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クレージー右京  作者: 不二原 光菓
お江戸に炎の雪が降る
51/110

その18

 もう、自分の居場所は無い。

 継母に棒で叩かれて、家を飛び出してきた少女は目に涙を浮かべてひたすら歩いている。殴られた後ろ頭は腫れあがり、頭の中からはまだ鈍い痛みが脈打っている。

 継母からなんだかんだと理由を付けられて棒で叩かれたり、蹴られたりする毎日。反抗をしようものなら、さらに怖い折檻が待っている、いつぞやなど刃物で切りかかられたほどだ。

 少女の右腕の裏には、包丁から思わず顔を守った時に負った深い傷が走っている。幸い着物に隠れる場所であり、裏側だからなかなか人目には触れないが、この傷痕の引きつりが目に入るたびにあの時の恐怖を思い出し、少女の足元からこきざみな震えが登ってくる。

 このまま家に留まっていればあの継母にいつか殺される。継母に言いなりの父親も当てにならない。

 絶望の淵にいた少女に射した一条の光明、それがあの少年だった。

 あの優しそうな少年と、芍薬をくれた伯母さんがいるお屋敷。あそこに頼めば奉公人として雇ってもらえるかもしれない。

 少女は頬を赤く染める。

 あの御屋敷で働く。それは少女にとってあまりにも甘美な夢想だった。

 あの少年の傍に居られる。

 それさえかなれば、今以上に辛い日々も我慢できる気がした。

 少女の足は、吸いつけられるようにあの屋敷に向いている。

「また、お前か」

 屋敷の門番は顔をしかめて、溜息をついた。

「もう坊ちゃまからお前をこの家に入れるなとお達しを受けている」

「うそだ、あのお方がそんなこと言うはずがない」

 少女は門番を睨みつける。

 門番の口がへの字に曲がった。

「じゃあ、証拠を見せてやる、来てみろ」

 門番は薄ら笑いを浮かべると、門の隙間に少女の顔を押し付けた。

「え……」

「この花のせいで、またお前のような臭くて汚い浮浪児が来ては災難だからな」

 少女はふらふらと門から後ずさりした。

 芍薬の花はすべて、まるで首を落とすかのように花の付根からすっぱりと切られていたのである。

「もう花は切ってしまえと言うお達しがでたんだよ」

「嘘だ」

 目を丸くして、少女は呆然と立ちすくむ。

 しかし次の瞬間、少女の顔が輝いた。

 なんという偶然、門の中からあの少年が走り出してきたのである。

 先日会った時よりも顔が蒼く、唇は一文字に結ばれている。お付のものと思しき若い侍とともに息を弾ませて、あたりを見回していた。

「あ……」

 少女の叫び声に少年は気が付いたようだが、それどころではないといった態で馬方の引いて来た馬の(あぶみ)にもどかしげに足をかけると、ひらりと飛び乗る。

「待って、芍薬を切れと言ったの?」

「きたねえ手で若様に触れるんじゃない」

 駆け寄る少女を門番が慌てて後ろから抱きとめる。

「ああ、そうだ。すまないが急ぐので、これで……」

 ちらりと少女を一瞥すると少年は(かかと)で馬の脇腹を蹴る。言葉の最後は勢いよく走り出した馬が巻き起こす風の中に消えて行った。

 その後の事は良く覚えていない。

 涙を両手で拭きながらふらふらと何処をどう歩いたものか。

 小石につまずいてころんでも、誰も彼女に声をかけようとする者はいない。

 道端に四つん這いになりながら、少女は嗚咽に肩を震わせる。

 しかし、嗚咽はいつの間にか、笑いになっていた。

 私、何泣いてるんだろう。こんなに汚れた自分を誰も助けてくれるわけない。

 自分への憐みの感情は徐々に惨めな自分に対する(あざけ)りに変わって行った。まるで自分の魂が身体を抜け出して横に立って、自分を見ているかのような、冷えた感情。

「あはは、馬鹿だ、私、馬鹿だ」

 最初から、わかっていたことじゃないか。何を期待していたのだろう。少女の頭の中で嵐のように陰鬱な感情が渦巻く。

 勝手に夢物語を思い描くから、現実が辛くなるんだ。会わなければ良かった、下手に幸せを感じてしまったから、あとが辛くなる。

 あの若様だってあんなに優しそうに見えたのに、花の首を落とすなんて残酷な仕打ちをするんだ……。人なんか信じられるわけがない、わかっていたのに。

 この世の中はあまりにも酷過ぎる。自分の身は自分で守らなければならないのだ。

 ここで生きていくためには、甘い気持ちなど持ってはいけないのだ。

 戦わなくては。自分を排除しようとするすべての事と。

 少女の頭の中に、ふと亡き母の言葉が蘇った。

「お麗、青い梅の実は毒だから、食べてはいけないよ。特に青い梅の種はだめだ。母ちゃんの小さい頃、ひもじいからって青い梅を沢山食べた子供が死んでしまった」

 お麗は目を細めてそっと微笑んだ。




「この辺りで待っておれ」

 殿は、毒草の館の半里(約2キロ)ばかり手前で馬を降りると、尾根角(おねずみ)兄弟に手綱を渡す。

 慣れない乗馬で内股と尻が痛くなったのか、へっぴり腰で歩き始める殿。

「だ、大丈夫でございますか」

 見るに見かねて忠助が声をかける。

「わしの身体は武芸や乗馬には向いておらぬのだ。この体は美女専用に調整されておるゆえのう」

 小さい頃は野山を走り回って遊んでいた右京は、とくに乗馬は問題ない様子で、しぶしぶ馬から下りると殿に付き従った。

「右京様、くれぐれも殿と左内様をよろしくお願いいたしますよ」

 真面目な忠助は一緒に行けないもどかしさに身を震わせる。

「ああ、任せておけ。大切な菓子代の出資者をみすみす失う訳にはいかんからな」

 彼の額には赤い斑点が付いている。

「そ、それは、ドリアンコウ」

「ああ、子育てが忙しいと駄々をこねていたのだが、無理やり説き伏せた」

 右京の額から、アンコウの提灯を彷彿とさせる透明な触手が伸び、身体をくねらせた。

「もう一匹は奥方様の額についている」

 このドリアンコウという生物を額に宿らせると、離れていても装着した同士が意識をつなぐことができる。

「いざという時に奥方様の能力を引き出すために、頑張ってくれドリアンコウ」

 右京の声に、ドリアンコウは不機嫌そうにぶんぶんと首を振ると額の中にもぐりこんで行った。

 二人っきりになって歩きはじめると、殿はそっと右京に耳打ちする。

「なあ、惚れ薬ってのは調合できんのか」

「はあ?」

 状況を全く無視した突然の依頼に、さすがの右京の目も点になる。

「いや、あのお麗って娘、なかなかの上玉でな。こう心の奥にうごめく暗闇がまたその美しい顔に憂いと妖しさを加えていて、それが、腕の中で声を上げる時にはわしの頭にも火花が散るような快感が……」

「はあ?」

「このような極上の火遊び、わしは未だかって経験したことが無い。もともとあの女が妖しいというのは薄々気が付いていたが、危険をはらんだ快感というのは得も言われぬ味でな」

「はあ?」

 殿の気持ちが全くわからないのだろう、右京はただ、首を傾げて相槌を打つだけである。しかし、一旦興奮すると殿の弁舌は留まるところを知らない。

「なんというかのう、果物でもなんでも腐りかけのものが美味しいのと同じで、心の中に闇を持たぬ女は何処かつまらんのだ。そうだなあ、そういった意味では残念ながら我が奥方はつまらぬ部類に入るかなあ」

「奥方様がつまらないですって?」

 右京の目が大きく見開かれる。

「あんな謎を秘めた脳の持ち主になんてことをおっしゃるのです」

「そ、そうか?」

「あのお方の脳は、恐るべき力を持つ深淵を秘めていらっしゃいます。例えるならば地獄の釜の中で煮えたぎる紅蓮の熱湯とでも言えるほどの……」

「う~ん、普通の良くできた奥方に思えるがのう」

 今度は殿が首を傾げる。

「まあ、良い。お麗が参るほどの惚れ薬は無いのか」

「惚れ薬は作りません。なぜかと申しますと惚れ薬、いえ、男女の仲というものには全く興味がございませんから、頭の中から湧いてこないのです。ま、セミやトンボは同じかごに入れておくだけで子孫を残しはじめるもの。同じ籠に入っていればいつか……」

「虫と人間様を同列に考えるお前に相談したわしが馬鹿だったよ」

 殿は肩をすくめた。

「殿」

 風を切ってやって来た美鷹(みたか)が二人の頭の上を旋回した。

「まちがいありません。あの男はやはりあの屋敷からの使者でした」

「そうか、わかった。お前達は屋敷の上空で待機しておれ」

 美鷹は殿の指令を受けて、空高く上昇して行った。

 しばらく歩くと彼らの目の前にあの毒草屋敷が現れた。

 門の前には二分相の源三が控えている。

「ようこそおいでくださいました、殿」

「男の出迎えか」

 殿は明らかに落胆した表情を浮かべた。

「我が藩の小姑を迎えに来た。うるさい奴だが居ないと困るのだ。さっさと返してくれ」

 くしゅんっ。

 籠城している部屋の中で、左内は思いっきりくしゃみをした。

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