第1話 出られない
その日、私はスマホで死にかけた。
正確に言うと、死にかけたのかどうかもよくわからない。わからないまま、事態はなんとなく終わった。ホラーってこういうものだっけ。たぶん違う。
夜の11時。
桜庭ユキは、明日の古典の予習をやる気がゼロのまま布団に潜り込み、スマホをいじっていると、SNSで知らないアカウントから一件DMが来た。
アイコンなし。名前なし。本文もなし。
動画リンクがひとつ貼ってあるだけ。サムネイルには古い石造りの井戸が映っている。画質が異常に粗い。
「……なんだろ、これ」
タップしてみると、画面が暗転した。
やがて画面の中央に、さっきのサムネと同じ古そうな井戸が映し出された。苔むしている。
画質はやっぱり粗くて、全体的に青黒く、音声はない。
そのとき、井戸の縁に、白い手がかかった。
細くて長い指。爪が見える。
ゆっくりと、もう片方の手も縁を掴む。そこから黒い髪が溢れ出した。長い。異様に長い。顔を覆い隠して、濡れた毛先が井戸の石に張りついている。
白いワンピースの女が、井戸から這い上がってきた。
動画の中の女が、こちらに向かって歩き始める。
一歩。また一歩。近づいてくるたびに画質のノイズが濃くなる。音声のないはずの動画から、ぴちゃ、と水の滴る音が聞こえた気がした。スマホを持つ手が汗ばむ。
顔が画面いっぱいに迫る。髪の隙間から覗く瞳が、黒目だけでこちらを見ている。
画面が、膨らんだ。
そうとしか言えない。液晶の表面が内側から押し出されるように歪んで——白い指先が、画面の境界を突き破って出てきた。
悲鳴を上げた。自分の声だとわかったのは投げた後だった。
スマホが画面を上にして、布団の上に落ちる。
そこから腕が一本、生えていた。
天井に向かって伸びた白い腕が、ゆっくりと空を掴む。何かを探すように指が開いて、閉じて、また開く。
それから腕の向きが変わって、指先がこっちを向いた。
ベッドの端まで後ずさったが、背中が壁にぶつかる。布団の上のスマホから生えた白い腕が、こちらに向かっている。
が
届かない。
腕の長さには限界がある。肩から先をいくら伸ばしても、肩そのものが画面を通らない。6.1インチの画面に、人間の肩幅は物理的に入らないのだ。
腕がぐっと力を込める。スマホがブルブル震える。布団の上で小さな四角い機械が痙攣している。画面の縁を片腕で押し広げようとしているのがわかる。
無理だと思う。物理的に。
それでも腕は諦めなかった。角度を変えて、肩をねじって、なんとか押し込もうとしている。スマホが布団の上をずりずり動く。腕の動きに合わせて、震えて、跳ねて、また震える。
一分。
三分。
五分。
だんだん、力が弱くなっていった。
最初の必死さが嘘みたいに、腕から力が抜けていく。指が開いたまま止まる。手首がゆっくり傾いて、腕全体がだらんと画面の縁にもたれかかった。
諦めたらしい。
布団の上のスマホから白い腕が一本だらんと生えている、という光景が、私の部屋に出現した。
しばらく壁に背中をつけたまま、それを見ていた。腕は動かない。
怖い。
怖い、けど。
出てこられないなら、別に怖くない……のか?
そのうち腕はゆっくりと画面の中に引っ込んでいった。
その夜は眠れなかった。
◇◇
翌朝。恐る恐るスマホを手に取る。画面は普通のロック画面。何事もなかったかのように時刻が表示されている。
ロックを解除した瞬間、気づいた。
ホーム画面の隅に、何かいる。
小さな黒い影。画面の右下の角で、長い髪の女が膝を抱えて座っている。白いワンピース。昨日のあれだ。
指でスワイプしてホーム画面を切り替えた。
二ページ目にも、いる。同じ場所、アイコンの隙間。
三ページ目。いる。どのページに移動しても、隅っこで膝を抱えている。
アプリを開いてみた。LINEのトーク画面の端に、いる。
カメラを起動すると、画面の下の方にいる。
ブラウザを開いても、検索バーの横にいる。
どこにでもいる。でも何もしてこない。
スマホを机に置いて、しばらく考えた。
LINEを開きたい。SNSも見たい。明日の時間割も確認したい。
でもスマホの中に「いる」。
三十分、悩んだ。
結局、使い始めた。だってスマホが使えないと生活できない。
LINEを開き、メッセージを読み、返信を打つ。画面の端に黒い影がいるが、特に何もしてこない。
SNSを開き、タイムラインをスクロールする。影はまだいるが、結局何もしない。
「……なにもしないの?」
声に出してしまった。
画面の隅で、長い髪がかすかに揺れた。
顔がほんの少しだけこちらを向いて……すぐにまた膝に埋めた。
出られないとわかって、やる気を失っている。
怖いような、拍子抜けなような、ちょっとだけ気の毒なような、よくわからない気持ちで、私はスマホの画面を閉じた。
画面が暗くなる直前、隅っこの影がこちらを見た気がした。
前回、方向音痴のメリーさんが評判良かったので、もう一つあたためていたネタを書いてみました。




