#8 こたつ
一月。クリスマスが終わると、街は突然、お正月モードに様変わりする。クリスマスソングは消え、春の海やら、お正月の曲が商店街のスピーカーから流れている。
新年を迎え、相談室には小さなこたつがやってきた。長谷部がポケットマネーで買ってきたものだ。
「シルバー特典で配送無料なのが助かったわ。」
「これで冬も乗り切れるわね。」
中山が満足そうにこたつ布団を撫でる。
「エアコンもあるのに?」
セイラが苦笑すると、長谷部が湯のみを手に微笑んだ。
「こたつはね、映画のワンシーンみたいなものなのよ。」
「こたつが?」
「なくても物語は進む。でも、あると登場人物の距離が縮まるでしょう。名作には、そういう『なくてもいいけど必要なもの』があるの。」
「おばあちゃん、深いわー。」
セイラは笑いながらこたつに足を入れた。
「あったかい。こたつ、いいね。」
「でしょう?」
その日は、懐かしい面々が続いた。最初の予約は夫を亡くした加藤だった。
長谷部は朝から鼻歌を歌いながら、何やら嬉しそうに戸棚を開け、お茶請けのお菓子を並べている。
「今日は特別。」
机の上には、黄色い袋。
「あ、カール。」
セイラが言うと、中山が吹き出した。
「やだ、長谷部さん、これ。」
長谷部が肩を震わせながら笑う。
「中山さん、あのときわたしが『カールじいさんと空飛ぶ家』の話をしたあと『カールおじさん』だと思ったって言ってたじゃない。」
「本気で『カールおじさん』が映画化されたんだと思ったのよ。だって『カールじいさん』なんて知らないし。」
三人は朝から笑い転げた。
何も知らない加藤は、ソファに座るなり、目を丸くする。
「あら、カール!懐かしいわ。」
一つ口へ運び、目を細めた。
「子どもの頃、大好きだったのよ。」
「そう、よかった。」
長谷部が穏やかに笑う。中山とセイラは笑いをこらえるのに必死だ。
加藤は以前より少しだけ表情が柔らかくなっていた。
悲しみは消えない。それでも人は、歩いていく。時には、立ち止まりながら。振り返りながらも、少しずつ。そんなことを、セイラは感じていた。
昼食。三人で連れだって一階へ降りると、中山の夫がホットプレートを出している。
「お父さん、ありがとう。今日はお好み焼きよ。」
「あら、いいわね。」
「やったー!」
冷蔵庫からステンレスボウルとおたふくソースを出しながら、中山が言う。
「やっぱりお好み焼きには炭酸よね。セイラちゃん、三ツ矢サイダーとメロンソーダ、どっちがいい?」
「すみません。どちらでもいいですよ!開けちゃった方で。」
四人でホットプレートを囲みながら、教習所の話題になる。
「いよいよ、仮免です。学科の模試は満点なんだけど…。」
セイラが弱音を吐く。
「意外と順調に来てるじゃない。頑張ってるわね。」
「大丈夫よ、貴女、三輪車も自転車も乗ってたんだから。」
「…ふたりのほうが、カウンセラーみたい(笑)。」
午後一番の予約は、十三時。常連の久保田だ。
「聞いてよ先生。」
「ええ、どうぞ。」
「うちの引きこもってた息子ね、寮に入ったのよ。一年前じゃ考えられないわ。」
嬉しそうでもあり、少し寂しそうでもある。
「毎日うるさいと思ってたのに、いなくなると静かなもんね。」
長谷部と中山は笑った。
セイラも笑いながら、久保田の表情を見つめる。喜びと寂しさが同じ顔の中にある。それは「手放した」人の表情なのかもしれない。
親子だからといって、いつも隣にいることだけが愛情ではない。少し離れることは、この親子にとって必要だったのかもしれない。
予約は一枠が四十五分。十五分のインターバルを取っている。相談室にも、人にも心を入れ替え、切り替える時間が必要だ。
十四時。次の予約は工藤だった。約半年ぶりだろうか。
「お久しぶりです。」
以前より表情が明るい。
「今日は、カウンセリングというより、お礼を言いたくて。」
工藤はゆっくり話し始めた。
「彼女と、来月で三年になります。」
「あら、おめでとう。」
「おめでとうございます。」
「おめでとう!」
長谷部に続き、セイラと中山も祝福する。
「養子縁組をしようと思っています。」
三人が静かに頷く。
「それを機に、家族にも話そうと思って。」
少し照れながら笑う。
「あの日、この相談室に来て、本当によかったです。」
セイラは首を横に振った。
「お話を聞いただけですよ。」
中山が優しく言う。
「あなたが、自分を大切にすることを選んだからよ。」
長谷部も続ける。
「貴女、今はもうオーラがぜんぜん、濁ってない。映画の続きは、貴女が書くのよ。」
工藤は、曇りのないカラッとした表情で、笑った。もう、初めて会った日のような、どこか諦めた笑顔ではなかった。
その日の最後の予約は、十七時だった。三十代前半の男性が相談室を訪れた。さっきまでの久保田や工藤の明るい話題とは打って変わって、彼の表情は暗く、顔色も冴えない。
「仕事が続かないんです。最近何をしても楽しくなくて…イライラもします。」
セイラは静かに耳を傾ける。
「ずっと生きづらかったんです。仕事も続かないし、片付けも苦手で、約束も忘れてしまう。自分は、ダメ人間なんだと思っていました。」
「それは、いつ頃からですか?」
「忘れ物とかは小さい頃からでしたが、就職してから、特にですね。」
長谷部は男性を見つめる。
オーラには、やはり霧がかかっている。
けれど、怒りや悲しみではない。何かが欠けているような、そんな色だった。
中山は眼鏡を掛ける。
「ユーモア、社会的知性…。」
強い光を放つはずの強みが、眠ったままだった。
中山が微笑む。
「ねえ、やってみたいこと、我慢してない?」
男性は驚いたように目を見開く。
「え…バンドをやってました。音楽がすごく好きで。大学の頃ですね。ベースに集中すると、思考が止まるから。でも就職して、やめました。」
セイラがゆっくり頷く。
「また、ベース、始めてみませんか。」
男性は戸惑った顔をする。
「それと…注意欠如・多動症、ADHDという言葉は聞いたことがありますか?」
男性は首を振る。セイラはA4のプリントを渡す。そこには「注意欠如・多動症の特徴と、生活に取り入れられる工夫」がまとめられていた。
「生まれつきの脳の特性です。努力不足や怠けではありません。プリントご覧いただいて、もし気になるようでしたら、一度、専門の機関でご相談してみてもいいかもしれません。」
長谷部が言う。
「映画の『スクール・オブ・ロック』って知ってる?主人公はね、自分らしい表現を思い出しただけなの。障害っていうけどさ。やり方が違うだけなのよ。」
中山も続ける。
「高尾山もいろんなコースがあるでしょ。頂上に着く方法は、一つじゃないからね。この間なんて、主人と行ったときハイヒールの女の人がいてビックリしたわよ。」
男性は少し考えたあと、小さく笑った。
「バンド、またやってみようかな。ベース、また弾いてみようと思います。病院にも行ってみます。ありがとうございます。」
その笑顔は、相談室へ入ってきたときとは別人のようだった。
夕方。
「今日は、いい日だったね。」
中山がこたつにもぐり込む。
長谷部は湯のみを持ち上げる。
「エンドロールが流れる時間よ。」
「今日は予約、多かったわね。」
「そうだったかしら。」
二人が笑う。
セイラは何も言わず、こたつの上に置かれたカールへ手を伸ばす。カールはすこし、湿気ていた。
「ネタなのはわかるけど、次からは個包装のお菓子でお願いします。お茶請け担当の方。」
「お茶請け担当だって、長谷部さん。」
長谷部がすかさず返す。
「好きなお菓子が選べるから、いい仕事だわ。」
セイラはスマホを見て、ニコニコしている。すっかりオフの顔だ。
「あら、ニヤニヤしちゃって。林くんでしょ。」
「あ、うん。今日はごはん行く約束してるの。」
「泊まってきても構わないのよ。」
長谷部が、続けて言う。
「こたつも、カールも、恋人もね。なくても、暮らしてはいけるのよ。でも、あると人生が少しだけ豊かになる。」
セイラは林から届いたメッセージを見て、小さく笑った。
――ひとりでも幸せ。
でも、誰かがいてくれたら、もっと幸せ。
中山は身を乗り出している。
「ねえねえ、結婚式はするでしょ?わたし、ゼクシィって雑誌が好きなのよ。お嫁さんってきれいよねえ。娘が持ってたの見て、こんなにきれいな雑誌があるんだと思って感動して、娘に買ってあげるフリをしてコンビニで買ったのよ。」
「中山さん、ゼクシィは誰でも買えますよ。」
「えっ、そうなの?婚約中じゃないと買えないと思ってた。」
三人は顔を見合わせて笑った。冬の相談室に、その笑い声はいつまでも響いていた。
※作中で長谷部が「障害っていうけどさ。やり方が違うだけなのよ」と語る場面があります。
従来は「発達障害」と呼ばれていましたが、「神経発達症」という用語も使われるようになってきました。
「障害」から「症」へ。「欠陥」「治らない」という強いイメージから、「花粉症」や「あがり症」のように、状態や特性を表すものに変わってきています。
長谷部の言葉は、その移行期の感覚を映しており、「やり方が違うだけ」というその視点は、これからも大切なものだと思います。




