ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/十三
十月に入り、気付けば一週間ほどが過ぎていた。
ユウリの右足を包んでいたギブスはなくなっていた。医師はギブスを外したユウリの右足を見てレントゲンを撮り白く煌めく骨を見て順調に回復していると評価してくれた。ユウリはギブスの外れた自分の右足を見て、少し歪んでいると思った。全体が張れたように浮腫んでいて、銀色のボルトが入っているという右足の足首に近い箇所の形は自然でなく尖っているように見えた。何か得体の知れない生物が肌を突き破って出て来るのではないか、という莫迦な疑問をユウリに抱かせた。自宅のリビングでユウリはコナツに右足の気になる尖った部分を見せた。コナツは「え、別に、何も変じゃないよ、普通だよ」と簡単に言った。「ギブスを取ったばかりだから気になるんだって」
「そうかな」
他人から見れば気にならない程度のものなのだろうが、ユウリはこの尖った部分が気になってしょうがなかった。ユウリはお風呂に入り、何度もその部分をマッサージした。骨折する前の綺麗な右足に戻って欲しかった。自分の右足はこれしかないんだから。
とにかくユウリのギブスは外れた。どこか体が軽くなったような気がしたのは確かだった。だけれどでも、さらに一週間程度は松葉杖を使いながら右足のリハビリをする必要があると医師は言った。ユウリの右足はギブスを外してすぐに滑らかに動かなかった。真新しいスニーカーのように右足はユウリの体に馴染んではいなかった。
「とにかくおめでとう」
ギブスが外れた日の次の日の土曜日の夕方、ユキコはお祝いに、とケーキを買ってきてくれた。コナツもちょうどユウリの家にいて一緒に受験勉強をしていた。勉強を中断して、三人でケーキを囲んだ。正方形のチョコレートケーキで、星形のビターチョコレートが入道雲のように立体的に膨らんだクリームの上に散りばめられていた。勉強で脳ミソに栄養が足りなくなっていたのでユウリとコナツは黙々とケーキを口に運んだ。ユキコは珈琲を飲みながらそんな二人に微笑みを見ながら優しく微笑んでいた。
「そう言えば、今日はあの娘はいないの?」
珈琲カップで口元を隠しながらユキコは突然言った。「名前なんて言ったっけ?」
「アオちゃんのこと?」ユウリはフォークを咥えた口元で答えた。心の揺れをユキコとコナツに悟られないように細心の注意を払う。
「そうそう、アオちゃん、最近見ないけど」
アオはあの日から、おそらくユウリに内緒で盗んだユウリの家の合鍵を今はケーキが乗っているテーブルの上に置いてから最後、ここに来ていなかった。ここに来てもいないしユウリとはどこかで会ってもいないしメールもしていなかった。明確なコミュニケーションはあの日以来二人の間に発生していない。ユウリとアオの人間関係は続いてもいないし終わってもいない微妙なもので、言うなれば中断、というのが適切だろうか。ユウリは笑顔を無理に作り惚けた風に返答する。「そう言えば、最近会ってなかったな、連絡もないから、アオちゃんも勉強で忙しいんじゃないかなぁ」
「ふうん、そうなの」
「うん、そうなの」
一度中断してしまった関係ゆえ、ユウリはアオのことをなるべく考えないようにしていた。しかしなかなかそれは難しく、お風呂に入っているときとか、トイレのときとか、授業中とか、意図せずアオのことを思い出してしまう。そのたびにユウリは不毛な思考を繰り返してしまう。アオへの疑心の正体とはなんだったのか? それは完全なユウリの思い違いだったのだろうか? 錯誤だったのか? アオはユウリの疑心を否定したけれどそれは本当だったのか? 本当ならばなぜアオはユウリに接触して来ないのか? ユウリはアオをあの場面で問い詰めるべきではなかったのだろうか? 問い詰めてしまったことで関係は中断してしまったのか? 恋人を失ってしまった、という後悔の念はユウリの中に確かにある。けれどそれは小さなもので、大きなものはアオへの疑心、何か企む目はまるで魔女とユウリに思わせたのだ、それを解消しなければアオと恋人同士ではいられないというヒステリックな感情だった。ユウリはアオに強く反発しているんだ。
疑いを抱かせた。
それが嘘か真か、それ自体の正体すらも別にして。
罪だと思う。
アオはユウリの初めての恋人なんだから。
「そう言えばアオちゃん、塾も辞めちゃったんだよ、急に、」何も知らない無垢な顔でチョコレートの星を噛み砕きながらコナツが言う。「まあ、でもアオちゃんの成績なら塾に来る必要なんてないと思うんだけど、何か言って欲しかったな、友達だと思ってたのに何も言ってくれなかったんだもん、ちょっと悲しかったな、あ、ユキコさん、このチョコレートすっごくおいしい」
「そう、よかったわ、気に入ってもらえて、でもユウリは寂しくないの?」
「え、寂しい?」
「アオちゃんとは仲良かったんじゃないの?」
「私もアオちゃんとは友達だと思ってたよ、でも向こうは、アオちゃんは私のことをどう思っていたかなんて分からないし、」アオのことなんて分からない。「うん、だから、コナツがいれば別に」
ユウリは熱っぽく、コナツの横顔を見つめた。
ケーキに夢中なコナツはユウリの視線に気付き、目を合わせて微笑んでくれる。
コナツの笑顔が好き。
堪らなく好き。
「何見つめてんだよ、照れるじゃん」
ユウリはテーブルの下でコナツの左手に触れギュッと握り締めた。
コナツはユウリの手を握り返してくれた。
その反応が嬉しい。
アオに対するユウリの反発はストレートに愛を、コナツに向かわせることになった。
なんて単純なの、とユウリは自分の心の短絡さ加減を諌めた。
アオの登場によってコナツへの愛は一時的に冷めてしまった。
けれどアオが離れてしまえば、コナツへの愛は再燃し心を焦がす。
あまりに単純で、恥ずかしいとさえ思う。
でもコナツを愛したいって思うんだもの。
愛していたいんだもの。
コナツの愛が欲しいって思うんだもの。
しょうがないの。
どうしようも出来ない。
この紅蓮の炎には手が付けられないの。
「ギブスが外れたからって、あんまりはしゃがないように、まだリハビリ期間なんだから無理をしてはいけないわよ、乱暴にしちゃいけないわよ」ユキコはそう言い残し帰って行った。
ユウリとコナツは受験勉強を再開する。錦景女子高校の過去の数学の問題を二人で解いていた途中だった。その問題はかなり難解で過去問に回答は載っていたしその解き方も一緒にあったのだけれどすぐに理解することが出来なかった。二人であーでもない、こーでもないって言い合い、なんとか理解するに至ったくらいに時計を見れば錦景市は夜の七時となっていた。「ご飯にしようよ、お腹ペコペコだよぉ」
「あんなにケーキ食べたのにもう?」
「あんなの、あんなにってほどじゃないよ、ユウリは何食べたい?」
「そうだねぇ」
ユウリとコナツは一度家を出て近所のスーパーマーケットに向かった。そこでカレーにしようと決めて食材を揃えた。少しいいお肉を買った。家に戻り二人でカレーを作った。いつもながらコナツの手際の良さに感動して嫁にしたいって思った。ユウリの家にある、一番大きなお鍋一杯にカレーを作った。一晩じゃ絶対に食べきれない量になった。
「やっぱり食べきれないよ、腐らせちゃう」ユウリはカレーを食べて膨らんだお腹を押さえながら言った。腐らせちゃいけないって思っていつもよりも沢山食べたのだ。
「大丈夫だよ、」口元をカレーで汚し顔中に汗を搔いたコナツが言う。「明日も食べに来てあげるから」
「もぉ、そんなに食べてばっかりだと太っちゃうよ、もぉ」
ユウリは口を尖らせながら、すっごく幸せだった。明日も食べに来てあげるから、なんてコナツの特別じゃない台詞が嬉しかった。ユウリは笑顔でコナツをまっすぐに見つめた。
「大丈夫だからね、ユウリ」
コナツは突然、口調を変えて言った。
「え?」
「どんなことがあっても、私はユウリの、その、味方だから、」コナツは烏龍茶で一度口を湿らせ笑顔を見せる。「だから大丈夫、心配しないで」
「なんの話?」
そう惚けてユウリは。
両手で顔を覆った。
手の平が何かで濡れている。
泣いているんだと遅れて分かる。
声が漏れる。
涙の粒も大きくなっていく。
色々あったから。
辛いことが色々あったから。
ユウリには汚れたものが堆積していた。
それが涙と共に流れ出した。
浄化された気分だった。
コナツという、小さな天使に。
「もう、ユウリは泣き虫なんだからぁ」コナツの手がユウリの頭を触って撫でる。
その手は温かくて小さくて、そして優しくて。
やっぱりアオの手とは違うんだとユウリは思った。
「私はずっと、ユウリの味方だからね」




