 結構高度な効能を持つ丸薬だったから、すぐさま痛みは薄れていくの。 かなりの『癒しの効果』が内包されているから、顎の骨も修復してくれているのかも? これだけでも良いのだけれど、修復中は熱を持ち、腫れる。 だから、その対策もしておこう。
対策としては、腫れ止めの湿布薬。 コレは熱を取り去り、血行を促進し、腫れを抑える。 骨に異常が有る場合に使うのよね。 それに、ルカが持って来てくれた稀少な魔物素材は、その効能を底上げするのよ。 早速レシピを思い出しながら、錬金製薬魔法術式を展開して、次々と必要素材を術式内に放り込んで行くのよ。
なんの問題も無く湿布薬は練り上げられる。 術式の下から落ちて来る『練り上げた薬剤』を白絹で受けとめ、塗り広げてから、頬に当てる。 かなりの粘着性のある薬剤だから、頬にピタリと張り付いて、熱と腫れを吸い取ってくれるのよ。
効能は絶大よ。 まぁ、半日くらいで、まぁ元に戻りそうね。 痛みも消え失せ、発熱も収まり、ホッと一息付けたの。
あぁ…… 痛かった。 使った錬金製薬術式を昇華させていると、突然、薬師処の扉が開き、目を怒らせたアーガス修道士様が、ズカズカと入ってこられたのよ。 開口一発目が、叱責だったのは…… ちょっと理不尽ね。
「このお転婆娘めッ! 何ヤラカシタッ!」
「あぁ、アーガス修道士様! お帰りなさいませっ! 丁度良かった。 御話が有ります」
御怒りモードだったアーガス修道士様に、大声で反応。 御怒りを躱すには、相応の衝撃は必要ね。 ええ、そうよ。 まるで猫さんがシャーって云うみたいにはね。 でもね、そんな事、必要じゃ無かったみたい。 だって、アーガス修道士様は、目の前にいる負傷している私を見て…… 頬に大きな湿布を当てている様を凝視して、絶句されたの。
そして、絞り出す様に問いかけられたのよ。
「いや待て、その顔どうした? いや、聖堂教会から呼び出し喰らって、色々と説教されたんだ。 お前の無茶を何故止めなかったってな。 色々と訳が分からないまま、呼び出し喰らって説教されて…… いや、そんな事ぁどうでも良い。 さぁ、一から話してもらうぞ」
「はい。 わたくしも、それを望んでおります。 どうか、混沌に沈む私に道を示して下さいませ」
「あん? いや、何を? …………状況が悪いのか?」
「善悪と云えば…… 善き方向に向かい始めたと云えましょうが、短期的に見れば、わたしは立場を失いました」
「ん? どういう事だ?」
「実は…… 」
掻い摘んで…… と云うより、じっくり、ねっちょり、私を取り巻く蜘蛛の巣の様な状況について話し始めたの。 実際、貴族的アレコレに絡みつかれ、ほとほと困惑していると云うのも有るのよ。 第三位修道女エルとして、在りたかったのに、周囲はそれを許してくれないの。
でね、掻い摘んで、状況の説明をしたのよ。 ほぼ、最初から……
マリー様の心強い軍師を、無理筋を押して奪おうとされた事。
王家のサロン内に、濃密な妖精様方の御加護の気配があった事。
多分、二十七柱の妖精様方の加護であった事。
其処からは、更に掻い摘んでと…… 聖堂教会が秘事に関して、宰相閣下に御話したんだもの、それは、きちんと説明しないと、後でどやされる事、間違い無いわ。 だから、ね。 殊更に慎重に、私に火の粉が降りかからない様に気を付けながら……
問題の多くにリッチェル侯爵家が絡んでいる事。
それに、今回の事象に『妖精様方』の意思が厳然として存在している事。
何より、妖精様方の御加護により、
『ヒルデガルド嬢』が、周囲の方々に対し、とても強く…………
―――『 愛する事を強いている 』事 ――――
多分だけど、ヒルデガルド嬢が行使する『癒しの奇跡』は、妖精様方の『御加護』の賜物だと云うことも合わせて伝えたの。 だって、アーガス修道士様は、確実に聖堂教会側の人だし、祭祀については専門家だから、妖精様方への接し方も心得ておられるのだもの。 推測も合わせて、私の考えをすべて『お話』する相手としては、正にうってつけの方なのよ。
――― じっくりと、その辺はぼやかさずに『 お話 』するの。
王家のサロンに充満する、人の精神に干渉する妖精術式が駄々流しに垂れ流されていた事。
精霊様にお願いして、精霊の息吹を勧請した事。
精霊様方は、何の躊躇も無く息吹を吹き込まれた事。
とても不快で、そうしなくては自分が保てないと、そう思った事。
その結果、少しは醒めたらしい第一王子殿下は、自身が無理筋を押した事に気が付かれた事。
場が落ち着いた丁度その時、その場に居られなかった、リッチェル侯爵家の御三男が入室し、ヒルデガルド嬢に付けられていた取り巻きの一人から状況説明を受け、ヒルデガルド嬢の御意思を無下にした愚者に…… フェルデンが令嬢に鉄槌を落としたのよね。
ええ、ええ、信じられないくらいの愚行を起こされたのよ。
あの方が、私が嘗て妹であった《エルデ》と云う事を認識出来ていなかったみたいなのよね。 激昂した彼が、後先を考えず、騎士見習いとして立てた『誓い』も、貴族男性としての『矜持』もかなぐり捨てて、凶事を成したのよ。 あの優秀でお優しいと評判の方がね。
つくづく思うのは、妖精様方の『御加護』とは、本当に人の精神に干渉してくるんだって事。 理性と知性を奪われた彼は、状況を俯瞰する事も、現状を鑑みる事も無く、自身の衝動に身を任せられたのよ。 貴族男性としては、本当に有り得ないわ。
で、此処からが、大問題な現象。 国家安寧を揺るがす大問題なのよ。
あの方に打たれ、吹き飛ばされそうになった事。
シロツグ卿の命を受けた『チ』の一族の方二人が突如姿を顕わせられた事。
そのお二人が、危うくあの方の命を奪う所だった事。
王家の暗部が、危機的状況を救って下さった事。
愚かな暴力が二つ…… 『王家のサロン』で成されたと云う事実。
そして、その事実が瞬く間に広がった事。
諸々の思惑が直後から渦巻き、様々な陰謀が画策された事……
ええ、ええ、ねっちょり、御話しましたよ……
要所要所で深い溜息をつかれるアーガス修道士様。 憮然とした表情を浮かべ、腕を組み首を傾げ、なにやらブツブツと口の中で仰っているのだけで、聞き取れないわ。 陰鬱な表情が、アーガス修道士様の御顔に浮かぶ。 修道士として、その表情は如何なものかと思うけれど、そうしてしまったのは、私の行動のせい。
申し訳なく思うと同時に、アーガス修道士様が只者では無いのが確定したのよ。
確定したのはアーガス修道士様の『表情』。 その表情はまさしく、王侯貴族のそれと変わりのないモノだったから。 それも、只の高位貴族ではありえない程の、高貴で崇高な『光』が、瞳に灯り、思慮深く、そして、貴族の遣り口を悉知したモノが浮かべる表情。
全てを上から睥睨する事に慣れた者が、する『 表情 』だったの。
「クソ厄介な事に首を突っ込んだものだ。 いや、自身が起こしたと云う事だな。 相手を自身と同等の精神性の持ち主と思ったか。 『妖精様方の御加護』の悪しき側面がそこまで侵食していたと、判らなんだか。 仕方ないと云えば、まぁ、仕方ないのだろうが…… ん? なら既に教会には知らせが届いている筈だ。 と、云う事は、アレが来るな……」
「アレとは?」
「エルの精神的保護者だよ。 既に、聖堂教会にも『知らせ』は、入っているだろうな。 あの老獪な宰相閣下は、その辺は抜かりない。 直接、教皇猊下に繋ぎを付けたかもしれん。 とすると、次の展開として考えられるのは……」
と、そこまで言葉を紡がれた後、小聖堂の入口から、数名の男女が姿を顕わしたのよ。 ええ、そう、アーガス修道士様の予測通り、王都薬師院 別當 リックデシオン司祭様が姿を顕わされたの。 今回は、異端審問官では無く、薬師院別當としてね。 それが判ったのは、リックデシオン司祭様の司祭装束と、彼の方が随伴されていた方々の御姿から。
真っ白な修道女の装束。 首に掛かるのは、誰が見てもすぐにわかる『聖女候補』のストラ。 『癒しの奇跡』を発現できる、高位の修道女の方々だったんだもの。 フェルデン小聖堂、薬師処にリックデシオン司祭様の大声が反響する。
「エルッ! 大事無いかッ! 乙女の顔を殴るとは!! 頭を振られているやもしれん。 意識に混濁は無いか? 後から来る事も有る。 首はどうだ。 アリョーシャ、ミーティア、直ぐに奇跡の行使を!」
「や、夜分に、お、お疲れ様です、リックデシオン司祭様。 あ、あの、もう治療は済ませました。 き、奇跡は必要ありませんわ。 お薬も、湿布も…… 治療は終えております」
「騎士見習いの屈強な男に、顔を殴られたんだそ、他にも心配するべき事は多々ある。 兎に角、診せろ」
リックデシオン司祭の剣幕に、思わずたじろいたのよ。 アリョーシャ修道女様と、ミーティア修道女様に手を取られ、診察されたわ。 お二人とも、特級の修道女様。 高位の治癒師である事は、手から流れ込んで来る、治癒の『精霊魔法術式』で、理解できたのよ。 いや、こんな待遇、おかしいでしょ? 複数の高位の聖女様が治癒に当たるなんて、前代未聞よ?
アーガス修道士様がニヤニヤと笑みを浮かべつつ、私に言葉を投げつける。
「まぁ、諦めろ。 リックが言う事も間違いでは無い。 頭を打ってないか? お前の事だ、反撃しようとして、相当に無理をしている可能性もあるしな。 お前自身の霊体も心配だしな。 まぁ、お前の事だ、そこまで重篤な状況では無いのは理解できるし、まして、宰相府で『報告』していたんだろ? その上、こっち迄帰ってこれたんだ。 ……心配はないだろうがな」
「そうですよ…… まるで、『幼子』かどこかの『高位の貴族令嬢』に対するように御座いましてよ」
「お、お前…… なぁ…… 自分が何者なのか、まだ理解してないのか?」
吐きだされる溜息。 アーガス修道士様は、リックデシオン司祭様に頭を振り振り視線を向けられるの。 もう処置無しって感じなのよ。 何でよッ! 高位修道女様方の診察は、あっという間に終えたわ。 だって、もう痛みも引いたし、湿布のお陰で腫れ迄小さくなりつつあるんだもの。
それでも…… まぁ、気休め程度には『癒しの奇跡』を、施して下さったの。 明日に触るといけないからって。 とても優し気な視線で私を見詰め、そして、耳元でそっと言葉を紡がれるの。
” 我慢してくださいね、リックデシオン司祭様の手前、何もしないのでは話になりません。 まぁ、何かしたと云う、既成事実が有ればいいのですから、神聖聖女様 ”
丸く目を見開いて、高位修道女様方を見てしまう。 だって、私の事を、そう呼ばれたんだもの…… そんな私を見て、お二人の内の御一人が耳打ちを続けられたの。
” 心得ております。 今は第三位修道女エル様。 しかし、聖女候補と云われる者達の間では、既にエル様の事は周知の事実なのです。 それは、オクスタンス大聖女様からも、聖女見習い達に、その旨の通達が御座いましたのよ。 知るべき事実として。 そして、通達の最後には 『秘匿せよ』との厳命が御座いました。 御心配は無用に。 教会の聖女候補の者達は、皆、貴女の事を大切に思っております故 ”
ど、何処までも、オクスタンス様は過保護なんだからッ! 慌てて小さく頷くの。 謝意を示し、神様と精霊様に感謝の祈りを捧げるの。 ええ、ええ、彼女達が恙なく修練を終え、『聖女』の認定を受けれられる事を願い、祈り、奉ったの。 優しい風が私達を取り巻くの。 優しき御手が、私達の頭を撫でられたわ。
まるで、『任せろ!』と云わんばかりに。 今度は高位修道女様方の方がびっくりされていたわ。 これで、おあいこね。 お互いに、顔を見合わせ、そして、笑顔がこぼれるの。 ええ、ええ、そうよ。 私達は、『精霊様方』に祝福を与えられたのよ。 『精霊様方』にね。
―――――― § ―――――
ぼそぼそと語り合っていた、アーガス修道士様とリックデシオン司祭様が私に向き直るの。 お二人とも、真剣な光を双眸に浮かべ、私を見詰める。 其処には、様々な思惑の光が見えたのよ。 でも、それが何を意味するかは、分からない。 えっと…… なにか? リックデシオン司祭様が、言葉を紡ぎ出されたの。
「事は、少々複雑になったな。 王家…… と云うか、国王陛下はエルに敵対する事は無い。 これは、確かだ。 無いのだが…… 次代の者達にとって、エルは煙たい存在となった」
「それも、相当にな。 リッチェル侯爵家は、王国の官吏達の屋台骨でもある。 貴族社会とは別に、官吏の世界は複雑怪奇で、厄介この上ないんだよエル。 その辺は理解しているか?」
口々に、現状を語る修道士様と司祭様。 リッチェルで貴族のアレコレを叩き込まれ、そして、実際にアルタマイトの領政に取り組んでいた私には、彼等の語る内容は、よく理解できる。
官僚たちの世界は、それこそ魑魅魍魎、百鬼夜行の世界でも有るの。
人として、人知の限りを尽くし、組織を維持し、権力を維持しつつ、己の所属する場所を死守するのは、なにも『国』と云うモノばかりでは無いわ。 その中にある組織人たちも又、自身の居場所を死守するのに、常日頃から戦い続けているのだもの。
戦場は違うけれど、武官も、文官もそれは同じ。
文官である、官吏、官僚の方々の多くは、下位貴族の御継嗣以外の方々で構成されているの。 王城に職を得ると云う事は、それだけ優秀な頭脳を持ち、貴族家の連枝門下の中では頭抜けた存在でもあるわ。 つまりは、頭の良い権力者の縁故と云う訳。
そんな方々は普段は御国の為に汗を流す存在だけど、自身の権能と矜持の許す限り、派閥である自身の寄り親の意向を重視するの。
リッチェルは、王国に於いて第二席の侯爵家。 そして、重要なのはリッチェル卿は王国の重職に就いてはいない事。 その立ち位置は建国当初より定められて居り、いわば王国の政務を回す為の人材の保管庫と云うべきモノなのよ。 国の重職と云う『責務』は負わされない代わりに、国という組織を維持する為の人材を供給すべく、連枝、門下、寄り子の教育に尽力する事を『責務』とされているのよ。
他の重職を担う侯爵家の方々は、専門の職責を担う為に、専門の知識と知恵を蓄え、そして国に奉仕する存在。 そして、リッチェルこそが、その間に立ち全てを円滑に動かす為の 『 潤滑油 』的人材を供給する事を期待されているの。 そして、当代の国王陛下の御世までは、それが十全に機能していた。 機能していたが故に、この状況に於ける陥穽が見えなかったのよ。
そう、リッチェル卿が『愛する事を強いられて』、リッチェル侯爵家の矜持とも云える、” 国王陛下の藩屏たる『誓い』 ” を、その家人が『棄却』するような行動に出ているなんて、誰が想像できたのよ。 国王陛下すらも困惑されているに違いないわ。
「理解しております。 『リッチェルが家の教育』に於いて、その事は存分に。 ただし、官吏の方々もまた、リッチェルが教育を享受されて来られた方々。 一線は弁えておられる筈ですわ。 そして、各々がその一線の内側で…… リッチェル卿の要望に応えられようとするでしょう」
「そうだ、この国は、そう云う国だ。 己が矜持に恥じぬ様にと、幼少の頃から強く意識づけられている…… いるが、限界もある」
「はい、アーガス修道士様。 その事は、現状を鑑みれば、理解も出来ます。 聖堂教会と王侯貴族との乖離は、その結果で御座いましょう」
「……教会軽視の風潮は、リッチェル卿の思惑により、官吏が行う小さな出来事から始まったんだよな。 まぁ、己が権利や権益が増えるとなれば、機会が有ればそれに手を出すのも、官吏、官僚と云うモノだし…… だが、小さな動きが重なり、波及すると、これ程の問題と成る。 囁かれる『悪意』が漣と成り、波となり、渦と成る。 時間を掛けて醸成した 情勢 は、一朝一夕には覆らない。 其処に、最後の一押しとばかりに、リッチェル卿の御令嬢の言動。 まぁ、成るべくして成ったと云える」
アーガス修道士様は深く溜息を落とされた。 政治的思考には疎いリックデシオン司祭様は、なんとか自分が理解できるような感じで状況を整理されているらしく、深い思索に入っておられたの。
フェルデン小聖堂の薬師処は、あんまり広くない。 重い御話を立て続けにして、空気が悪くなってくるの。 息苦しく感じてしまう。
「此処は狭いですので、このまま皆様と御話するには適しません。 祈りの間…… 若しくは、いっそ、前庭に出ませんか? 少々息苦しく感じてしまいます」
「良かろう。 私も、そう感じていた。 先ずは、聖壇の前にて。 重結界が張られている小聖堂の中ならば、他者の耳目を集める事も無い。 多少の戯言など、あちらに伝わったとしても、結界内は聖堂教会の特別地とも云えるから、あちらからとやかく言われる筋合いも無いしな。 移動しようか」
アーガス修道士様の御言葉で、私達は聖壇の前に移動したの。 列している長椅子をリックデシオン司祭様が少々移動され、聖壇の前にちょっとした空間が生まれる。 その空間を取り囲む様に置かれた長椅子に、その場に集った皆が腰を下ろして一息ついたのよ。
其方に行く前に、薬師処で薬草茶を人数分淹れたわ。 ええ、なんだか、お話が長くなりそうなんだものね。 盆に乗せ、皆が集う場所に向かい、配る。 長椅子に腰を下ろし、盆を脇に置き、カップを口元に。
はぁ…… 癒される……
皆さん一様に悩まれているのよ。 ええ、私の現状はそれ程厳しいとも云えるの。 王家のサロンでのアレコレもさることながら、シロツグ卿の思惑もまた、皆さんの顔色を昏くしているの。
一応リックデシオン司祭様は、教会で伯父様から教皇猊下への連絡を一緒に聴いていたらしいわ。 書面にする事は、ちょっと難しいから、フェルデン連枝の家出身の官吏の方が使者に成られた…… らしいの。 そして、口上にて、状況をお知らせしたみたいね。
聖堂教会としては、妖精様方の『御加護』の件は、注視していくと、そうご回答されたらしいわ。 そして、必要ならば教皇猊下の判断で、王宮魔導院に対し、秘匿されている妖精様方が行使される『準精霊魔法』の術式も公開されると、そう申し出られたの。 協力して、困難に当たる事は、人々の安寧の為であると、そう明言されてね。
でも、困惑が広がったのは、王家のサロンでの暴力沙汰。
それも、被害者が私であった事と、私を護るべく動いたのが 『 蓬莱の暗部 』 の方々だった事。 その指示を下されたのが、シロツグ卿であった事が、最大の原因ね。
私が害された事は、聖堂教会に於いても『重大案件』となったけれど、伯父様からのご使者が口上された、シロツグ卿の御意思が…… より教皇猊下の懸念を生んだって事。 そう、あの方…… 私を蓬莱に招聘したいとの思召しだったんだものね。 アーガス修道士様の言葉が聖堂内に静かに広がる。
「 ……それにしても、『蓬莱』か。 あちらの国は、嘗ての祖国の外交官でも良く判らんところが在る。 信仰も別だしな」
「シロツグ卿曰く、形態は大いに異なりますが、精神性はさほど変わる物では無いとの事。 シロツグ卿に於かれましては、聖堂教会の聖典をお貸ししました。 精読されておられるご様子」
ふむ、と頷かれるアーガス修道士様の横で、リックデシオン司祭様が小さく口の中で、言葉を紡がれる。 まるで聖句の様に…… 小さくはあったけれど、私にも、アーガス修道士様の耳にも届く程の声音。 その綴られる言葉に、アーガス修道士様の目を見開かれる。
「 父師曰く…… ” 敵を知り己を知らば、負ける術無し。 善く攻むる者には、敵、其の守る所を知らず。 善く守る者は、敵、其の攻むる所を知らず。” ……か。 東方の考え方は、まず、相手を理解する事から始める。 その力量を測り、弱点を探る。 目的は…… エルの身柄。 強引な手段を以て、鹵獲するのではなく、納得して蓬莱に来てもらおうと…… そうでなくては意味が無いと、そう思われている…… か。 そして、その為には、何としてもエルが健全で健康でなくてはならない。 エルの身を護る事が大前提と成る…… 目的は…… アレか」
「リック、お前、何を云っている? いや、何故に、『ソンジー=ヤン の兵法書』の内容を知っている」
「あぁ…… すまん。 『知られたくない過去』と云うモノは、誰しもが持っている。 そう、察してくれたら嬉しい」
「お前………… 『事情持ち』か。 だからこその異端審問官筆頭か。 オクスタンス様の導きか…… いや、教皇猊下か……」
「凶状持ちの荒くれ者。 この国では無い場所で、血に飢え、血で血を洗った日々。 人としての矜持すら無い私に、人としての道を説諭し、叱咤し、導いて下さった方々。 その方々への尊崇の念は、今の私を形作る。 まぁ、そう云う事だ」
「そうか…… お前も…… いや、今はそれは横に置いて置こう。 リック、シロツグ卿は何を考えておられるか、判るか」
「……これだとは云えぬが、予測は付く。 蓬莱は二重の封建国家だ。 宮家と武家。 階級と階層が厳然として存在し、その枠組みを越える事は、まず不可能。 理由は在る。 諸島国家であり、山がちな国土、天変地異の数々、湧き出でる魔物。 過酷な自然環境が、人々に役割を義務付けた様なモノだ。 しかしな、アーガス。 人集まり、組織が熟成し、世代を経るとどうなるか。 それは、お主も知っているだろう」
「あぁ…… 腐るな。 間違いなく」
「では何故、蓬莱が国が、『国として』千年以上の命脈を保っているのか。 それが、『何故か』は、知っているか?」
「あいにくと…… 知らない」
ちょっと驚いた。 リックデシオン司祭様は、政治的な事柄に関しては疎いと思っていたんだけど、そうでも無かったみたい。 『事情持ち』とアーガス修道士様は、リックデシオン司祭様をそう評しておられたから、リックデシオン司祭様もまた、出自に関しては相当に複雑な事情をかかえていらっしゃると云う事ね。
腕を組み、思案気にされて居るリックデシオン司祭様。
千年以上、国を安寧に保つ方策は、口にするのを躊躇われるような内容なのかしら? 組織的に腐敗を始めた政治機構が、自己浄化をする様な別の仕組みが有ると云うのかしら? それは、正に、神より遣わされた『神人』による浄化とか…… 静寂に支配された鏡の様な水面に一滴の水が落ち、波紋が広がる様に、私の脳裏に朝食会でのシロツグ卿の言葉が木霊する。
” …………我が祖国では天界から降臨した天女と云う。 出現すれば、皇家も含め国を挙げ、御守りする対象となるのだ。 祖国には、皇王陛下がおわします、皇居内に於いて、神祇尚賢所と云う場所が有りましてな。 四方を御簾に囲まれた、天女がお座りに成る『天女玉座』が設えられておりまして、そこに天女が座らば、『天下泰平』は神々より与えられ齎される。 御伽噺の様な事では御座いますがな………… ”
そうだった…… 彼の国で、唯一皇王陛下に命じる事が出来る存在が居たのよ…… それが、天女。 不正と欺瞞と不道徳が満ちた時に、この世に降臨せしめ、不正と不義を正す存在として、語り続けてられている者。 あの方は、私をそう見ているの?
「リックデシオン司祭様。 もしや、シロツグ卿は天女降臨と、御考えになっておられるのですか」
驚かれた表情で、リックデシオン司祭様は、私の顔を覗き込んだの。 困惑の色が強い。 反対にアーガス修道士様の顔には疑問が浮かんでいる。 東方の蓬莱のお国柄なんて、私達の国が有る周辺では、あまり良く知られていない。 普通の方々ならば、知識の外側の事なんだもの、仕方ないわよね。
「エルが何故『天女』について知っているかは問わない。 しかし、エルの見解、まず間違いは無いと思う。 あちらの政は、現在相当に膿んでいると、そう見て間違いない。 シロツグ卿が国外に放逐されているのが善き証左。 皇王陛下が逃がしたか、宮家の藩屏たちが追放したか。 それは判らない。 しかし、シロツグ卿が中央から、遠く離れた『我が国』に、流された事実は変わりない。 宮家出身の武人。 それは、蓬莱では有り得ぬ存在。 故に、『天下御免』を皇王陛下から許され、『天女』探索の『密勅』を下されて居たとしても…… 不思議では無い。 まして、エルは『神聖聖女』。 ならば、卿の眼にはエルが『天女』に視えても、何も不思議は無い。 それ故、過剰な程の『影護衛』を付けた。 そう考えられもする。 もし、エルが『神籍』を離れたのならば、間髪入れず手に入れようと、されるであろうな、『暴乱の赤鬼』卿は」
な、なんですって! つまりは、拉致監禁? 蓬莱に攫われて、一生 蓬莱に縛り付けられるの? 嫌よ。 そんなの……
「卿の考えが何処まで進んでいるのかは、測る事は出来ぬ。 しかし、十分に注意せねば、策略に足を掬われるは、間違いは無かろう。 猛き武人と云う側面だけでは、あの方を語る事は出来ないからな。 祖国を想われる気持ちは、誰よりも強い。 そして、それを実行する頭脳も備えられ得ておられる。 ……よし、決めた。 この事態に対し、聖堂教会も又、護衛を増やすとする。 エルが傍にな」
「ええぇ? いえ、失礼しました。 それは、一体……」
「聖女が補佐は、聖女候補。 幸いにして、此処に連れて来た二人は、貴族籍、それも法衣伯爵家と辺境伯が家の娘だ。 修道女アリョーシャ、修道女ミーティア。 この二人をフェルデン小聖堂付きの修道女とする。 表向きはな」
「でも、それでは、彼女達の研鑽が妨げられましょう」
「エルと祈り、エルと製薬錬金を成し、広く民の安寧を護るならば、彼女達の研鑽は続けられよう。 エルが傍にいると云う事は、そう云う事なのだ。 貴族家のアレコレも、二人には容易い。 色々と事情が有るのだが聖堂教会に来る前は、二人とも王宮女官としての職責を負っていた。 その他にもな。 故に、聖堂教会でも私の配下と成っている。 きっと、壁と成ってくれる」
つまり、修道女アリョーシャ、修道女ミーティアは、異端審問官の職を授けられていると云う事ね。 前職…… 聖堂教会の修道院に入られる前に、王宮に於いて、女官の傍ら何かしらの役目を負っていた。 何となく、深い過去を感じられるお二人の御様子。 どことなく、チドリさんとかと似通った雰囲気を醸されているから、確定かもしれない。
そう、彼女達は、元『王家の影』だった人達…… かな?
―――― 怖ッ! ――――
色々と秘匿されてはいるのだけれど、私は聖堂教会に於いて、秘匿された『神聖聖女』と云う聖職を与えられているし、その為の精霊誓約も誓っている。 だからこそ、この国から外の国への渡航は、教会としては出来るだけ避けたいと…… そう云う思召しなのよ。
故に、リックデシオン司祭様は、私に『教会の影』を付けようとされている。 元、王宮女官と云う経歴の方々ならば、現在の王宮女官長の推薦あらば、王宮内にも立ち入れるし…… その資格は多分失っていない。 いわゆる…… 「事情持ち」の方々と云う事ね。
ふぅ…… 私を取り巻く楔や柵が次々と折り重なっていくわ。 リックデシオン司祭様の思召しは、謝絶する事は出来ない…… わね。 教皇猊下も追認されるに決まっているし……
――― 仕方なく、本当に、仕方なく、受け入れる事にしたの。
先ずは、別邸の家政婦長様と顔合わせをしなくちゃね。 なにはともあれ、あの方に通じなくては、それこそ、様々な軋轢がこの別邸に巻き起こるわ。 今、本棟で私に付いて下さっている方々は、後宮女官候補の方々なんだもの。 ちゃんと、話を通さないと、それこそ身動きが取れなくなるわ。
「あぁ、この二人は、別邸の家政婦長であるエステファン子爵とは、旧知の仲だから、心配しなくても大丈夫だ。 後で、顔を繋いでおく」
とても良い笑顔で、リックデシオン司祭様はそう宣う。 修道女アリョーシャ、修道女ミーティアのお二人は、懐かし気な表情を浮かべつつ、頷かれているんだもの…… はぁ…… 強力な助っ人と云う訳ね。 困惑に困惑を載せた表情を浮かべる私に対して、苦笑いを浮かべたアーガス修道士様。
二人の侍女の登場に、ちょっと機嫌がよいのか、苦笑いの中に明るいモノが含まれていたの。 私の周囲の状況がこれ以上悪く成らない様にする為に、色々な方々が尽力して下さっている。 有難いと思う反面、煩わしくも感じてしまうのは、贅沢な事なんだと、胸の内で困惑を反芻する。
だって…… こんなにも、暖かく大切された記憶なんて、初めてなんだもの…… 人々の思いが、心をこんなにも温かくしてくれると、強く認識したわ。 ええ、ええ、今世、私は……
―――― 一人じゃない ――――
――――― § ――――――
大体の対策と注意する事を確認できた私達。 細心の注意の元、聖堂教会と王侯貴族達の関係の修復をしなくてはならないのは確か。 そして、現状一番気を付けなくてはならないのが、そう ヒルデガルド嬢を擁するリッチェル卿の動向。
愛娘として、眼の中に入れても居たくない程、溺愛されておられるのが…… 善き事に繋がる訳では無いもの。 そりゃ、親としての情は在るとも思うし、あって当然なんだけれど、リッチェル卿の影響力を考えると、危うい。
その上、ヒルデガルド嬢の『妖精の加護』の問題も有る。 『愛する事を強いる力』を無制限に無秩序に溢れさせているヒルデガルド嬢の為人も良く判らない。 彼女も又、『記憶の泡沫』を持っておられるのか。 そして、今の状況をどう捉えられているのか。 厚く守られている、リッチェル侯爵家内の様子は判らない。 周囲の連枝、御一門の言動から想像するしかないのよ。 その時……
―――― 私に『小さな衝撃』が有ったの。
それは、滞留した《この世界の理》に、変化が生まれたと云う事。
伯父様と聖堂教会が連絡を取り合った事。 前世の記憶の中では、そんな事、一度たりとも無かったのだもの。 そして、リックデシオン司祭様が修道女アリョーシャ、修道女ミーティアのお二人をお連れになってフェルデン小聖堂に遣ってこられた事。 彼女達が私の傍付になった事。 宰相府は『妖精の加護』の危険性についての認識を得た事。
なにもかも、前世では起こらなかった事ばかり。
私が悲惨な死に至る道に、枝道が出来た。 未来への道に選択肢が増えた。 『諸悪』を私が担う必要は無くなった。 世界の趨勢に幅が出来た。 喜ばしい事ね。 だとすれば、この先の道行は全て未定。 良く状況を読み、最善を尽くさば私の悲惨な死に至る道は潰える。 そして、民草を安寧に導け、世界の理は護られる。
――― うん。 歓迎すべき変化よね。
アーガス修道士様が、私の表情の変化に気が付かれた。 明るさを増した私の表情は、きっとこの困難な状況下では不可解な表情でも有るわ。 無言で、そんな私の顔を見詰めつつ、何やら思案気に顎に手を当てておられたの。
暫くして、軽い口調で言葉を紡がれる。
「エルは…… どうなんだ? 十八歳になった時、正式に修道女として神に仕える資格を得た後、どうしたい?」
「まだ…… 私の心は定まっておりません。 『神聖聖女』として聖堂教会に於いて『祭り上げられる事』は、わたくしが精霊様方と交わした『精霊誓約』と相反する事にも繋がりかねません。 出来れば、順当に第二位修道女として、国中を廻り倖薄き人々の癒しを成して行きたく存じます」
「ふむ…… しかし、それは、難しい………… 『神聖聖女』の秘匿にも限界がある。 いくら教皇猊下やオクスタンス様がそう望まれても、エルが『神籍』に在る限り、十八歳と成れば『神官』として正式に君には授階が行われるだろうし、その際は特位修道女の授階は、まぁ…… 当然と成るだろうしな。 神秘院のジジイ共は、必ずそう推挙する。 誰も、エルを放しては呉れんのよ。 ……その上、この国の宰相家の姫君でも有るのだ。 聖堂教会としても、フェルデン侯爵家としても、君を荒野に放つ理由など、一片も存在せん。
君が望む『放浪の神官』たらんと意思を堅固に護ると云うならば…… 方策は限られてくる。
『神籍』を離脱し、王国籍無き『遊民』として聖堂教会に寄らず市井に生きる…… か、はたまた『神籍』を保持したまま、フェルデンを寄り親に、貴族社会に復帰してから王国民として市井に下る。 フェルデン卿が許してくれるとは思えないな。 あの御仁、相当にエルに執心されておられるからな。 どちらも難しいな。 それに、たとえ一時でも、エルは貴族には成りたくないのだろ?」
「ええ、大所高所から、全てが見える訳では御座いませんし、聖堂教会以上に制約が多く存在しておりますもの。 フェルデンの娘と成るならば、貴族籍の登籍も必要不可欠ですし、如何なフェルデン卿でも難しいと思われます。 勿論、わたしはそのつもりは毛頭御座いませんしね。 詰まる処…… 私の意思、精霊様とのお約束を守ろうとするならば、この国では遊民として放浪するしか無い…… と」
「結局、そう云う結論に至るか…… それも、難しいと思うんだがな。 なにせ、教会の重鎮達が挙って、エルを囲いたがっているからなぁ……」
アーガス修道士様は、常に私の事を考えて下さっているのは理解できた。 聖堂教会と云う聖なる組織に所属されては居られるのだけれど、その精神性はどこか違うのだもの。 なにより、自由を重んじられておられるのよ。 組織よりも個人。 周囲の思惑よりも、個人的な祈りを…… 重んじられている。 それは、祭祀に関して深い知見を持たれる修道士様の根底に有る 『 想い 』 なのかもしれないわ。
「そうさなぁ…… エルが 『 心 』を、寄せる男性が居ればな。 その者が、どれ程の力を持っているか、その辺は判断材料と成るが、もしそんな者が居たならば…… その者にエルを託せると、教皇猊下と先代の大聖女様が ” 是 ” と判断されれば…… まぁ、峻厳な山の様な壁を乗り越える様な奴が居たらな…… そして、その者がエルを護ると誓約するなら、…………規定により婚姻を理由に『神籍』の離脱は許されるんだがなぁ」
ふと、とても爽やかな笑顔が私の脳裏を過るの。 紳士で、理知的で、努力家で、そして、なにより『腹黒い人』…… 前を歩いていて、急に振り向いて、私が其処に居るのを心から喜んでくれて…… 街中の小さなカフェで、私の小さな望みを、ニコニコと何処までも聴いて下さったし…… 出来る限り、私を御自身の力を以て、護ろうとしてくれている人の笑顔が、瞼の裏側に浮かび上がって……
…………耳に熱が上がる。
「ん? エル?」
「な、何でも御座いません。 まだまだ修練が足りぬ私。 『色恋』に、心を惑わす事は出来ません!」
「そうかぁ? エルが真面目なのは周知の事実だが、心の在り様は他人には判らんし、自分自身でも判らん時も有るからなぁ…… まだ、三年の時間は在る。 その間に、何かしらの決断をせねばいけんしな。 いずれにしても、身の置き場を考えねば、今よりもずっと強固に縛られるな」
「はい…… 考えてみます。 でも、今は『御役目』一番に考えとうございます」
脳裏に浮かんでは消える未来の情景を打ち消す様に、声を高め、そして宣言する。 今は、コレでいい。 未来の事は、その時になってからしか判らないもの。 『記憶の泡沫』から逸脱した現世。 状況は五里霧中。 未来への道、未だ定まらず。
だから、今は、精霊様方と御約束した通り、精一杯、民と国と世界に安寧を齎す為に邁進せねばッ!
「前途は多難ではあります。
ですが、私は、怯むことなく、
人々に安寧を齎さねばなりません。
…………それが、第三位修道女エルなのですから」