その19
くしゃみとともに目覚めた左内は、壁がえらく揺れているのに気が付いた。
薄暗がりの中、厚い壁が盛り上がりその先端から粉砕された壁と思しき金属の粉が噴き出ている。その中心には高速に回転する螺旋模様の三角錐が頭を覗かせていた。
「これは……」
左内の頭に、あの悪夢のような湯屋の一件が蘇える。
小伝馬町の牢獄につながる穴を穿ち、湯屋の床をぶち抜いて彼らの前に出てきたあのからくり。平賀源内の発明品に他ならない。
どうすることもできず、左内は唇を噛みしめる。
激しい振動とともに穴は見る見るうちに大きくなり、灯り取りの小さな窓から漏れる光に大量に舞い上がる粉塵が映しだされた。
彼は慌てて、袖を鼻と口に当て粉塵を防御するが、時すでに遅し。見るからに身体に悪そうな空気が彼の気管を刺激し、左内は激しく咳き込んだ。
不意に、唸りを上げて回転していた三角錐が止まり、掛け声とともに引き抜かれる。そこには人ひとりくらいゆうに入れる穴がぽっかりと開いていた。
「そろそろ出て来てもらおうか、お前が居ないと天晴公もこちらのいう事を聞かないだろうからな」
「私の言うことなど、殿が聞くはずないだろう」
そもそも配下の者のいう事を聞く殿であれば、私はここでこんな目に遭う事も無く、国元でのんびりと暮らしていたはずだったのに……。敵に愚痴を言っても仕方がないが、思わず心の丈を叫び出したくなる衝動に駆られ、左内は必死で口をつぐぐむ。
それにしても、不思議だ。
左内は、自分の背中と足の痛みがずいぶん軽くなっていることを感じていた。先ほどまで身体全体を支配していた重だるさは消え、足元もずいぶんしっかりしてきたように思える。
これなら、戦える。左内は自分に確認するかのようにうなづいた。
自分が生きて戻らなければ、美下藩は早晩財政破綻してしまう。
その思いだけが、左内の枯渇しかけた体力をなんとか底支えしていた。
壁には穴が開いたと言え、所詮人一人が入れるくらいの小さな穴。戦うとすれば一対一。おまけに中は暗く、長くここに居て目が慣れている左内にいくらかの分がある。
「片杉左内、もうお前は袋の鼠。足掻いても無駄だ、それ以上怪我をひどくしたくなければさっさと投降するがいい。殿もお越しださっさと出て来い」
穴の外から声が響いてくる。
「こんな絶体絶命の状況では、さすがのお前ももう打つ手があるまい。正気が残っているのであれば、大人しく出てこい」
この状況が絶体絶命? 万事休す? 四面楚歌?
笑わせるな、あの方たちのおかげで、自分がどれだけ修羅場をくぐって来たと思っている。絶体絶命なんて美行藩の江戸家老にとってはハエと同じくらいに遭遇する、まさに日常茶飯事なのだ。
左内は薄暗がりの中、不敵な笑みを浮かべた。
江戸に出て来たばかりの頃は、まるで飴細工の糸のように繊細だったはずの左内の精神は、いつの間にか雑草の繊維のように強く鍛え上げられている。
彼は心に去来するいろいろな鬱憤をすべて込めるかのように、両手の拳を握りしめた。
「今、殿が右京とともに屋敷に通されておる」
奥の間で、白装束の奥方様が頭に鉢のような脳刺激装置を付けて正座している。
祖霊を祭った仏壇に向かう彼女の膝の前には、小ぶりの懐剣が横たわっていた。
「奥方様、皆様大丈夫でしょうか……」
傍らに鎮座するおけいの声が震えている。
「動揺するでない。藩士たちにこの事態が伝わらないように、しかと平静を保ちなさい」
奥方様は悲壮な顔つきで大きく息を吸った。
瞑られた両目の奥には、屋敷の奥に向かう殿と右京が映っている。二人の前には屈強な侍が数人、そして後ろにも殺気を漂わせた侍が付き従っている。
さすがの右京も口を一文字に結び緊張しているような様子なのだが……。
殿は落ち着きのない様子であっちにきょろきょろ、こっちにきょろきょろ。
「天晴様、何かお探しで?」
見るに見かねた侍が口を開く。
「ええい、わかっておるくせに。お麗はどうした、お麗はっ」
殿は不機嫌そうに叫ぶ。
「ご執心の御様子、後でお引き合わせいたしましょう、まずは、奥に」
「奥にはあの黒星の男が待っているのか?」
前後の侍の列がぴたりと止まり、緊張が走る。
「天晴公、口は災いの元、軽々しくお言葉を発されない方が身のためかも」
「うるさい。口どころの話ではない、わしは存在自体が禍なのだ」
鼻を膨らませて、天晴公は肩をそびやかした。
1人目の侍は、穴から身をかがめて入ってきた瞬間に手首を掴むと、鳩尾に拳をめり込ませた。
声も出せずに崩れ落ちる男から刀を奪うと、左内は獲物を待つ蟻地獄よろしく穴の横に立つと次の敵を迎え撃つ。
斬りかかってきた男は、部屋の暗闇の中で目が慣れないのかあらぬ方向に斬りかかった。背中を掴んでこちらを向かせると、峰打ちをお見舞いする。
たちまち足元に二人の身体が転がった。
中の二人が出てこないからか、穴の外からざわめきが聞こえる。
「どうした腰抜けどもめ」
その時、何やら燻しているような煙が穴の中に入ってきた。
再び咳き込む左内。吸い込むと強い芍薬の匂いで頭がくらくらするような、妙な煙である。
お麗の仕業か。
このまま、穴の中に居ても煙に巻かれるだけ、勝ち目はない。
左内は袖を口に当てると、穴を飛び出した。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
侍たちが床に伸びていたのである。
部屋の奥に、線香の束のような物を持ち、お麗がただ一人立ちすくんでいた。
「おのれ、毒婦め」
左内はお麗に飛び掛かり、手刀で線香を叩き落すと、両手を掴んで壁に押し付けた。全身にまとう禍々しい気とは裏腹に、細い身体はあまりにもあっけなく左内に拘束された。
お麗の右手の袖が肘まで下がって、腕の裏側がむき出しになる。
「お、お前は……」
左内の脳裏に、鮮やかにあの日の事が蘇ってきた。
芍薬を見に来た一人の少女。
その少女が見事に咲き誇る芍薬に右手を伸ばした時、みみず腫れした長い傷が捲れた袖から見えた。
ずいぶんと小さくはなっているが、同じ傷が目の前にある。
「お前はもしかしていつぞや、伯母上の家で会ったあの少女か……」
お麗は悔しそうに唇を噛みしめながら、顔を背ける。
「なぜ、こんなことを……」
「お前こそ、なぜ、芍薬の花を切った。そんなに私が嫌だったのか」
左内の問いには答えず、お麗がいきなり涙を浮かべて叫ぶ。
いきなりの問に、左内は一瞬きょとんとするも、すぐに口を開いた。
「誰のせいで切ったとかではない。芍薬は花の盛りを過ぎたら、すぐ花の根元から斬って、その株が弱らないように守るのだ」
細いお麗の目が丸くなり、息を忘れているかのように半開きの口は動かない。
やがて大粒の涙が両目からはらはらと流れ落ちた。
「やはり、左内様は左内様だった……」
「ええい、そんなことはどうでもいい。あの純真な少女がこのような汚れた女になるとは、人間の成長とは怖いものだな。お前の残虐さは、しっかりと背中で味あわせてもらったよ」
左内の目は怒りに燃えている。
「お許しください、これには訳が……」
涙に濡れた伏し目がちの目が、下から舐めるように左内を見上げる。
その、激しい色気に左内の背中の傷がざくりとうずいた。
「ええい殿ばかりか私まで愚弄するか。お前は殿を落とし入れ、そのお命を奪おうとした、我が藩に禍をなす毒婦だ。私が成敗してくれる」
両手を離すと、お麗はずるずると壁を背にしてへたり込んだ。
もう弁解をする気力も無いらしい。そのまま目を閉じている。
「観念しろ、この薄汚い女狐め」
左内が振り上げた刀が降ろされようとする一瞬。
唸りを上げて鎖の付いた分銅が刀に巻き付いた。




