小話11 北の皇子と吃逆
※アーリアがライザタニアから帰国し、エステルに謝罪行脚へ訪れた時の話になります。
皇太子ユークリウス殿下の一日はそう暇ではない。次期帝国の皇帝としてその背にかかる責任も多いく、成人し政界入りして以来、国政よりも精霊への祈りに一日の大半を使う皇帝に代わり、皇太子として精力的に政治介入している。近々では、長年停戦状態であった隣国システィナとの調停に取り掛かっていた。
そうして忙しい日々を送る皇太子殿下だが、本日、隣国システィナよりの客人を迎えていた。その客人とは、システィナ王室の一員にして皇太子殿下の婚約者アリア姫であった。
「ーーは? 吃逆?」
ユークリウス殿下は婚約者の姫が入室してのを見るなり、読んでいた書類から目を離し、サイドテーブルに置いた。そして素早く立ち上がるなり大股で駆け寄り、転びかけたアリア姫の肩と手に持っていたトレイを支えた。アリア姫はユークリウス殿下の視線を受けて笑みを浮かべた所で突然、ひっくと吃逆をしたのだ。
「今朝から、ひっく、止まらなくて……」
ユークリウス殿下は茶器の乗ったトレイ片手に婚約者をソファまでエスコートすると、その間にもアリア姫の肩が吃逆によって何度も上下した。
アリア姫をソファへ座らせたユークリウス殿下は、トレイから二人分の茶器を机の上に並べる。本来ならこのような雑事は宮女の仕事なのだが、アリア姫自身が土産に持って来た茶葉で茶を煎れたいと申し出た。
結局のところ皇太子殿下の手を煩わせてしまった事に、アリア姫は申し訳ない気分になったが、当の皇太子殿下は然程も気にしてはいなかった。
「ーー……それで、魔術が暴発したと……?」
「は、ひっく、はい……」
「被害はカイトの髭か……ハハッ、アヤツめ。髭など似合わぬと言った俺の言葉を無碍にするからだ」
アリア姫の来訪に浮き足立ったのは何も皇太子殿下だけではない。皇太子殿下の懐刀である近衛第八騎士団の者たちは皆、アリア姫のファンなのだ。
特に魔法は勿論、魔術をも扱えるアリア姫に首ったけな騎士カイトは、姫が来訪するなり自分との対人戦を願い出た。しかし、姫にも外交的な仕事がある為に何日も持ち越され、ついに本日の午後対戦と相成ったのだ。
漸くアリア姫との対戦となった騎士カイトであったが、対戦初手、姫が魔術を構成していた時、突然、胸を突き上げる吃逆によって詠唱が妨害され、魔術が暴発した。その被害となったのが、伸ばし始めていた騎士カイトの髭であったという訳だ。
「フューネも、ひっく、止めようと、ひっく、してくれたんですが……」
フィーネというのは皇太子殿下付きの侍女だ。幼い頃より皇太子殿下の側にあり、日常に於いて、皇太子殿下の安全を守っている。フィーネは皇太子殿下の婚約者アリア姫の侍女でもあり、アリア姫が来訪した際には姫の身の回りの世話をも担当していた。
因みにフィーネは忠誠を誓う皇太子殿下の心情を慮って、婚約者と二人っきりの逢瀬を楽しんでもらう為だけに、自身は控えの間にて待機していた。
『吃逆によって魔術の暴発』などという事態に驚いたアリア姫は鍛錬場より帰ってくるなり、侍女フィーネに吃逆の止め方を聞き、その方法を幾つか試した。息を止めて水を飲む、驚かされる等々……様々な方法を試した結果、今現在、未だ吃逆は止まっていない。
「ハハハそれは面白い!因みにどうやって驚かされたんだ?」
普段より顔色を変える事のない侍女フィーネが、『吃逆を止める』という命題にどのように取り組んだのだろうかと考えたユークリウス殿下の口元には、自然と笑みが浮かぶ。
「帝宮の七不思議を、ひっく、聞きました」
「それは……驚かせ方が違うではないか?」
眉を僅かに寄せるユークリウス殿下。アリア姫の返答はユークリウス殿下の考えた類のモノではなかった。
「ひっく、えっと、『開かずの講堂』の話とか、『帝室の闇姫』の話とか……」
「定番だな」
「それに、ひっく、『帝王陛下の秘密の部屋』の話も」
「ほう、秘密の部屋か……きっとロクデモナイモノが隠されてあるのだろうな」
「『天空回廊の桜の木』の話には、ひっく、とてもドキドキしました!」
「それはワクワクではないか?」
頬を高潮させてワクワク・ドキドキ・ソワソワといった雰囲気で話す婚約者の姿に、ユークリウス殿下は柔らかな笑みを浮かべた。
先ほどまで泣きべそをかきそうになっていたアリア姫が『七不思議』の話を始めた途端興奮し始めたのだ。嬉しそうに侍女に聞いた話を語る婚約者の姿に、どこかホッと安心した皇太子は緩やかに脚を組むと、とっくりと婚約者の話に耳を傾けた。
「吃逆なんて、ひっく、生まれて初めてで……」
「なに!? 初めてだと……?」
「はい。ひっく、だから何だかドキドキしています」
「吃逆なんぞで楽しんでいるのは何ぞやとは思っていたが、成る程、それでか……!」
桃のように紅潮する頬。帝国陶器のように白い肌。肩から胸へと流れる金の髪が本来は純白だと知る皇太子殿下は、アリア姫の虹色の瞳を見つめるとハハハと笑った。皇太子殿下の麗しの微笑に顔を赤らめ、つられた様に笑うアリア姫は胸の下をぐっと押さえた。
「この辺りがピクピクしていて、ひっく、何だか擽ったい感じがします」
「横隔膜だな。ソコが痙攣しているんだ」
「痙攣?身体の内部が?不思議ですね」
胸の奥がピクリ、ピクリと引き攣る感覚が不思議でならず、アリア姫はハァと感嘆の溜息を吐いた。
「吃逆などもう随分出てはおらぬな」
「そう、ひっく、なんですか?」
「ああ」
ユークリウス殿下は長い脚を組み直すとアリア姫へと手を伸ばし、姫の美しい髪を一束その手に掬い取った。そして、手中でクルリクルリと回すと「そう言えば」と昔の思い出を語り始めた。
「幼いエヴィウスのしゃっくりを止めてやった事があるな」
エヴィウスとはユークリウス殿下の弟ーー帝国の第二皇子エヴィウス殿下だ。歳の近い兄弟であるが、ユークリウス殿下とは性格に差があった。
常々、自国の未来を如何に導くかと思案している長兄とは違い、次男の頭の中にあるのは如何に精霊たちと戯れるかという事のみ。
国政に然程関心がなく、長兄が帝位を得る事に否もなく、降りかかる面倒事もノラリクラリと躱して、真意を悟らせない笑みを浮かべるエヴィウス殿下。
そんな第二皇子の幼い頃など想像つかずにいたアリア姫にとって、ユークリウス殿下の話す昔話には興味が惹かれるものがあった。
「エヴィウスの目の前で手を鳴らしてやったんだ。ほら、こういう風に……すると、エヴィウスは豆鉄砲を食った鳩のように驚いてな。あまりに驚き過ぎて泣いてしまった」
「エヴィウス殿下にも、ひっく、そんなに可愛らしい頃が、ひっく、あったんですね?」
「今じゃ想像できないだろう?」
「ええ!」
想像した以上に可愛らしい第二皇子の姿に、アリア姫は良い笑顔で頷いた。方やユークリウス殿下は、皇太子の婚約者役を専念している時の澄ました笑みも捨てがたいが、やはり、花の様に綻ぶ笑みの方がずっと良いと頷く。
自身の側にある時のリラックスした様子に、アリア姫から十二分に信頼されているのだと自覚できて、婚約者としての矜持が満足できる思いであった。
「アーリア」
「はい?」
自身の膝に肩肘をついたユークリウス殿下は、婚約者の本来の名を呼んだ。すると、アリア姫改め、システィナの白き魔女アーリアは皇太子殿下の方へ首を傾げた。
「どれ、俺がその吃逆を止めてやろうか?」
「えっ、止められるんですか?」
「ああ」
「吃逆を止めるって、ひっく、あの、どうやって……?」
これまで何をしても止まらなかった吃逆。それをユークリウス殿下が止めてみせると言うのだ。
アーリアは自身の婚約者殿下の麗しいーーそして、自信満々の顔をトックリと眺めた。皇太子殿下の顔には相変わらず余裕綽々たる微笑が浮かべられている。
「なぁに、簡単なことだ。ーーそら、此処へお座り」
「アッ……キャッ!?」
ユークリウス殿下は重ねていたアーリアの手掴むと、自分の方へとやや強引に引き寄せた。そして、フワリと浮いたアーリアの身体を空中で半回転させると、そっと己の膝上へと下ろした。
「でで殿下……!?」
「“ユリウス”だろう?アーリア」
「ーー! ゆ、ユリウス……殿下……」
膝の上に横抱きにされたアーリアは、吐息が聞こえるほど近くにユークリウス殿下の顔がある事に驚き、胸を高鳴らせた。
美しく整った顔が頬や額に触れそうに近い。アメジストの瞳がじっと自分の瞳を見つめてくる。まるで愛おしい女性を見つめるように。
「お前は羽のように軽いな。システィナではしっかり食事を摂っているのか?」
ユークリウス殿下は愛おしそうにアーリアの頬に手を添えると、アーリアに聞こえるだけの声音で囁いた。
「ひっく!あ、あのっ……食べてます、よ?」
「それにこの肌。この茶器よりも白いではないか?」
「ずっと部屋の中に、ひっく、いるから……」
「この髪も、以前より艶がなくなってはいないか?」
「き、気のせいですよ」
大きな手がアーリアの頬を優しく撫でていく。長く美しい五本の指。ペンしか握っていないように思えて、その実、掌には硬い剣ダコがある。力強い男の手だ。
アーリアはユークリウス殿下の手に男を感じ取ると、知らずひっくと息を飲んでいた。自分でもわかるほど体温が上がっていく。
「アーリア、ほら、私の目を見ろ」
「ユリウス……」
ユークリウス殿下はアーリアのモチ肌を堪能した後、頬を掴んでゆっくり上向かせた。耳の先までスモモのような紅くさせた小さな顔が自分の方に向けられ、オパールのような瞳と目線が合った時、殿下はふわりと微笑んだ。
「やっと目が合った。嗚呼、この精霊の瞳の輝きは、以前と変わりがないな」
「ユリウス……、ち、近すぎますっ!」
拳一個分ほどの距離に相手の鼻先がある。
アーリアは狼狽し、ユークリウス殿下は泰然としている。
「そう照れずともよい。お前は俺の婚約者なのだろう?」
「そーー! それは、ひっく、設定上の話で……」
「俺はそうは思っていないがな?」
「ひっく……!」
「お前の席は何時迄も開けておくと言ってあっただろう?まさかアーリア、お前は俺が虚偽を言ったのだと思っていたのか?」
「ウソだとは、ひっく、思って、いないけど……」
真実とも思っていない。
そう続くであろうアーリアの言葉に、ユークリウス殿下はムッと口を尖らせた。
「ならば、そろそろ俺の気持ちを汲み取って貰おうか?愛しの婚約者殿」
言うや否や、ユークリウス殿下はアーリアの頬を両手で挟み、額にそっと口づけを落とした。そして、顳顬、頬、耳、鼻の頭……と、啄むような口づけを落とし、終いには唇の端が当たるか当たらないかのギリギリの位置に唇をそっと置いた。
「っーーーー」
笑窪の上に置かれた唇がゆっくりと離れていく。すると、開けた視界にアーリアの顔全体が写った。
アーリアは真っ赤に熟れた林檎のように様に頬を染め、溢れんばかりに瞳を真ん丸く開けていた。まるでオパールのように輝く瞳が、混乱と羞恥で揺れ動いている。
「ほら、止まった」
「え……?」
「ハハハ!私の婚約者は本当に可愛いな」
あれほど止まらなかった吃逆が止まっている。
代わりに、ピクピクと痙攣していた横隔膜が治まりを見せ、代わりにドキドキと心臓が激しく動いていた。
「アーリア。システィナが嫌になったら、いつでもエステルへ参るがよい。なぁに心配するな。その時は五月蝿い奴等は俺が黙らせてやろう。帝国は喜んでお前を受け入れようぞ。勿論、その時には皇太子妃の称号を貰ってもらうがな?」
ユークリウス殿下により「何なら今日からでも帝国に移り住むか?」と問われたアーリアは、ブンブンと首を振った。脳が混乱していて、反論しようにも口が巧く動かなかった。
すると、アーリアのその状況を見計らったように助け舟が現れた。コンコンコンとノックが齎された後、二人の騎士が婚約者同士の語らいの場に我が物顔で入室してきたのだ。
「あ。ユークリウス殿下、またアーリアに何かしでかしたんですか!?」
「殿下、お戯れはホドホドになさってください。アーリア様はまだ殿下の妃ではないのですよ?」
表情は変えぬまま、五月蝿い男どもだとユークリウス殿下は内心舌打ちした。
『アーリアは皇太子の婚約者だというのに、何かとアーリアの周囲をうろちょろと!少しは婚約者である者同士に気を遣ってくれても良いものを』と愚痴を零しまくる殿下だが、千年の歴史を誇る帝国皇太子の面の皮は厚い。ハハハと適当に笑うと、いつも通りのニヒルな笑みを浮かべたのみであった。
「アーリアは私の婚約者。婚約者同士が親交を深め合うのは、オカシナコトではなかろう?」
ユークリウス殿下は婚約者の白魚のような手を取り、手の甲に唇を落とす。すると、騎士の一人は露骨に嫌そうな表情を浮かべ、もう一人は難しい表情を浮かべてズレてもいない眼鏡を鼻上に押し上げた。
するとその時、バタバタと賑やかな足音が響き、バタンと乱暴に扉が開かれた。
現れたのは二人の少年と一人の青年。ユークリウス殿下の愛しい弟たちであった。とても帝室の一員とは思えぬ所作に兄殿下が注意をしようかと思案したのも束の間、弟殿下たちは兄殿下を無視して口々に話し始めてしまった。
「吃逆、もう止まってしまったのですか?」
「俺たちが止めてやろうと思ったのに!」
「ふふふ。兄上は本当に手がお早いのだから」
第四皇子ラティール殿下、第三皇子キリュース殿下、第二皇子エヴィウス殿下の三人は迷わず皇太子ユークリウス殿下の下へと集うと、兄殿下の膝に抱かれ顔を林檎の様に真っ赤に染めたアーリアを見下ろしてくる。
その表情は三人三様。だが、三人の皇子それぞれが兄殿下の婚約者アーリアを大切に想っている事だけは確かでーー……
「全く! 我が婚約者はどれだけの男を虜にすれば気が済むのだ?」
吃逆一つでこれ程の者たちが気にかけてくる。それだけシスティナの白き魔女が帝国に於いて認められ、愛されている証拠である。
そして、その事を充分知る皇太子殿下としては、自身の婚約者が兄弟にも認められた事に安堵すると共に不安にも苛まれるのだ。
「アーリアは私の婚約者だというのに!」
とーー!
ご愛読をありがとうございます!
ブックマーク登録、感想、評価など、ありがとうございます。とても励みになります。
小話『北の皇子と吃逆』をお送りしました。
本編はただいま鋭意執筆中です。
もう暫く、更新をお待ちください。