ファンタシィ・フェイダ・ウェイ/十二
「この合鍵は、ユウリがくれたんだよ」
アオはいつもみたいに冷たく微笑んで、とてもナチュラルに嘘を付いて、ユウリの顔の前で鍵を揺らした。アオは、彼女が常に首から下げているリュドミラ・マケットと一緒にユウリの家の鍵も、ユウリが渡した覚えの一切ない合鍵を、首から下げていた。「ユウリがくれたんだよ、忘れちゃったの?」
「……覚えてない」ユウリは一度唾を飲み込んで首を横に振った。
「酔っていたのかな、」アオの口元は笑う。「あの時のユウリ、お酒の匂いがしていたから」
「そんな夜ってあったかな?」ユウリはアオが淹れた珈琲に口を付ける。煙草に火をつけたい気分だったが、一応アオの前では吸わないって決めていたので、ユウリは煙草に手を伸ばさなかった。「やっぱり覚えてないな」
「その言い方って、」アオは目を細めて斜めにユウリを見つめて来る。「この鍵は返した方がいいってこと?」
「別に持っていて、いいけど」
正直言えば、鍵を返してもらいたかった。思いがけないアオの来訪によって感じた恐怖に似た感情はまだ、ユウリの心を震わせていた。気味が悪い。ユウリはアオに、そういったマイナスの感情を抱いているし警戒している。アオが同じソファに座っていることに、二人の隙間には五センチくらいの距離しかないことに、ユウリは焦っていた。どうしてこれほどまでにユウリがアオのことを警戒し傍にいられることに焦っているのか、その理由は漠然とした疑心という以外にないのだけれど、このどこからともなく疑心は火曜日の夜も膨らみ続けていた。
アオから離れたい。
逃げるべきだ、とユウリの本能は命令を何度も送ってくる。アオの傍にいるのは危険だと本能は察知しているのだ。しかし逃げないのは、ユウリの抱く疑心というのは未だ漠然とした、正体不明の謎、であるし、完全なるユウリの錯誤であるかもしれないからだ。もしも疑心が錯誤だとして、その錯誤によってアオとの関係が崩れてしまうようなことがあれば最悪だ。疑心を抱く今でもユウリの目にアオは、魅力的な少女に映っている。間違いで終わってしまうようなことには絶対にしたくない。
けれど。
ふいに、アオがユウリの前髪に手で触れた瞬間。
「嫌だっ、」ビクッと体が恐怖に震えあがってユウリは咄嗟にアオの手を払ってしまった。はっとなってすぐにユウリは謝った。「あっ、ごめん、ごめんね」
アオは払われた自分の右手を無表情で二秒間見つめてから、ユウリに向けて笑顔を見せた。「いいわよ、急に私が、ユウリに触ろうとしたんだから」
「ごめん、本当に」ユウリはアオが何を考えているのか、全く分からない。
「キスしていいかな?」アオは聞く。
「うん」ユウリは頷き目を閉じ、唇をすぼめた。
アオの唇がユウリの唇に強く触れる。強引にアオの下が唇の隙間に入って来る。舌を絡めた。アオの味がする。キスは気持ちいい。けれど疑心によってユウリはキスに夢中になれない。息が苦しくなって一度、唇を離した。互いに短い呼吸をした後、アオはすぐに唇をくっつけて来た。さらに強くキスされた。ユウリはアオにそのまま押し倒される。
「きゃ」ユウリは小さく悲鳴を上げた。悲鳴は、わざと可愛く作ったものとは違っていた。紛れもなく小さな悲鳴だった。犯されているような気分になったのだ。
アオはユウリがブラウスの上に羽織っている紺色のベストのボタンを一つ一つ乱暴に外していく。その間にアオはユウリの頬、顎、鼻、首筋に何度もキスをして徐々に呼吸を荒げていった。ベストをはだき、アオはユウリの胸を触り乱暴に動かした。
痛い。
アオが怖い。
犯されているって思った。
いいえ、それよりももっと。
アオに殺されてしまうのではないか。
そう思って恐怖は一気に膨れ上がる。
アオの手がユウリのスカートの中に入り、ユウリの柔らかい部分にアオが乱暴に指を入れてきたときにユウリは我慢出来ずに鋭く声を上げてしまった。「痛いっ、痛いよ、アオちゃん!」
「え? あ、ごめん、」アオはすぐに指を抜いて顔を上げた。「ごめん、痛かった?」
「乱暴過ぎるよ」ユウリはアオの肩を強く押し、体を離しソファに座り直した。
「ごめん、ごめんね、ユウリ、」アオもソファに座りユウリの肩を抱いてユウリの顔を覗き込むようにして「ごめん」を繰り返した。「昨日しなかったから、気持ちが溢れちゃって」
「強くするのはいいけど痛いのは嫌なの」ユウリはアオから目を逸らし言った。
「ごめん、気を付ける」アオはユウリにキスをしようとする。
「嫌」ユウリはそれを拒んだ。
「え?」キスを拒んだのは初めてのことだ。だからアオの顔は、狼狽えていた。「嫌なの?」
「そういう気分じゃないの、学校で色々あって、ちょっと疲れてて」
「告白してきた男子と何かあった?」
「うん」
「聞かせて」
「アオちゃんに話す必要ないよ、どうでもいいことだから」
「どうでもいいことでも聞くよ、ユウリ、思いつめた顔してる」
「してないよ、平気だよ、なんでもないんだって、本当に」
「でも疲れてるって」
「疲れてるだけだから」
「私はどうしたらユウリのことを癒してあげられる?」
アオは何か企む目をしてそう言った。
そのアオの澄んだ瞳を見て。
ユウリの疑心はいよいよ爆発せずにはいられなくなった。
気付けば、ユウリの口は勝手に動いていた。
「アオちゃんは一体、何を企んでいるの?」
「え、企む?」
「私は疑っているんだよ、」疑心を一度吐き出してしまったユウリの口は、まるでユウリの中にいるユウリではない別の生き物が傍若無人に操縦しているみたいに動き続けた。「私はアオちゃんのことを疑っているわ、アオちゃんの何かを疑っているってわけじゃなくってね、特に何がってことじゃなくってね、アオちゃんの全部を私は疑っているんだよ、アオちゃんっていう存在は私には全部嘘に思えるの、アオちゃんっていう存在は私のことを壮大なペテンに掛けるためだけに存在していてアオちゃんは私を壮大なペテンに掛けるために私が好きなアオちゃんを演じているのんじゃないかって思えるの、何か目的があって私の傍にいるんじゃないかって思えるの、アオちゃんの笑顔は嘘の笑顔にしか見えないの、合鍵のことだってそうだよ、私、絶対にアオちゃんに合鍵を渡してない、盗んだんじゃないの? 寝室の引き出しを私の認可も得ずに開けて合鍵を盗んだんじゃないの? 嘘付いたんじゃないの? さっきのキスで私思ったわ、さっきの乱暴で強いキスでこの乱暴で強いキスがアオちゃんの正体なんじゃないかって思ったの、暴力的で乱暴な強いキスをする人がオアちゃんなんだって、さっき私はアオちゃんに犯されているような気分になった、ねぇ、アオちゃんは私をどうしたいの? 何が目的なの? どうして嘘を付いているの?暴力で私を殺そうとしているの? どうなの? アオちゃんって一体何なの? お願いだから正直に答えてよ」
「……こ、殺すって、え、殺す?」アオは息を飲み泣きそうな顔で無理に笑顔を作っていた。そんなアオの顔をユウリは初めて目撃した。アオの顔はアオではないみたいに感情的に躍動し始めていた。「そんなこと、そんな、大好きなユウリのことを殺すだなんて、そんなこと考えないよ、急に何を言ってるの? 疲れているから? ああ、私が乱暴だったから怒っているのね、ごめん、これから気を付ける、だからユウリ、お願いだから機嫌直して」
「そういうのいいから、正直に言えよ、ほら、」この期に及んでアオが笑顔で誤魔化そうとしていることにユウリはヒステリックになった。「笑ってないで答えろよ」
すると。
戸惑いを隠せないといった表情のアオは目を瞑り、動揺を抑えるように深呼吸をした。
そしてゆっくりと目を開けて、何かを決断したような、力のある目をして、小さくもはっきりした声を出して言った。「……何も企んでいないわよ、合鍵も返す、」アオは合鍵をトリコロールの太い糸が三本捩じれた紐から外してテーブルの上にゆっくりと置いた。「だからそんな怖い顔しないでよ」




