エルデの安息日。
――――― 本日は、安息日 ―――――
目覚めてから、直ぐに街行きの為に修道女装束の準備を始める。 外はまだ夜明け前で、薄暗いわ。
『おはよう』の ご挨拶を本日の侍女様方に紡ぐ。
表情を隠してはいるけど、明らかに落胆しているのよね。 まぁ、別邸侍女様方の憮然とした表情は、この装束を纏う時には何時もの事。 それを当然な事として、私は受け入れているのよ。 この姿は、『侯爵令嬢』の対極に有ると云ってもいいモノだもの。 それに、着衣の介添えも必要は無い。
それに、御不満なのだろうと推測しているの。 高位貴族令嬢の身支度をすると云う、彼女達の本来の仕事を取り上げているのよ、実際。 その事には、本当に申し訳ないのだけれど、本来の私はこちらだから、許して欲しい と思う。
『沐浴』は、水浴びに変更。 『精進潔斎』にはそれが至当だから。
それも気に召さないらしいの。 私はと云うと『聖句』を口にしつつ、湯船に張った聖水に桶を入れて、ザッパ、ザッパと身を禊ぐ。 湯船の聖水は、私自らが魔法で生成したの。
一気に出せる聖水の量としては、研鑽を続けている修道女仲間と比べても、多い方。 時折、『規格外ね』なんて、お化けを見るような目で見られる事も有るけど、私は気にしない。
身体にこびり付く穢れを、これでもかって感じで、流れる聖水で刮ぎ落として行くのよ。
身綺麗にするのは、神官の義務。 穢れを嫌うのは、何時いかなる時も、『神聖なる方』の傍に侍る意思の表れ。 有能なる侍女様方にとっては、『精進潔斎』が、肌を痛めるだけの行為にしか映らないから、困った事でもあるのよ。
暖かいたっぷりとした湯を使い、髪も梳きつつ洗い流し、香油で良い香りを付ける事こそが、淑女の嗜みだと考えておられる。 その上、私の比較的短い髪もご不満の様なのよ。 アルタマイトに居た頃はもっと短かったのよ? 王都の聖堂教会薬師院で、リックデシオン司祭様から、髪を伸ばす様に云われなかったら、そのまま短いままだったと思うの。
私としては、長いなぁ と、感じるのだけど、それでも短いと仰るの。 前世では、腰まで伸ばしていたのだっけ。 今と成っては、その髪のお手入れに相当な時間が費やされていた事に、理不尽な感じがして成らないのよ。
ただ単に、髪を洗い調えるだけで、膨大な時間が掛かるのだもの…… 現在では、主に朝の『お勤め』に充てられている時間が丸ごとそれに充当されてしまう程。
朝、聖壇で『祈り』を捧げた後、薬師処にて ” 奥の院 ” からの御要望による、薬草や魔法草の下ごしらえが十全に出来てしまう程なのよ。
これって…… 今の私的にはどうかと思う。 ならば、短い髪を洗い清め、頭巾で包み込んだ方が余程『効率的』なんだもの。
沐浴を済ませ、髪を乾かし、下着をつける。
当然の様に高価なシルクレード製の、お嬢様仕様では無く、木綿の清潔なモノ。 胸当ても、下履きも、大事なところを保護すると云う、本来的な機能を重視した、極めて簡素なモノでね、これまた、侍女の方々にはとても不評。
今時、そんな粗末なモノを、付けている者は王都に住まう民草でも、居ない とね。 でもね、王国外縁部では、これでも良い方なのよ? 身綺麗にするのは、祈りの為なんだけど、その為にシルクレード製の下着なんて、華美に過ぎるし、機能面においても、どうかと思う。
シルクレード製のモノを洗うのには、とても気を使う。 一つ一つ 手洗いに掛け、十全なる設備の元、注意深く乾燥させねば成らない。 それが毎日。 女子修道院の『人的資源』は無限ではないのよ? 本来のお勤めが出来なくなるような事は、本末転倒だとも云えるのだもの。
簡素な下着をつけ、修道女服を纏う。
落ち着いた色彩の修道女服は、一般的に見てとても地味。 神に仕える神官としては、華美にする必要は無いし、きちんと洗濯して清浄ならば、それでいいの。 階位的象徴としての徽章の役割をする分には、それも致し方ないけれど、それでも限度はあるわ。 その為、神官の装いは、とてもシンプルなデザインなのよ。 それに、布地も分厚くてね、長い期間、着用する事を目的として、縫製されているの。
何度も、何度も洗濯をするから、当然、布地、縫製は強くなくてはならないし、繊細な装飾など付ける余地は無いもの。 辺境では、コレを着て教会周辺の祈祷所とか薬師処を廻らなくちゃならないし、野宿だってするのよ? 華美なモノじゃ、一週間もすれば摺り切れちゃう。
当然のことながら、侍女様方の評判は地の底に這っているのよね、この装束。
最後に頭巾で頭髪を隠し、これで第三位修道女エルの完成。 自分としては、此方の装束の方が自分らしいと感じても居るのよ。 そんな私を溜息と共に送り出して下さるのが、今日の侍女様方。 匠の手を持つあの方々からすれば、『侯爵令嬢』なのに…… と、云う所ね。 …………それが理解出来てしまう所が、私の悩みでもあるのよ。
―――― § ―――― § ――――
朝餉の後に、アーガス修道士様が仕立てて下った馬車に乗り、貴族街と市民街の間に在る城壁まで送って下さることに成っているの。 フェルデン侯爵家別邸としては、黙認と云う事ね。 表向きは、エルディ御嬢様は、別邸内でお休みになっておられると云う『 態 』を取ると云う事。
バン=フォーデン執事長とも話し合いがあり、そう決まったと、アーガス修道士様が私に伝えて下さった。 本当に、渋い表情を成されたバン=フォーデン執事長と、エステファン家政婦長。 認めたくなかったんだけど、アーガス修道士様の言葉に、首を縦に振らざるを得なかった…… らしいの。 私が、普通の『お嬢様』では無いと。 心理的負担は、王妃殿下のそれと比べても、遜色は無いって仰られたらしいわ。
その点については、お二方共に理解されたからだって、アーガス修道士様はカラカラと笑ってらした。 そんな事無いよ? 遥か雲上の貴顕の宸襟を、窺い知る事なんて出来ないし、不敬にも当たる。 でも、アーガス修道士様はそう云った言葉を、スルリと紡がれたりもするのよ。 その辺り、得体が知れないと、感じてもしまう。
―――――
朝餉の席で、出席者のお二人には、少々奇異の目で見られる事になったの。 まぁ、珍しいわよね、私が『第三位修道女 エル』の姿で朝餉の席に付くのは。
アーガス修道士様が此方に来られてから、朝餉の場は少々変化していたのもあるの。 私は小聖堂の守り人補佐に回され、正式にアーガス修道士様が守り人に任命されたのも、その原因と成り得るわ。 それが……
シロツグ卿もフュー卿も以前よりも積極的に私と交流を持たれるようになった事。
様々な話題が朝餉の席で語られ、その内容は、キンバレー王国の国内の情勢についての事が多くなっていたのよ。 まるで情勢分析をする為に、積極的に情報を集められている…… なんて、思ってしまうくらい、様々な……
本当に些細な事から、ちょっとコレは…… と思われる事まで。
そんな中で、普段の『侯爵令嬢』の姿とは違う、『修道女』の装束で現れた私が余りにも奇異に見えたのかしら、不思議そうな視線を私に注ぎながら、シロツグ卿に尋ねられたの。
ええ、蓬莱言葉でね。
朝餉の間は、席に付く方々の御国の言葉を交互に使う事にしているのよ。 その方が、私の勉強にもなるし、皆様の郷愁も有るだろうからって。 今日は『蓬莱』の番って事。
紡がれる、聴きなれない音に注意深く聴く事にするの。
〈その装束は、神官服とお見受けいたす。 エルデ殿は、どちらかに出向かれるのか? 聖堂教会に呼び出されたか?〉
〈えっと、今日は違いますわ、シロツグ卿。 お休みを頂いたので、第一環街区での漫ろ歩きをと思いまして。 流石に、あの美麗な『侯爵令嬢』の装いでは難しく…… 王都に在する、同郷の友人が誘ってくださいましたので…… 『息抜き』と云う訳なのです〉
〈おぉ、左様ですか。 心身の健やかな成長には、何も常に根を詰め、勉学に励むばかりでは、宜しくありませんからな。 自身の『心』を、休ませることも又、必要だと、拙も思います。 その手段としての『 街歩き 』。 宜しいですな。 それで、護衛は? アーガス殿が?〉
〈いえ、アーガス修道士様も、色々と『お勤め』を、抱えておられますので、今日は貴族街の西門で送迎してくださるだけに御座いますわ。 街行きは、私と、私の同郷の友人と共に徒歩で……〉
〈ふむ…… 左様ですか。 ……ちくと、不用心ですな、それは。 影働きする者も用意はされておられるとは思うが、直近にて盾と成る者は是非とも、必要ですな。 で、その同郷の者と云うのは、武の心得は?〉
〈無いと…… 思います。 で、ですがッ!〉
〈いや、判っておりますとも。 『息抜き』が ” エルデ殿 ” には、必要なのは。 要は、エルデ殿の安全の為に、もうちょっと『力』が必要かと。 老婆心ながら、拙の手勢の一人をお貸ししたいなと思います。 なに、気の良い奴ですから、お気遣い無く …………おい〉
ポンポンと二度手を叩くシロツグ卿。 シロツグ卿には、傍付の方は居なかったのに、何処からともなく、白い東方の装束に身を包んだ女性が湧きだす様に現れたの。 高度な【隠遁】魔法なの? この屋敷内で? まさか…… そんな事、出来るの?
東方風に恭しく頭を下げ、シロツグ卿の傍に立たれ、言葉と紡がれた。 とても透き通ったお声なのよ。 冷徹…… じゃなくて、透明感が凄いというか、存在感が無いと云うか……
〈御前に〉
〈当直は千早か。 と云う事は、千鳥は非番だな。 話は聞いていたか〉
〈御意に。 千鳥には、直ぐに準備をさせ、西門に〉
〈ふむ、あ奴ならば、問題ないだろう。 拙が命だと伝えろ、『尊き方を護れ』、『御要望あらば応えよ』と〉
〈御意に、お任せあれ〉
直ぐに、溶ける様に消える。 一体何? どういう事? 魔法術式の展開も、精霊術式の解放も何も感じなかったのだけど? 東方には東方の固有魔法が有ると云うの? 目を白黒させる私にフュー卿が面白そうな表情を浮かべつつ、シロツグ卿に言葉を掛けられたの。
〈『極めし技は、魔法の如し』と、東方で 云われる所以ですな、シロツグ卿〉
〈フュー卿。 まぁ、そうですな。 アレ等は、拙の護衛にして『耳』と『目』と『口』と『手』。 通名を 千鳥、千船、千早、千草と申す。 「隠遁の技」に優れ、其方の関連の主上の勅令に従事する者達。 まぁ、拙の目付役と云うのも御座いましょうな〉
〈『豊穣祭』の時に居られた巫女装束の方々だったか。 あぁ、成程。 御上が与えたもうた、貴殿の傍付と云う事でしたか。 その道の御家の内から選りすぐりの…… しかし、女性ばかりでは御座いませんか。 と云う事は、そう云った役割もまた?〉
〈誠、御上と親父殿には、常日頃から云うのですがな…… 『必要無い』と。 しかし、拙の目からしても、『役割』を果たすには、十分な能力を備えておる奴等なのです。 拙の『お目付け』である事には変わり御座らん。 それ以上の御役目は…… まぁ…… 拙には、その気は御座らんので、其処はお間違え無く〉
〈…………まぁ、そうで御座いましょうな。 シロツグ卿の軍功の逸話を知っているのならば。 方々は、期待はしておられるでしょうが、可能性は僅かと。 クックック、成程、首輪は、お嫌いと見える〉
〈『首輪』とは、言い得て妙ですな。 まぁ、その内…… 是非とも付けたくなる『首輪』が現れるやもしれませぬ故。 今は見守るばかり…… では、ありますがな。〉
〈さても、さても…… アーガス修道士殿がヤキモキされるか。 薬師院別當殿が怒鳴り込んでこられるか。 面白きところでしょうな〉
〈全くですな。 しかし、拙の出来る事と云えば、ほんの少しのお手伝いばかり。 さて、どうやって『お役に立とうか』 と、思案中に〉
〈ハハハ、それはまた凄まじい事だ。 軍略は緒に就いたばかりと…… わたくしは、指を咥えてみているしかないので、楽しく拝見させて頂きますよ〉
交わされるのは、高度な『蓬莱言葉』。 言い回し、使う単語…… どれをとっても、普通の蓬莱言葉とは、一線を画しているの。 フュー卿って、公家言葉すら使えるの? えっ? 何? 一体何を? お話になっているの? 単語は理解出来るけど、語られる御話には、二重三重の意味が含まれるから、全部完璧に理解する事なんて、無理よ、出来ないわ。
お二人とも、訳アリなのは、判っているけど…… どういう意味の会話なの? 文字通りの言葉しか判らないもの。 でも、御話から私の護衛に、誰かを派遣して下さると云う事でしょ? 困るわよ。 ルカになんて云っていいか……
〈あの、息抜きですので…… 同行は……〉
〈気に使わんで戴きたい。 近くに見知らぬ蓬莱人が居ると云うだけで、別に同道してるわけでは御座らんよ。 物珍し気に街中を歩く蓬莱人が一人おる。 それだけの事。 気配の切り方や、民に溶け込む方策など、その系統の技は、優秀なる者達ですので。 まぁ、『 物見遊山 』 の、外国人と云う風貌に御座いましょうしな。 別段、目立つような事は御座いますまい〉
〈そうなのですか? わたくしからは特別には…… 接触とかは……〉
〈御身に物理的な危険が有らば、排除するだけ。 人知れず誘導し、排除すると。 まぁ、その術には長けております故、ごゆるりと。 おお、そうだ。 何か御要望が有らば、千鳥と口にしてくだされ。 万事それで、善きように計らうでしょうから〉
護衛職の専門家なの? シロツグ卿の『お目付け役』とか…… お話されて居たけど、あの口振りから『配下』と云っても良いのでは? ……う~ん、良く判らないわ。 でも、そう仰られるのなら、仕方ない。 あちらのご厚意なのだから、受け取らざるを得ないし…… 嫌だと云っても、同道するわけでは無いからね。
宜しくお願い致します と、首を下げて『朝餉の会』は終了。 此れから、小聖堂に戻って聖杖を取り出して、街に行く。 ちょっと、心がウキウキしているのは、多分、皆さんの生温かい視線からも、『気取られている』と、思うのよ。
ちょっと、恥ずかしいわ。
――― § ――― § ―――
西門までは、聖堂教会の無紋の馬車で送って貰ったの。 下位の聖職者が、王領教区の小教会に出向く時に使う、質素なモノ。 それでも、【聖壁】の精霊術式がこれでもかって打ち込まれているのから、頑丈さと堅牢さは言わずもがな。
危険な場所もあるし、危険な街道も存在するもの。 幾ら王領内とは云え、魔物の森だって、中規模迷宮もあるし、狂暴な魔獣がうろつく場所だって存在するのだものね。 用心に越した事は無いわ。
でも、今日は第一環街区に行くだけだし、西門までの送迎よ? それなのに、この仕様の馬車を使うなんてね。 歩いて行ってもいい位なのに、『それだけはやめて下さい』ってアーガス修道士様が懇願されたのよ。 どうして? この国で、一番安全な筈の王城直下の貴族街なのに?
「ちょっとは、自分の価値やら稀少性を見てくれ。 完全には秘匿しきれんのだよ、善き修道女 エル。 リックが走り回って手を尽くしているが、徐々にその ” 秘密 ” さえも漏れ出しているんだ。 秘匿しようにも、嬢ちゃんの ” ヤラカシ ” が、静かに『噂』に成りつつあるんだ。 神殿、聖堂内で神秘院の馬鹿共が、ちょろちょろ漏らしやがるんだよ。 神秘院のジジイが、頭を抱えてやがったんだよ。 人の口に戸は立てられんってな。 そんな情勢に成りつつある。 価値ある人間に対しての、貴族の遣り様は、嬢ちゃんよりも俺の方が知っているんだ。 だから、大人しく云う事を聞いてくれ」
滾々と、切々と諭されてしまったの。 仕方ないから、御言葉通りに厚遇を受ける事にしたのよ。 西門に馬車で向かうのは私とアーガス修道士。 その道すがら、シロツグ卿が申し出られ、消極的に受け入れた事柄を御話したのよ。 そしたら、絶句されてしまったの。
「あの『戦闘狂』め…… それで、フュー卿は止めなかったのですか?」
「ええ、まぁ…… 良く判らない御言葉を交わされていて………」
「…………後で、フューと話をします。 ご容赦を」
「いえ、別に…… 『問題』は無い様なので。 近くに蓬莱人の旅行者が居ると云うだけなので」
思案気に顎に手を当て呟かれるように言葉を発せられる。 まるで、何か重大な事項を思い出したかのように、静かに…… 私に問いかけられるのよ。
「…………『チドリ』と、仰ったか、シロツグ卿は」
「はい。 なにか、御座いまして? その方に関して」
「私の記憶に間違いが無ければ、蓬莱の暗殺集団の一人ですよ、それ。 チの一族と云って、諜報に長けた家の出、一族の者達は皆が諜報、防諜関係の職務に就く者達です。 通り名の、中央や下の方に付いていたならば、まだしも、通り名の頭に ” チ ” が付くならば、腕は超一流。 シロツグ卿の『お目付け役』と仰っておられたか」
「はい」
「…………厄介な。 監視対象がシロツグ卿であり、その監視対象から命令を下せると云う事は、既に彼等の支配権を捥ぎ取っていると云う事に他なりませんな。 ” チ ” を配下にすると云うのは、キンバレー王国に於いては、宰相府諜報局を丸ごと抑えていると云う事と同義なのです。 いやはや…… なんとも…… 云えぬ。 フューが、手を出せぬ訳だ」
「なにか…… 困った事でも?」
「善き修道女エル。 シロツグ卿に対しての言動には、特に注意を払ってください。 間違っても、『誰それが邪魔だ』とか言わんでください。 翌日には、王都の街角で骸に成っている可能性が高い」
「えっ?!」
「そう云うモノなのです、蓬莱人と云う方々は。 良いですね」
「は、はいッ!!」
なんて事。 そんな人だったの?! 剛健な方だとは思っていたけれど、それ程 苛烈な判断を瞬時に下されると云うの。 ほ、蓬莱人とは、それほどに…… 改めて、外国籍の方との付き合いの難しさを実感したの。 気を付けよう。 ホントに、気を付けよう……
――
ほどなくして、西門に着いたの。 ルカは既に待っていたわ。 武骨な馬車を降り、ルカと挨拶を交わす。 冬到来の直前の気持ちのいい晩秋の街。 街路樹からは、ハラリ、ハラリと木の葉が舞い落ちているわ。 その樹々ももう殆ど丸裸。
冬が近いのね。
送って下さったアーガス様は、ルカに鋭い一瞥をくれた後、私に首を垂れてくれぐれも無茶をしない様にと釘を刺されてから、お戻りに成ったの。 夕刻にこの場所に迎えに来られると、そう云い残されて御帰りに成られたわ。
これで、やっと一息つける。 なんだか、ガチガチに縛られている様な気分で、ホントに心が疲れていたんですもの。 ルカ、行こう! 黒曜豆の甘味! とっても楽しみにしてたんだからッ!
ウッキウキの私を見て、整った顔をほころばせ頷いてくれるルカ。 今日は、日ごろの鬱憤を晴らすのよ。 もう、色々と愚痴を言うからねッ! 覚悟してねッ!!
―――――
ルカに誘われ、付いた場所が、喫茶房と云うお店。
開放的なテラス席でルカとお茶を楽しんでいたの。 色々と面白い御話を聴けたわ。 興味深く聴いていたの。 街の様子とか、商売で遠くの御国の方から聴いた御話とか。 その内、御話の内容は学習院の事柄に遷って行ったの。
まぁ、盗み聞きしてたから、直近の御話は理解している。 でも、その前後の御話は知らないから、そちらの方は、しっかりと聞いたの。 あの日の報告の箇所で、真実と私に聞かせる内容に少しズレが有るのよね。 見事に、キンバレー王国の貴族社会に秘匿されつつもしっかりと存在する三つの派閥については、隠しているのよ。 まぁ、ルカにとっては、私が知らない方がいい『情報』って事でしょうね。 過保護よ。
「…………と、まぁ、学院の情勢はエルがお休みを取る前とあまり変わっていない。 小聖堂の様子はエルの方が知っているよね。 俺が渡したメモの時間以外でのお祈りは避けた方がいい。 未だに、小聖堂には人が近寄らないから、ゴソゴソする者がいるからね。 くれぐれも、気を付けて欲しい」
「うん、判った。 ……あぁ、でも、ちょっとだけ遅かったかな」
突撃した事をここで開示。 既にファンデンバーグ法衣子爵令嬢とお逢いしていて、さらにフェルデン侯爵令嬢のお誘いに乗っている事を伝えなくちゃね。 ケイト嬢と出会って、御話して、招待状を戴いた事を、ちょっと茶番を含めてお話したの。
「どういう事?」
「用事があって、小聖堂に行った時に、ファンデンバーグ法衣子爵令嬢と御話したのよ。 それでね、びっくりな事に、フェルデン侯爵令嬢…… 本家の正当なる侯爵令嬢に ” 会って話がしたい ” って、大食堂に併設されている小部屋に、ご招待されてるのよ」
「なんだって! ” ご招待 ” って何時!」
「明日の午前中。 まぁ、お昼前位ね」
「なんでッ!」
「だって、本家のお嬢様からの呼び出しよ? 偶々小聖堂でファンデンバーグ法衣子爵令嬢にお逢いしたって、云ったでしょ? これ、多分、偶々じゃ無くて、彼女、私を待っていたと云う事だと思う。 一度の機会に賭けていたって感じなんだもの。 ねぇ、ルカ。 私って、そんなに空気が読めないかな」
「い、いや。 そんな事はないよ。 ちゃんと、場の空気を読んでいる。 でも…… でもさ、暴走するじゃんか」
「貴族令嬢に擬態して周囲を韜晦している時は、元リッチェル家の領地女主人としてやって来た私が前面に出るのよ。 暴走とは対極に居るわ。 その時の私は、そうね、『醒めて冷たい情熱』っていうか…… 貴族の夫人と遣り合う時には、激昂したり怒りに取り込まれると、ドンドン深みに嵌るのよ。 落としどころを模索する『情熱』を保ちつつ、極めて冷徹に感情を制御しなきゃ、辺境の貴婦人様方の相手なんて出来ないんだもの。 今は『封印』した、そっち側の私なの。 ルカも、『話』には聞いた事あるでしょ?」
「リッチェル侯爵家のエルデお嬢様の話…… か。 そりゃまぁ色々と。 老師の所では、結構いろいろな事を聴かされたっけ。 あの偏屈爺さんが、絶賛するって相当だなって、思ってた。 どうしても、エルと重ならないんだよ、エルデお嬢様って。 あぁ、一つだけ共感が持てた話があったっけ。 アントンの有能さを見抜いて、孤児院出院と同時にリッチェルの領都本邸に雇ったのもエルデお嬢様だったっけ…… つまりは、エルなんだよな~」
「うん。 そうよ。 アントンは良く頑張っていたもの。 今、アントンはどうなっているの?」
「リッチェル領に帰って、御継嗣様付の執事見習いをやってるよ。 日々の業務に、あっちの本邸の方々にしごかれているけど、見知った方々ばかりなので、遣り易いって。 手紙…… 貰った」
「そう、元気そうにしていた?」
「うん、まぁ。 ヒルデガルドお嬢様の傍付従僕から外された時には、随分と凹んでたけど、あっちに行って良かったって、そう綴って来たよ。 なんか、目の前の靄が晴れた気分だって」
「へぇ…… そうなんだ」
「実際ね、ヒルデガルドお嬢様の従僕の時は、眼が死んでた。 あれだけの労力を使うんだ、相当精神的に追い詰められていたと思うよ。 それでもって、出来て当たり前。 万が一ヒルデガルドお嬢様の御不興を買おうものなら、お兄様方お二人から折檻されてしまうしな」
「酷い…… そんな状況だったの?」
「まぁ……ね。 それでも、ヒルデガルドお嬢様の傍に居られる事が慶びなんだって云ってたから、よっぽどの被虐体質だと思ってたんだよ。 俺は御免だね。 無茶ばかりで、商いの旨味は皆無なんだから」
「でも、リッチェル家には、いい顔できるでしょ、ヒルデガルド御嬢様の歓心を買えれば」
「色香に狂って収支を見極められないとなると、独立商人なんざやってられない。 天秤は大きくリッチェル側に傾くし、大きな商売を考えれば既存の商家が商いの大部分を占める、序列二位の侯爵家に食い込むのは得策じゃないよ。 関心を買えたとしても、それはあくまで御嬢様の歓心だから、下手をしたら御嬢様の専属とかに成りかねない。 そしたら、こっちが凹むだけ。 やってられない」
「へぇ…… そんなに、無茶な要求なの?」
「一般的に言って、最高級のモノを持ち込んでも、細部に至る極小の『傷』を見つけ出されるんだ。 どんな眼を持ってらっしゃるのか…… 『審美眼』は磨かれていると思うよ? 一流品ばかりを見ているのだから。 でも、それだけ。 一流品とは云え、筋の悪いモノも有るんだ。 だから、そのモノの『本当の価値』を、見る事は出来ないと思う」
「良く知ってるわね」
「一度、仲間の独立商人にくっ付いて行った。 その時に先輩がえらく苦労しているのを横目で見てた。 まぁ、そんな所。 今の所、リッチェルには近寄らない事にしているんだ。 危ない橋を渡りたくない。 まぁ、他の大店が食い込んでいるし、そっちの方が色々と便宜を図っているって聞いたからね。 件の先輩も一度やんわりと注文を拒否してから、お呼びが掛からなくなったって云ってたし。 無理をして道理を引っ込めてたら、独立商人なんてやってられない」
「そうなんだ。 アントンは、目が覚めたって事?」
「端的に云えばね。 あっちでは、努力に見合った称賛と褒賞が与えられるんだ。 遣り甲斐はあるんだよ、きっと」
「それは、何より。 御継嗣様の手足となって、執事仕事とか領政なんかを理解出来たら、あっちの政務官になれるんじゃない」
「それは云える。 まぁ、頭脳明晰な有能君では有るんだから、そっちの道に足を突っ込んで、あっちを豊かにしてくれた方がいいな…… っと、そんな事を言っている場合じゃ無かった。 フェルデンのお嬢様に呼び出されてたんだって?」
「ええ、そう。 ルカ、何か聞いてない? 彼の御令嬢の事」
黒茶を一口含み、腕を組んでから眼を瞑りつつ上を向く。 これ、ルカの癖ね。 記憶の中に有る事を、引き出す時の癖。 と云う事は、何らかの情報を持っているって事ね。 ゆっくりと身体を起こし、両方の肘をテーブルに付けて組んでから口を隠す様にして言葉を紡ぐの。 秘め事の様に、小さな声で。
「此処だけの話…… 宰相家フェルデン本家、本邸に入り込むのは、とても難しい。 本家の出入り業者は決まっているし、新規の取引も、その業者を介してしか受け付けられない。 その商家にしても、絶大な信頼を勝ち取っているのと、その信頼を損ねない様に真剣に商売をしているからね。 半分以上……政商と呼んでも差し支えない。 生半可な覚悟じゃ、あそこには食い込めない。 俺も別邸では、顔を知られて、それなりにバン=フォーデン執事長様には良くして貰っている。 細々とした取引も、俺と契約して下さるし。 それはまぁ…… エルの引きって事だからな。 その辺は弁えているよ。 でも、本邸の事は本当に判らないんだ」
「そうなの…… 学習院では?」
「つい最近までは動向を掴んでいたんだ…… でも、フェルデンの御継嗣様が、御当主様の御意向で、フェルデン領での研鑽を始められてから、『煌びやかな集団』から抜けただろ。 それ以来、フェルデンの御嬢様の動向が掴めないんだ。 取り巻きの連中は、大食堂に居るし…… 此れと云った茶会や昼食会を開いている訳じゃない。 かといって、『煌びやかな集団』に舞い戻る事も無い。 それが故か、彼女の派閥と云うか、周囲の取り巻き達は、少々肩身が狭い状況に落ち込んでいる」
「社交的にはマズイの?」
「表に出ては居ないけれど、取り巻きの彼女達には方々から色々な接触は有ると思う。 でも、それに対し、表立っては動かれていないと云う所かな。 『考察』している事があるんだ。 例の仲間達と」
「どのような?」
「関係性を見直して、篩に掛けているのではなかろうか…… って事。 兄上である御継嗣様が遠くに研鑽に向かわれた時に、ゴットフリート = デルフィーニ = ベルタ = ロドリーゴ = キンバレー 第一王子殿下は、そこまで気にした様子も無かったらしい。 御令嬢には、『思う所』が有ったのかもね。
殿下の片腕たる者の妹君である侯爵令嬢が集団に居座らず、引いたのにも拘わらず、あの『煌びやかな集団』の面々は気にした様子も無いんだ。 相手は宰相家だぜ? 独立商人的考えならば、絶対に押さえて置かなくては成らない家門だ。 序列第一位の侯爵家なんだ。 無下にする事は、死活問題になるよ、第一王子の立場を考えれば。
なのに、気にした様子も無い。 不思議だと、アイツ等も溢している。 兎に角、情報は少ない。 外側から取得できる情報が無いに等しいんだよ…… ゴメンな」
「いいのよ。 それは。 良い事を聴いたわ。 彼女、あの集団から離脱していると云う事ね。 つまりは、私が彼女に会って御話しても、あの集団には眼を付けられる事態には陥らない。 そう云う事。 それが、とても知りたい事だったのよ。 判るでしょ、私の立ち位置だと、今のままで眼を付けられると何を言われるか判った物じゃないんだもの」
「うん。 それはそう。 でも、気を付けて。 相手は、あのフェルデンだ。 何を考えているか、判った物じゃない。 トンデモナイ要望を出されるか…… それとも学習院から排除されようとされるか。 兎に角、呼び出された目的が判らないな」
「あら、私も『フェルデン』の者よ。 ……でも同意する。 ほんと、『目的』が見えてこないわよね。 フェルデン卿には良くして貰っている。 それは、確か。 私の立場を良く理解されていて、成人後の進路についても、私の意思を尊重して下さると断言して貰えた。 御当主様の御意向だから、それは確定。 だから、私の『御役目』は、成人までの間と、期間が決められたのも有るのよ」
「後二年半かぁ………… 学習院内の情勢を転換するには、時間が足りないね」
「まさしくそうよ。 その情勢をけん引してるのが……」
「「 あの『煌びやかな集団』 」」
思わず、声が揃ってしまった。 コレは、認識として間違っていないと云う訳。 思わず嘆息が、零れてしまう。 ほんと、如何にか成らないかしら? 情勢をひっくり返すには…… やはり直接ご説明した方が良いのかしら? 私の顔色を読んだルカが、更に声を潜めて言葉を紡ぐ。
「今は未だ無理だよ。 王家のサロンの中の話は…… 判りっこないんだもの」
「そうね…… それは、仕方ないわよね………… あそこは特別警戒が厳重なんだもの。 忍び込むには、無理があるわ。 少なくとも、私じゃ無理。 まぁ、出来る可能性があるとすると…… シロツグ卿の ” チドリ ” とか云う人なら……」
小声でそう帰した時、突然、耳元で声がしたの。 低く透き通った声。 そして、感情を全く感じさせない音。 えっ? えっ? えぇぇぇ?
〈主人からの命に御座います。 御要望あらば、秘匿された場所での話、この『耳』がお知らせいたしますが?〉
蓬莱言葉がいきなり耳朶を打つ。 思わず、ふぇッ! って、びっくりしてしまった。 ルカはキョトンとした顔。 姿が見えないらしい。 私が展開している検知系統の魔法にも引っ掛かっていない。 誰ッ! 薄っすらと、本当に薄っすらとした存在感が、私の【検知術式】に引っ掛かり、その位置が私の真横なのに、もう一度驚いたの。
こんな芸当が出来るのは…… 一人しか心当たりが無い。
〈ち、千鳥さん?〉
〈御意に。 我が主よりの命で、お嬢様に困難あらば、お手伝いをせよと〉
〈そ、それは…… ちょっと、考えさせて。 いきなりは無理。 千鳥さんの能力はアーガス修道士から、それとなくは聞き及んでおりますが、一応他国の貴顕の皆様方の事ですので…… どうしても、と云う時までは、お控え頂きたく存じます〉
〈承知。 では、引き続き、警護に〉
その言葉を最後に、また気配が消える。 ルカは、私が独り言を言っているだと、そう思っているみたい。 いきなりの蓬莱言葉だもんね。
「エル。 独り言を言う時は、蓬莱言葉を使うのかい? まだ、俺は修得して無いから、何を言っているのか判んないけどさぁ…… どうしたの?」
「うん、そう。 ちょっと、考え事。 気分によって使う言語は変えてるからね」
「それで、蓬莱言葉? また、特殊言語を使うんだね。 まぁ、キンバレー王国内では、蓬莱言葉を習得している人なんて、ほんの一握りだからねぇ…… いずれ、俺も修得しなきゃとは思っているんだけどね。 そう云えば、別邸に客人が居られるのだったっけ。 その中に?」
「うん。 シロツグ卿が滞在されているわ。 繋ごうか?」
「今はいいや。 まともに蓬莱言葉を使えないんじゃ、細かい事は伝わらないしね」
「そっかぁ~ 判った。 時が来れば教えてね。 ちゃんと繋ぐから」
「ありがとう。 商いの幅が広がるね。 さてと。 そろそろ行こうか。 小間物の良い店を見つけておいたから」
「色々と欲しくなっちゃうようなお店?」
「見立ては、多分。 エルの好きそうなお店だよ。 また、見てるだけって言いそうだけど」
「フフ、そうかもね。 この格好でも大丈夫?」
「間違いなく。 仲間の店だもの」
「そっかぁ~ ありがとっ!」
さっきはびっくりしたけど、街のそぞろ歩きは続けるの。 そして、心に誓う。 あの千鳥とか云う人の『隠形』の業…… 見破れるように検知系統の術式を高度化するってね。 突然、耳元で声を掛けられるなんて、本当に心臓に悪い。 悪すぎるわよ。
―――― コレが、私の安息日? 本当に遣ってられない。
だから、夕暮れ時まで、ルカに愚痴を言いつつ、発散させて貰ったわ。 それで、気分は上々に。 これで、また、明日から戦える。 身近な目標も出来た事だしね。 明日、『会合』の後、時間が有れば文書館に立ち寄って、高度な検知系統の術式を探すつもり。 出来れば古代魔法系のモノ。 あれならば、あの業には通じるかもしれないしね。
……もし
……もし、万が一
シロツグ卿や、御配下の方々の『不興』を、買ってしまっても、生き残れるように。 逃げ出せるように…… 怯みは、死に通じる。
――― 頑張んないとね。
エルは孤児院を経由して女子修道院に入った時、口調が下々の者達と同様に成りました。 気の置けない方々とは、軽口も叩くし、口調も砕けてしまいます。 そして、なにより、ルカとは孤児院の仲間。 話して行くうちに、立場立場の言葉が抜け、気安く心軽やかに口調が変わります。
正に、『息抜き』。
彼女の心の平安と安寧の為に、どうしても必要な時間でもありました。彼女が潰れる事が無い 『 必須条件 』 でした。
物語は、加速します。