ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/十五
以前と同じでマサヤはユウリを体育館裏まで連れてきた。教室から体育館裏まで二人は無言だった。マサヤが前を歩き、ユウリは彼の背中を睨みながら歩いていた。松葉杖のユウリを気遣ってか、マサヤは時折立ち止まって振り向いて歩く速さを調節していた。そういう気遣いすらユウリには鬱陶しく思えた。父親の次に大嫌いな男をユウリはマサヤと決めた。
青く冴えていた空は徐々にオレンジ色に染まり体育館の屋根を包んでいた。体育館裏はオレンジから逃げるように暗く一足早く夜を迎えているようだった。部活に汗を流す生徒たちの奇声が聞こえている。シューズの底が体育館の光沢のある床と擦れて起こる熱を持った音も聞こえている。ボールが床で強く弾んだり体と衝突したりして起こる痛々しい音も聞こえている。カラスの群れが人間を嗤うように鳴いている。トラックのけたたましいエンジン音がユウリの背中の方から聞こえ空気がぐらりと揺れた。突如前触れもなく黄昏に響く甲高いクラクション。トラック・ドライバは正門の前の横断歩道の信号を守らない中学生に殺意を抱いているのかもしれない。ピストルとクラクションは実用的であるか、実用的でないかで違うけれどほとんど一緒で武器だと思う。ピストルのトリガを引くのとクラクションを叩くときの動機はほとんど一緒で殺意だと思う。
体育館裏の湿度と温度の組み合わせは不快指数的に最低最悪で右足はなんだかこわばっていてユウリの顔にはそれによるものか、油汗が浮かんでいた。マサヤの額には汗が玉になって浮かんでいる。それは落ちてコンクリートに丸い染みを作った。
マサヤは体育館を背中に、ユウリはコンクリートの塀を背にして立ち向かい合っていた。
「……ギブス、取れたんだな」マサヤはユウリの右足を見て言う。
「そうよ、もう少しで全部、元通りになるんだ」
「よかった」マサヤは笑顔を見せる。
「あんたがよかったとか、私に言う必要ってないでしょ」
「ごめん」マサヤの笑顔は消える。
「それで大事な話ってなんなの? 告白する気なら先に言っておくわ、あんたのことなんて大っ嫌いだから、私があんたの彼女になる可能性はゼロなんだから」
「違うよ、そうじゃなくて、」マサヤは苦渋に満ちた絶望的な表情で唇を震わせて言う。その反応って、ユウリを彼女に出来る可能性がゼロじゃないと思っていた反応だ。「そうじゃないんだよ、俺はまだ國丸のこと好きだけど、大事な話ってそれじゃないんだ、誤解されたまま告白なんてしねーよ」
「誤解って何の話?」
「俺じゃないんだよ、國丸の机に落書きしたのって俺じゃないんだよ」
「まだ言ってるの?」
「そりゃ、だって、俺じゃないんだから、まだ言うよ、言わせてくれよ、そもそも俺が國丸の机に落書きする理由なんてなんにもないんだから」
「理由ならあるでしょ、私があんたのことを振ったから、その腹いせに落書きしたんでしょ、犯人はあんたで確定でしょ、違うの!? 違ってないでしょうに!」
「違うんだよ、間違ってるの、俺ってそんな女々しい男に見える?」
「見える、よく見える、」ユウリはまっすぐにマサヤのことを睨み付けて言う。「女々しい男にしか見えねぇし!」
「あ、そうですか、見えるんだ、あはは、はぁ、」マサヤは大きく溜息を吐いた。「……でも、でもさ、俺、結構クラスの女子たちに男らしいとか、よく言われるんだぜ」
「莫迦な女たちのお世辞を真に受けてんじゃねーよ、莫迦じゃねーの? そういうところが女々しいんだよ、莫迦野郎」
「うぐっ、」マサヤは胸を手で押さえて一歩後ろに後退した。そんなオーバなジェスチャもムカつく。そして観念したように額を押さえ、浮かんだ汗を手の平で拭って言った。「……ち、畜生め、ハッキリ言いやがって」
「ふふんっ、」ユウリは鼻で笑う。「勘違いクソ野郎にはハッキリ言ってあげなくっちゃね、どうせあんたの周りには莫迦な女しかいないんだから、賢い女が何か言ってあげなくっちゃね、むしろ感謝して欲しいわ、自分の愚かさ加減に気付くきっかけを与えてやったんだから、慈悲深い女でしょ、私って」
「……くそう、」マサヤは絞り出すように声を出し、そしてじっとユウリのことをしばらく黙って見つめていた。「…………はぁ」
ユウリはなぜか背筋がゾクッと震えた。今度はユウリが一歩後退する番だった。「……な、何よっ、何だよっ、言いたいことがあるなら言いなって!」
「俺、國丸のそういうところが好きなんだ、屈託がないっていうか、自然体っていうか、飾らないで生きているっていうか、全身全霊で生きているっていうか、とにかくそういうところが好きなんです、はい」
「勝手に褒めてんじゃねーよっ、」ユウリは急に褒められて調子を崩された。でも口を尖らせてヒステリックな表情を維持した。「っていうか、あんた、それ褒めてんの?」
「褒めてるよ」
「っていうか、大事な話ってそれなわけ? 私を褒めるためだけに体育館裏に連れて来たの?」
「いや、違うよ、そうじゃなくて誤解を解いて欲しくて」
「だから誤解なんてないって言ってんじゃん」
「俺、嫌なんだよ、國丸と付き合えなくても、國丸に嫌われたままでいるのは嫌なんだよ、だから信じて欲しいんだよ、俺が落書きしたんじゃないってこと、分かって欲しいんだよ」
「分かったわ」
「え、ホント?」マサヤは一瞬、間抜けな顔をした。
「大事な話がそれならこの放課後の時間は無駄だったってことが分かったわ」
「え?」
「誰が物分かりよく、あ、そうでしたか、誤解だったんですね、ごめんなさい、なんて納得するか、莫迦野郎っ!」ユウリは一気にまくし立てて、がなる。「あんた以外に誰が私の机にレズ野郎なんて書くんだよ、くそったれ!」
体育館裏にユウリの声が稲妻みたいに轟いた。
マサヤはユウリの声に驚きビクッと電気に痺れたみたいに体を震わせ上半身を大きく仰け反らせて背中を体育館に強くぶつけていた。胡乱な目でこっちを見て手の平は体育館の壁に張り付いていた。完全にビビッている。ユウリは勝利を確信した。
「それじゃあ、ばいばい、さようなら、」ユウリはにっと笑い吐き捨てるように言った。「もう私に話しかけるんじゃないよ、どんなときもずっとね」
そしてユウリはマサヤの前から立ち去ろうと体の向きを変えた。
一歩踏み出した。
そのときだった。
「これは言わないつもりだったんだけど、俺は國丸の机にレズ野郎って書いた犯人を知ってるんだ、」もう話しかけるなって言ったばかりなのにマサヤは、声を出してユウリに話しかけた。「これは言わないつもりだったんだけど、國丸が信じてくれたら言わないつもりだった、でも、信じてくれないから、俺は言うんだぜ、國丸、お前のせいなんだからな」
「誰か言ってみなさいよ」ユウリは足を止め振り返らずに正面を見たまま言う。
「俺のことを信じてくれたら犯人の名前は言わないよ、まだ間に合うよ」
「は? ちょっと何を言おうとしているのか意味分かんないんだけど、犯人が誰か知っているならさっさと言いなさいよ」
「いいの?」
「だから早く言えって」
「新島だよ」
瞬間。
ユウリは松葉杖を捨てマサヤの方に振り返った。
マサヤは笑っていた。
薄ら笑っていた。
もう後は死ぬだけだと分かり自暴自棄になってこの世のあらゆる人間よりも自分の方が高尚だと錯誤しているろくでなしの顔だった。
感情が灼熱に迸り立ち昇る。
ユウリはぎこちない足取りでマサヤに近付き拳を強く握り締め躊躇いなく頬を殴った。
殴った拳はマサヤの頬骨に衝突して痛かった。
心臓が早く動いている。体が熱い。頭も。そして髪の毛が燃えているように熱いと思った。
「……うわぁ、ちょーいてぇ」
ユウリの本気の拳を喰らい、体育館を背中に、膝から崩れ落ち、頬に手をやり、マサヤは涙目で、しかしどこか悦楽の表情を浮かべてユウリのことを見上げ、そしてククッと笑い声を漏らした。「嘘だと思うだろ? でも本当のことなんだぜ」
ユウリは地面に横になっていた松葉杖を拾い上げ両手で持って竹刀でそうするように振りかぶった。




