エルデの賭け事 ① ―― 従姉妹 ―――
『記憶の泡沫』に於いて、私が『暮らしていた場所』以上の場所は、それ程覚えてはいない。
リッチェルの客間とか、リッチェル卿の居室とかは別格だけど…… あぁ、王宮も…… でも、そんな、貴顕の生活空間と同等な場所って、滅多には御目に掛かれないの。
――― 贅を尽くした、場所。
見るモノ全てが、超が付く程の一流品。 ギラギラとした『承認欲求』やら、『虚栄』は排除され、心地よい上質さをさりげなく提供できる空間は、本当に希少なの。 貴族学習院、大食堂に併設されている、八侯爵家に用意された、場所もその一つ。
――― 特別室 ―――
『侯爵令嬢』に擬態していると、アルタマイトでの十年が蘇る。 目にするもの、耳にするもの、香、音…… 領政に於いて、誰かを招待する場合、相手によって会見場所を変更するのは、自然な反応。 高貴な方々には客間を利用し、庶民階層の各種ギルドの長などと会見する場合は、執務室をそれに充てる。
だから、場所の選定を見ると、相手が自分をどの様に扱っているか、それが如実に理解できる。
それに従うと、今私が立っている場所は、相手が自身と同等のモノであると云っているのよ。 ええ、それは間違いない。 だから、私も気合を入れて対処せねば成らない。 この会見に於いて、どのような『意図』あるのかが、全く読めない。 その事が私の心に、不安を掻き立てる。
その相手。 伯父様であり、キンバレー王国にとって無くては成らない宰相閣下、フェルデン侯爵の一女……
――― リリア=マリー=フェス=フェルデン侯爵令嬢 ―――
が、目の前に居たのよ。
凛とした佇まい。 私と同色でも色味の違う髪色、翠の瞳。 抜ける様に白く肌理の細かい肌。 その高貴な御令嬢が、私の前に立ち、同等の者と交わす正式な礼を差し出されている。 一目で判る高価なドレスのスカートのつまみ、膝を折り、半身を前傾させ、視線を私の足元に。
相対した私も同様に。
フェルデン別邸の侍女の方に、今日は本邸の御嬢様との会合が有ると伝えた為、何時にも増して『侯爵令嬢』としての装いに、尽力して下さった。 髪は結い上げ、ドレスも特級品。 お飾り迄着用して、決して非礼に当たらない装いを整えて下さったのよ。
コレは『賭け』でもある。
本邸の正令嬢が何を考えているのかは、窺い知れない。 それが故に、精一杯の礼節を護り、相手の意図を探らねば成らない。 私に対し、隔意を持っているのは、最初から分かっている。 判っているからこそ、この会合の意図を測りかねてもいる。
私の排除が目的か。 存在自体を嫌悪しているのか。 それとも、教会勢力に対し思う所が有る、『煌びやかな集団』の意思を伝える為か。 様々な思いが交錯する。
頭を垂れたまま、沈黙が私達の間を埋める。
言葉が交わされないまま、時間だけがジリジリと過ぎていく。 困惑も浮かぶ。 何故に、何も言わず礼を解かないのかと。 周囲には、学習院の侍女達が、同様に頭を垂れつつ固唾を飲んで状況を見守っているの。
緊張感が高まる。
どうにも、膠着した状況に焦れたか、フェルデン侯爵令嬢が頭を上げる。 端正な顔に困惑の表情が浮かんでいる。 そして、思い出したかのように言葉を綴られた。
「エルディ=フェルデン侯爵令嬢。 本日はお越し下さり、有難く存じます。 どうぞ、此方に」
この部屋の主人としての義務は、招いたモノへ対しての誘導。 そして、自身の立場を明確にするための第一声。 口上の高低と、選ぶ言葉により、招待した者をどう扱っているかを明確にする。
彼女の場合…… 本当に同等の令嬢に対する第一声だった。 下位の者や、親しく無い者、何らかの隔意が有る場合は、 ” ~~に、直言の許可を与える ” と口上する筈。 賓客を招く際に用いる、 ” ~~有難く存じます ” は、まず口に乗せる事は無い。
つまり…… 下地として、私の事をフェルデン侯爵家の令嬢として扱うと宣言したと同義。 ならば……
「お招きいただき、誠に有難く存じます。 足下に伺候し拝謁の栄誉を戴きました事、この身の誉れ。 感謝申し上げます」
相手は、本家の御嬢様。 そして、私は準貴族である『養育子』の立場。 貴族の序列は、厳しく規定されているの。 よって、此方は遜り、相手の面子を立てねば成らない。 たとえ、相手が同等の者だと宣言していても、礼節と序列を重んじている事を表明しなくては、貴顕に対する不敬と取られかねない。
私の言葉を聴いて、更に困惑の表情を浮かべる彼女。 その表情は、初めてフェルデン侯爵閣下と言葉を交わした時の表情に重なる。 実際、御顔は伯父様によく似ていらっしゃるので猶更。
挨拶を交わし、用意された席に付く。 貴人への応接に使うのは、磨き上げられた応接調度。 ローテーブルに、四人掛けを想定しているかのような、長いソファ。 対面する主人の席は、一人掛けの皮張りの威厳すら感じるソファ。
腰を下ろし、互いに背筋を伸ばし、見つめ合う。 さて…… 何が飛び出すか。 茶器を用意し、香豊かな紅茶が振舞われる。 侍女達はテキパキと動き、流石は侯爵家のサロンに配されている方々だと、そう感心していたの。
「貴女方はもういいわ。 下がって居て下さい」
彼女の言葉は速やかに実行される。 壁際に下がるのではなく、扉一枚向こう側の待機場所に侍女達は下がった。 これで、誰もこのサロンの中の会話を窺い知る事は出来なくなった。 ちょっと、驚いたのも事実。
だって、此処まで人払いを徹底したら、彼女自身の身の安全を図れないもの。 万が一、私が襲い掛かったら、どうするつもりなのよ。 それは絶対に無いと、思われているのか。 それとも、その考えに至らなかったのか。 はたまた、そこまでしないと、私から『何か』を引き出す事が出来ないと考えたか。
どれもが正解の様で、どれもが違う。 私も少々困惑したが…… 一つだけ、理解した事があった。
―――― 彼女も又、賭けに出ているのだと云う事を。
沈黙の中、カップを取り上げて、茶と一口。 コレは、” 貴女の事を信用しておりますわ ” の、言外会話の一種。 勿論、密やかに検知系統の術式は手の内に展開しているわ。 毒の検知に有効な物をね。 結果は白。 故に、その香りと味を楽しんだの。
私の一口を見詰めていた彼女は、ホッとした表情を浮かべている。 微かではあるけれどね。 でも、女性の社交的には、それは不合格。 扇で口元を隠すなり、何なりをしなくては、表情から思惑を読み取られてしまいますよ。
「不躾とは思いましたが、こうやって『招待』を受けて下さった事、本当にありがとう。 色々と行き違いがあり、別邸にお入りに成ってから、伺う事も無かった。 貴女の立場は非常に…… どういうか…… 本邸の中でも定まらなかったの。 本邸の対応に不快を感じていらしたのは、わたくしも理解しております。 まして、あの晩餐会です。 陳謝を」
「マリー=フェルデン侯爵令嬢様に置かれましては、陳謝の必要は御座いません。 故有って フェルデン侯爵家の名を名乗る事には成りましたが、わたくしは、第三位修道女 エル に御座いますので。 フェルデンの家名に連なる血族では御座いますが、籍は準貴族でしか御座いませんので、お捨て置き下さい」
「いえ、お父様が決せられた事でも御座います。 エルディ=フェルデン…… いいえ、エルデ=エルディ=ファス=フェルデン侯爵令嬢は、紛れも無くフェルデンが娘であると。 わたくし…… 一番最初に、貴女がフェルデンにいらっしゃるとお聞きした時、嬉しかったのです」
「と、おっしゃいますと?」
「はい。 同じフェルデンが血を受け継ぐ、お姉様が出来るのだと。 少々…… 浮かれても居りました。 日々の学習に疲れていたのかもしれません。 同じ立場である方が近くにいらっしゃれば、何かと心強く…… 更に言えば、私よりも年上と。 お兄様は、ああいった人です。 お父様に憧れて、冷徹で勤勉を旨とされており…… 謹厳実直この上なく、厳しく令嬢としての礼節を求められておりました」
「当然では? フェルデンの家名は軽くは御座いません。 キンバレー王国の国是でもある『武・魔・智』を体現するには、相応の研鑽は求められますもの」
「そうですわね…… しかし、行き過ぎた思考の末、『選民意識』と『強い自尊心』が、お兄様の心に巣食った。 フェルデンの者としては致命的な『傲慢』が、現れたのです。 お父様は、それを危惧され御領地での研鑽を求められました。 わたくしも、同じ陥穽に嵌る所でしたの。 お父様は、お兄様への処遇とは違い、わたくしには王都での研鑽を求められました。 今一度、自分を見つめ直し、何がその思考の基になったのかを、再度考えました」
「左様でございますか」
手に持っていた扇を口元に当て、言外の言葉で彼女に注意を促したの。 余りにも明け透け。 余りにも直情。 それは、貴顕の淑女としては、少々問題が有るのだと。 私の『仕草会話』に気が付かれたのか、顔を赤らめ下を向かれる。 扇を三分ほど開き、口元で扇ぐ。
” 御顔を上げて下さい ”
微笑は浮かべつつも、視線に力を込める。 ハッとされた表情を浮かべる彼女。 言外の言葉は難しい。 二重にも三重にも意味が取れる様に規定されている。 場の状況で意味が異なるのよ。 とても判りやすく、大げさにしたのだけれど、果たして彼女に裏側の意味が取れているのかしら?
「言外の言葉については、未だ研鑽中に御座います。 お母様からのご指導もあり、同年代の者と比しては十分と、教師には、云われておりますが…… それも『世辞』だと判っております。 貴女の『仕草会話』は、とても判りやすく示して下さいました。 叱責戴きました事、有難く存じます」
「言葉だけの方が、都合が宜しいのでしょうか?」
「出来れば…… 会話が重層致しますと、今のわたくしでは全ての意味を取れません。 重要な御話を言葉以外で告げられても、わたくしが受け取れない事も考えられます。 また食い違いが出ては、ご招待いたしました意味が無くなってしまします」
「左様ですか。 理解いたしました」
ちゃんと、判っていたみたいね。 言外の言葉として、私が示した『形』は、この状況では主に、『言葉を御慎み下さい』と、『御顔を上げください』だけど、上位者から下位者に対しては、別の意味に成る。 不敬を承知でね。
『聞くに堪えない、はしたない』 と、 『話す気が無いと見なす』
なのよね。 その意味をしっかりと受け取られているわ。 フェルデンの教育が行き届いていると、そう云えるの。 彼女の家庭教師は、お世辞で言ったわけでは無いという事。 読み解く方は素晴らしいわ。 多分、ご自身で発信する方に、まだまだ自信が無いと…… そういう事ね。
対面で御話する事は、女性の社交にとって、とても重要な事。 習い覚えた ” リッチェル侯爵令嬢 ” としての私は、『仕草会話』混じりでしか、社交会話が出来ない。 重要な話ならば特に。 そう教育されたのだもの。 でも、フェルデンの姫様は宸襟を開き、『言葉』のみでの意見交換を求められている。 話す内容に齟齬をきたさない様に。 確実に正確に、真意を相手に伝えたいと、そう願われる。
わかった…… ならば、それ相応にご対応申し上げねば。
ローテーブルにある呼び鈴を二度。 即座に学習院の侍女の方々がお部屋の中に入って来る。 本当に良く訓練されていると思うわ。 そんな方々の筆頭の方に、言葉を紡ぐ。
「マリー=フェルデン侯爵令嬢様が、場所の移動を思召されました。 庭に面した窓席へ移動します。 席は庭を『鑑賞』出来るように。 筆頭、願います」
「承りました。 暫しお待ちを」
一斉に動き出す侍女の方々。 隣接する待機所に、男性職員も呼びに行かれ、重い家具の再設置も瞬く間に終了する。 日常茶飯事だと云うように、彼等の行動はとても機敏で、待つ時間もそれ程でも無かった。 マリー=フェルデン侯爵令嬢は、眼を丸くしている。
多分、知らなかったのじゃないかな?
前世の記憶で、リッチェルのサロンに於いて、結構無茶な命令を下していたから、それを思い出したのよ。 いわば、昔取った杵柄ってこと。 貴族学習院の対応能力はとても高いのよ。 でも、今の私がそう望んでも、誰も相手にしないだろうし、お名前は使わせて貰ったわ。
ニコリと笑みを浮かべ、頭を左に少し傾けるの。
” ごめんなさい、無理を言ったみたいね ”
言外の言葉で、侍女頭にそう伝えると、彼女はフルフルと頭を振り、しっかりと答礼を差し出してくれたのよ。 本当に出来た方。 直ぐに設えは整えられて、お茶も入れ直された。 特別室に面した御庭は、正に庭園と云った風情を醸している。
何かの折にはガーデンパーティも行われるのだろう。 冬枯れしてもなお、美しい芝生。 背景の樹々は森を模し、赤や黄色の紅葉がハラハラと微風に舞う情景。 冬の到来を見事に表している御庭を世話するのは、想像以上に大変なのだけれども、それすら感じさせない程。 庭師の技量の高さを物語っているわ。
席を移り、ある程度距離を離して着席する。
先程迄座っていた場所は撤収されて、既に片付けも終わっているのよ。 そして、侍女頭の方は皆を待機所に向かわせ、最後に特別室を見回して落ち度が無いかを確認した後、一礼し退出された。
「こんな事が出来るのですね」
「貴族学習院と云う場所は、貴顕の要望にお応えする事に、とても高い能力を示されます。 彼等の矜持でもありますので、後で何かしらの褒賞を。 菓子でも、茶葉でも、フェルデンが名でお送りください。 彼等の誉れと成りましょうから」
「……どこで、その様な事柄を?」
前世で…… なんて云えないよね。 だから、あり得る話をお伝えする。 実際に、そう云ったお話も伺っているから、『 嘘 』 では無いのよ。 ええ、『嘘』ではね。
「辺境の御婦人方が、学習院に在籍された時に、サロンでは無いですが、会議室で御集りの機会が有ったと。 余程、印象的な光景だったのでしょう。 色々と御話をして下さいました。 その折に、学習院の方々の対応能力の高さについての言及も。 それを覚えておりましたので」
「成程…… 左様に御座いましたか。 これで、また一つ、伝聞が裏打ちされました。 お聞きして良かった」
「はい?」
「お父様より、エルディ=フェルデン様の背景情報は伺いました。 その後、自身でも色々と…… アルタマイト出身の商人や探索者からも、書面でですが情報を集めました。 公式には…… もう、集められませんから」
「…………そうですか。 では、わたくしの出自も、状況もお判りに成っていると」
「ええ、病弱な『エルデ=ニルール=リッチェル侯爵令嬢』…… と、云う事でしたね。 事実とは、全く異なる人物像が王都内では実しやかに、噂されておりました。 そして、身体も良くなり、王都に戻ってこられ、病弱なのは『神名』が原因だったとして、聖堂教会の枢機卿様に『神名』の変更を願い出られたと…… それに伴い、名を一新すると。 驚いた記憶が御座います。 そして、リッチェルから、” エルデ=ニルール=リッチェル ” と云う人物の痕跡は跡形も無く消えました。 その業績は、全てヒルデガルド様が引き継がれ…… コレを知った時、なんだかとても悔しくて……」
「有難く。 しかし、妖精様による ” ヴィクセルバルク ” ですので、わたくしは取り替えられし子供。 リッチェルの子ではありません。 よって、リッチェルの末娘が功績はヒルデガルド様に収斂してもおかしくは……」
「そこに、貴女の研鑽や努力は有りません! どれほどの時間を、どれ程の努力を費やしたかッ! 侯爵家の令嬢として、私はその研鑽がどれ程のモノかも理解出来ます。 あの優秀なお兄様が、御領で苦労されておられると、そうお手紙に綴られておられました。 まして女性。 女主人の役割を十全に努められておられたと…… その時の貴女と、私はほぼ同い年と成ります。 が、わたくしがその場に居たならば…… と考えると、恐ろしくてなりません。 貴族夫人達と遣り合うには、何もかも不足していると自覚しておりますもの…… それを、主導権を取り差配し統治していた、などと…… にわかには信じられませんでした。 フェルディン卿にお話を伺いました……」
「はて? どのような?」
「見極めの事です。 異例の試験だと…… そう云う事でした。 上級職官吏試験を、受けられたと。 そして、本来受けられる方々と遜色のない回答を出されたと。 いえ、それ以上であったと。 だからこそ、貴女の研鑽と努力を無にし、その功績を何の努力もしていない方が継承するのがッ! 我慢できないのですッ!!」
「えっ?えっ! ちょっと、落ち着いて? そんなにも高く評価して頂けたのは嬉しいのですが、少々聞き捨てに出来ぬ事を仰いませんでした?」
「……すみません。 殊の外感情が高ぶってしまって…… えっと…… どの辺が、問題に?」
「その、『何の努力もしていない方』と云うのが…… 少々。 それって……」
「ええ、ヒルデガルド嬢の事に御座います。 神名を常用する彼の方は、何処となく不遜。 そして、何よりも、向上心と云うモノを感じる事がついぞできませんでした。 マナーは勿論の事、淑女の約束事も『侯爵令嬢』にしては、余りにも拙い。 ケイティが意見するのも、全く的外れとは云えぬのです」
「ケイティ? ……ファンデンバーグ法衣子爵令嬢様の事に御座いましょうか」
「ええ、貴女に繋ぎを付けて下さいました。 わたくしがこの目で確かめ、そして、友誼をわたくし自身が願った方です」
「友誼…… ですか?」
「はい、友誼を願いました。 高位下位は関係なく、彼の方の為人、人品骨柄を見極め、この方を置いて信に足る人物は居ないと…… わたくしに足りぬ事を、易々と成す頭脳に。 ファンデンバーグ法衣子爵家と云う血脈に即した、優秀なる頭脳とその御人柄。 願わずには居れませんでした」
「人を見る眼は確かなようですね、マリー=フェルデン侯爵令嬢様は」
「有難く、そうあろうと努力しております」
「そんな貴女が、見限られたと?」
「第一王子殿下の御宸襟は判りかねます。 高貴なる御婚約者様が居られるにも拘わらず、ずっと傍に置かれる意図が判りません。 昨今は、カルディア=カーリレード=バルン=グレッチェンド公爵令嬢も、殿下から距離を取られ始めておられるご様子。 とても危うい。 キンバレー王国の未来が昏く閉ざされて行くような気がしてなりません」
「左様ですか…… 困りましたね」
本当に、困った事ね。 殿下とグレッチェンド公爵令嬢との婚姻は、この国の未来に光を置く為の政略結婚でもあるのよ。 幼い頃から交流を深め、政略と云えど心も伴うようにと、相当に力を入れられた関係構築だった筈。 その甲斐あって、お二人の仲睦まじい姿は、王都から流れて来る噂にもあったわね、そういえば。 アルタマイトで、それを羨ましく思った事も幾度も有ったわよ。
それが?
まさか…… 関係性をぶち壊しにしているのがヒルデガルド嬢なの? あの方…… 何を御考えに成っているの?
「何も考えておられないでしょう、ヒルデガルド嬢は。 心の求めるがままに、振舞われている…… そして、それを誰も咎めはしない。 積極的に肯定しているのです。 わたくしは、お兄様の影に隠れる様に、あの『煌びやかな集団』を見詰めて参りました。 一歩離れて見ておりました。 違和感が…… 強い、違和感を覚えておりました」
「そうなのですか。 それは、お辛かったでしょうに」
「あ、ありがとう御座います」
「…………それで、わたくしにその状況をお知らせ頂けた真意とは? マリー=フェルデン侯爵令嬢様は、私に何を求められるのですか?」
沈黙が二人の間に落ちる。 真っ直ぐに御庭を見詰める彼女。 その横顔を見ながら口にした、彼女の真意を問う言葉。 言葉でしか通じない真摯な思い。 躊躇っておられるの? なにを? 沈黙を破る真摯なお声が私の耳朶を打つ。
「友誼以上のモノを。 貴女の事をお姉様と…… エルディお姉様と…… 事情は理解しております。 貴女が、成人である十八歳に成ると、フェルデンの名は名乗れなくなるのは知っております。 でも…… お願いしたいのです。 未熟なわたくしを導いて下さいと。 フェルディン卿、ケイティが挙ってあなたの事を高く評価もしている。 お父様も、御心を砕かれている。 まして、同じフェルデンが血族。 …………時間の限りがあるのは知っております。 けれど、貴女は紛れも無くわたくしの従姉。 お姉様なのです」
「………………」
「許しては戴けないのですね」
ち、違うよ。 そんな突然、私の事を『お姉様』とか云われても、戸惑ってしまうわ。 一体何故、そんな事を言うのよ。 ……今まで通り無関係でいいじゃない。 目立っちゃうと、命の危険が有るのよ、私は。 だから……
「勿体ないのです。 許す許さぬという事では御座いません。 わたくしは、アルタマイト神殿薬師院所属の第三位修道女 エル に御座います。 正当なる侯爵家の御令嬢から、その様に願われる立場の人間では御座いません」
「そこに『真実』が、有るのですか。 エルディお姉様は、ご自身がフェルデンの血族とは言えないと。 そう思われていると。 ならば、私から貴女へ、コレを…… 予測はしておりました。 だから、コレをお持ちしましたの」
彼女はそう云うと、小さな化粧箱を私に差し出したの。 腰を回し真正面から私を見詰め、両手で差し出すその小箱。 何が入っているのだろう?
「これは、ミリリア = アンネマリー = ディー = フェルデン叔母様が、保持されておられました、フェルデン家令嬢としての『御徴』。 わたくしも、わたくしの『御徴』を保持しております。 が、コレは叔母様が輿入れの際、フェルデンにお残しになったモノ。 不思議な事に、溺愛されていた『 御自身の娘児 』 にも、お渡しに成らなかった、『 フェルデン血族が 証 』。
わたくしは………… 思うのです。 叔母様にも違和感があったのではないかと。 ヒルデガルド嬢の御色は、決してフェルデン血族ではありえない御色。 グランバルト男爵家に於いても…… どうでしたでしょうか。 男爵様の溺愛振りに…… 自身が御産みになった女児と信じてはおられたけれども…… 信じ切れておられなかった。 だから、この『御徴』は、彼女の手に渡らなかったと。 神様の御意思を感じてしまうのです」
両手で差し出されたその小箱を、私は戴く様に受け取る。 天鵞絨張りの小箱の蓋をそっと開ける。 フェルデンの紋章をデザイン化した、掌に入る程の円形のメダリオン。 長く手入れをしていなかったのか、くすんでしまっていたけれど…… 紛れも無く、フェルデンの貴人女性のモノではあった。
そして、つっとその表面に指先を載せる。
―――――― パァバァァアァァン
何かが私の中で弾け飛んだの。 頭の中? 胸の内? いいえ、そんなモノでは無く、身体の中、至る所で。 そして、いきなり白濁した世界に誘われる。 誰にも邪魔されない、静かで、穏やかな、シンシンと降り積もる雪の平原の様な場所に放り出されたの。
座り込んでいた私……
周囲を伺っても、何も無い。 只々白い平原が広がっているばかり。 雪の様に見えても、冷たくも無く、薄衣を着ているのにも関わらず寒くも無い。 不思議な空間だったの。 それは、教皇猊下を治療した時の様な壮大な世界でも無く、神聖なる『神界』と云う訳でも無い。
ただ、ただ、安らぎを感じる世界。
長い旅を続けて、最後に訪れる様な、そんな場所。 魂の故郷。 ……遠く、 遠く時の輪の接する場所の一角。 そんな気がしたの。 体内に保有魔力も無く、魔法術式を紡ぐ事も出来ず、神様と精霊様の息吹を感じる事も出来ないから、神聖魔法すら紡げない。
此処には…… 剥き出しの魂である、『 私 』 しか居ない。
でも、それはとても現実的では無いのよ。 だって、ココがその場所ならば、私はサロンで死んでしまった事になる。 そして、魂には刻まれた記憶はあれど、それをこれ程鮮明に保持など出来ない。 幾度も…… 二十七回も生まれ直した私だからこそ、この認識があるのよ。
なのに、ここが終焉であり、はじまりの場所である事を疑う事が出来ない。
” 闇の精霊様の御加護よ、エルデ。 あぁ、やっと逢えた。 愛しい我が子。 ”
耳では無く、魂に直接語り掛けて来る御声。 ……初めて聞くのに、懐かしいと感じてしまう。 何故?
” だって、私の中で育ったのだもの。 私の血肉で受肉したんだもの。 自明の理でしょ? 生れ落ちた瞬間に『取り換えられる』とは、思っても居なかった。 妖精様を御恨み申し上げるわ。 こんなにも愛しい我が子を、私から引き離したのだもの ”
声は続く…… 私の中に……
” お、お母様ですか? お母様なんですか? ”
” ええ、ええ、そうよ、エルデ。 貴女の母、 ミリリア = アンネマリーよ。 あぁ、こうやって言葉を交わす事をお許しに成って下さった闇の精霊様に感謝を。 血肉を分けた我が子に逢えた事に感謝を ”
” ど、何処に、居られるのですか、お母様! ”
” 何処にもおらず、何処にでもいる。 貴女の傍に。 貴女の中に。 血の中に。 繋がりは、何時だって。 感知するのは難しく、難解で、でも厳然とした事実でもあるの。 姿は見えないでしょうね、次元が違うのだもの。 ただ、一時、お許しが出ただけだもの。 …………貴女に伝える事が有るの。 ”
” 何でしょうか、お母様 ”
” 貴女の母として、貴女の庇護を実兄に頼んだの。 貴女はフェルデンの娘。 夫は…… 最後まで別人を娘だと信じ切っていたから、余りの悔恨に『この場』には来れないの。 私は…… 疑っていた。 本当の娘に会いたいと、ずっと願っていた。 これは、母である者だけが感知できるのでしょうね。 エルデ。 貴女は私の愛する娘。 貴女には何一つ残せなかった、不甲斐ない母。 でも、たった一つ、貴女に残したモノが有るの。 受け取って欲しい ”
” お母様…… ”
” 貴女は、私の血肉を以て受肉し、この世界に産れ出た。 間違いなく私の愛娘。 そして、誇るべきフェルデンが血脈を持つ者。 胸を張って、自身がフェルデンである事を誇って欲しい。 その矜持を魂に灯して欲しい。 その証として、私のメダリオンを貴女に…… 疑った私が、本当の娘に贈る、唯一の贈り物なの。 どうか…… その矜持と共に ”
” わ、わたくしは、神の僕徒。 それでも…… ”
” 神様と精霊様は常に貴女の傍に。 故に、『矜持』を持つ事を、咎めはされません。 貴女が貴女で有れば良いとの思召しです。 こうやって、次元は違えど、言葉を交わす事。 わたくしの望みを貴女に伝える事。 全てをお許しに成られたのですから ”
” お母様…… お母様、お母様、 お母様まぁぁぁぁぁ!!! ”
” エルデ、良く頑張りました。 これからも続くは、茨の道でありましょう。 でも、きっと上手く行く。 いえ、貴女は遣り抜くでしょう。 怯まぬ心は、強く眩しいわ。 確信があるの。 だって、貴女は強情で有名だった私の愛娘なんだもの。 私とそっくりなのだもの。 貴女の道行に光あらん事を。 母から貴女に贈る、祈りです。
………………えっ? もう? そう…… エルデ、時間だそうです。 これ以上は、貴女に影響が出てしまう。 魂を戻さねば、身体が崩れてしまう。 ……逢えてよかった。 言葉を交わせて本当に良かった。 また、いずれ…… 今度は、後悔に苛まれている『あの人』も一緒に。 その時まで暫し………… エルデ、愛しているわ。 エルデ…… エル…… エ…… ”
” お母様まぁぁぁぁぁ!!! ”
私の叫びは、魂に残響を響かせる。 黒く狭い通路を、本来の方向とは真逆に走る感覚。 酷く冷たく、寒い。 カタカタと震えが、身体を襲う。 身体? えっ? 遠くに、悲鳴のような、強烈な意思を持った声が響いている。 震える身体は、抱かれている様な?
耳元で? 声が響く。
誰? 意識が引っ張り上げられる様に…… 水底から水面に浮上するように…… あれ? この感覚…… 前にもあった様な? 名を…… 名を呼ばれる。 強く、強く抱きしめられて……
「…………! ……様! 眼を、眼を開けて!! エルデ姉様ぁ!! お願い!!」
震える瞼。 うっすらと開くと、其処に必死な形相をした彼女が居たの。 しっかりと私を抱きしめ、真っ赤な顔で…… 美しい顔が歪み、翠の瞳から大粒の涙が、沢山零れ落ちていたの。
「ダメですよ、マリー。 人事不省に陥った人への対処は、医務官に願わねば」
「え、エルデ姉様!!!」
「もう…… 大丈夫です。 メダリオンに込められた、お母様の想い、確かにお受け取り致しました。 マリー…… そう呼んでも?」
「勿論です。ええ、ええ、勿論ですとも! エルデ姉様!」
「えっと、神名を呼ぶのは障りが有りますからね」
「ご、ごめんなさい!! エルディ姉様」
「良い子です、褒めてあげます。 マリーは、本当に良い子ですね。 エルディは、そんなマリーが誇らしいです」
「お姉様ぁぁぁ!」
気が付けば、窓際のソファで、倒れていた。 メダリオンはしっかりと手の中に有る。 そっかぁ…… 死して、真実を知り、そして望んで下さったんだ。 我が子に逢う事を。 その願いをメダリオンに込められたんだ。 どんな魔法、どんな精霊魔法も叶わない…… 母の祈りなんだ……
私に抱き付き、胸に顔を埋めエグエグと泣くマリーの頭を撫でながら、ボンヤリと、そんな事を考えてしまった。
わたし……
愛されていたんだ……
ツンと、鼻の奥が痛くなって…… 視界がぼやけ…… 頬に二筋の涙が……
―――― 流れ落ちた。