兄王子の来襲
マルスとボルドが情報を持って神殿へ来てから3日後。
しばらく神殿で過ごしていたリナは、新しく会えた使用人のボルドにハンカチを渡すため刺繍をしていた。彼をイメージして狐の刺繍にしてみた。細身の体躯に相手を射抜きそうな鋭い目つきから、獲物を狙う今にも走り出しそうな狐を縫っていた。
彼が偵察で神殿を離れている日の方が多いため、彼がいるうちに完成させて渡したい。
まだもう1人使用人がいるというが、その相手とは会っていないので、会えた時にハンカチを贈るつもりでいる。
「少し休憩したほうがいいと思いますよ」
黙々と刺繍をしていると、アスロがテーブルにカップを置いた。刺繡をするときはリナ個人の部屋で作業に没頭するのだが、護衛を付けることになってから、部屋にいても定期的にアスロが顔を出していた。その際にはお茶やお菓子を持ってきてくれる。
部屋に入って来た時に刺繍から目を離すことなく手を動かしていたため、お茶を理由に休憩させようとしているのがわかった。
「早く完成させて渡せるようにしておかないと、いつ神殿を出るかわからないから」
しばらくはいてくれるというボルドだが、ロイドの指示があればすぐに他の国へ行ってしまう可能性もある。そう思って時間を見つけては進めていた作品だ。
「急がなくても、ボルドはしばらくいると思いますよ。グリンズの王子が動きを見せるまでは注意が必要ですし、ロイド様も信頼していますから」
ボルドとマルスがいてくれるということで、ロイドは王竜と一緒に空へと偵察に向かった。いつも通りの行動ができるのは、2人の実力が信頼に値するからだと思っている。
「みんなとお茶ができるように部屋を作ったのに、あれ以来ゆっくり話も出来ていないわね」
カップを手に取って口をつけると、思い出したように言葉が漏れた。
お茶会用に部屋を用意したが、最初の1回で終わってしまっていた。
「でも、あの部屋は重宝されていますよ」
「え?」
あれ以来使っていないと思っていた部屋だが、アスロは嬉しそうにここ数日のことを話してくれた。
「リナ様はお部屋にいるので知らないと思いますが、私たち使用人は休憩に使ったりして、その時に一緒になった使用人と話ができるようになりました」
今までは廊下ですれ違いざまに重要なことを伝えるくらいで、ゆっくり話をするという感覚がなかった。それが、休憩するために部屋を利用することで、そこにちょうどいた使用人と何気ない会話ができるようになったそうだ。
お茶を飲むほどではなくても、使用人同士の会話が増えたのだ。
「少ない人数ですから、神殿内のどこかで会うことはありますが、立ち話をすることもなくて作業に追われる日々でした。それが何気なく顔を合わせるとお互いに会話が弾むようになった気がします」
リナが提案した部屋は、予想していなかった方向で使用人たちにいい影響を与えていたのだ。
「スカイとボルドは、部屋で会うとお互いの情報交換をしながら調査している国の美味しい食べ物とか、観光名所まで話しているのを聞きましたよ」
アスロの耳がぴくぴくと動いて嬉しさを表現しているようだった。会話の増えた使用人がいることで神殿内の雰囲気も変わりつつある。
「それは私も聞いてみたいわ。ギュンターとここにしか来たことがないから、他の場所のことを聞けるのは楽しそうね」
ロイドと結婚しなければ、聖女を隠して他国を回るつもりでいた。その中で自分の落ち着ける場所を探す予定でいたのだ。それが最初に来た竜王国で居場所を見つけてしまったため、他国に行くことがなかった。
「落ち着いたら、みんなで他国の話をするのもいいわね」
その頃にはスカイもボルドも別の任務でいない可能性はあるが、楽しみを持っておくことは悪いことではない。
「それなら、リナ様のギュンター王国の話も聞きたいです」
「そうね。今度ゆっくり話しましょうか」
そういえば、自分がいた国のことを話した記憶があまりなかった。神殿や聖女、貴族としての話をするばかりで、ギュンターの美味しい食べ物や、名所などの話をしていなかった。
ロイドとも普段の日常での会話ばかりだ。2人でいる時間は沢山あったのに、今頃そのことに気が付いた。
ロイドも自分の過去を打ち明けてくれたのだから、今度お互いの住んでいた国のことを語らうのもいいかもしれない。いい思い出がほとんどない可能性は大きいが、それでも国全体の良い場所や物は知っているだろう。小さなことでも話せることがあればいい。
そんなことを考えていると、急にアスロが部屋の扉を振り返って身構えた。どうしたのだろうと思っていると、部屋の外で慌ただしい足音が聞こえてきた。獣人である彼女はリナよりも先に音に気が付いていたのだ。
素早いノックに返事をするより先に扉が開く。
アスロがリナの前に立って腰を落とした。いつでも飛びかかれる体勢を取るのと、わずかに開いた扉の隙間からスカイが入ってくるのは同時だった。
「何かあったの?」
相手を判断して飛びかかることはしなかったアスロだが、体勢を変えることなく質問した。
「神殿の入り口に、グリンズ王国の使者だという者が来た」
グリンズ王国と聞いてリナは咄嗟に立ち上がった。ついに仕掛けてきたのだと本能が察知したのだ。
「また侯爵令嬢?」
この前のことを思い出したのか不愉快そうにアスロが質問すると、スカイは首を横に振った。
「全員男だった。騎士のようだが、1人だけ仕立てのいい服を着ていた」
「それが使者ということね。それも騎士に護られるなら、高位貴族でしょう」
「いや違う」
リナが予想すると、突然扉が開いてゆっくりとした動きでマルスが入ってきた。
「遠くから見ただけだが、あれは貴族じゃなかった」
どこか気まずそうな表情に、マルスの知り合いであることは確かだろう。グリンズ国王の勅命で動いている彼は城の中で働く者たちの顔を知っている。逆にマルスの顔も知られているので使者と顔を合わせられない。それでも遠くから確認して知らせに来てくれたようだ。
「あれは、噂していた第1王子のキースト=デュ=グリンズだ」
ずっと第1王子と称していたため、そこで初めて名前を口にした。リナはギュンターにいた頃にグリンズ王族の名前を教えられていたので、会ったことはないため顔は知らなかったが名前だけは聞き覚えがあった。
ロイドを虐めていた張本人がここへ来たのだ。
「まさか本人が直接乗り込んでくるとは思わなかった」
頭を抱えたくなりそうなマルスの嘆きに、リナはどう答えたらいいのか困ってしまう。
「第1王子はロイド様に会わせろと言っています」
スカイが口を挟んだ。マリアナ侯爵令嬢の時と一緒だ。彼女は婚約者となるためやって来たが、キーストは違う目的があるはずだ。
「会いたい理由を言っていたかしら」
「会わせろと命令するばかりで、他は何も」
ろくな理由ではないだろうが、来た理由くらい言ってほしいものだ。
「リナ様と会うと、厄介なことになりそうなので絶対に、この部屋から出ないでください」
侯爵令嬢の時と対応が一緒だ。スカイに言われて、リナは困ったようにしているマルスを見た。
「マルス様も一緒にいたほうがいいでしょう」
部屋で待機することになったが、顔を合わせたくないマルスも動かない方がいいだろう。
「そうさせてもらえると助かる。俺がここに居ることは王子は知らないはずだから、見つかるとどんなことになるか・・・」
想像しただけで厄介ごとが起こるとわかったようで、マルスは明らかに頬をひきつらせた。グリンズ国王の勅命でロイドの監視役として動いている彼は、他の王族には存在を隠されているらしい。
「ロイドが戻ってくるまでは大人しくしていよう」
その意見にリナも賛成だったため、静かに頷いた。
窓の外を見ると青空が広がっているのがわかる。このどこかに王竜に乗った夫がいる。王竜は神殿で起こったことをすぐに察知できるので、すでにこちらに戻ってきている可能性は高い。
早く戻ってきてほしいと願いながら、リナは静かに部屋で待つことになった。




