ハイブリッド・ブラン・ブルー/十一
二学期が始まってから二週間が過ぎた。夏は止まることを知らない、という風に錦景市は猛烈な暑さを連日記録し続けていた。頑張って清潔にしているんだけど、暑さと湿気のせいでユウリの右足は少し匂った。そのせいで学校に行くのは少し憂鬱。しかしユウリは学校を休んだりはしなかった。欠席も早退も遅刻もなかったし、教室でヒステリック・ゴー・ゴーになることもほとんどなかった。
「ユウリってば、最近お淑やかじゃないの、どうしたの?」昨日の帰り道、コナツは愛らしい丸い目で聞いてきた。「まるで優等生じゃないの」
「ただなんとなくよ、何となく静かにしてるだけだって、ちょっと暑すぎて、それに右足もこんな風だから、疲れてんのよ、別にお淑やかでもないでしょうに、優等生でもないでしょうに」
ユウリはコナツにはそう言ったけれどでも。
お淑やかだって評価されるのには心当たりがあった。
理由はあるんだよ。
コナツには言わないけど。
ユウリは青過ぎる夏空を見上げていた。
暑い。
正午は炎天。
炎天に空気は不安定で錦景はゆらゆらと揺れている。
熱風がユウリの黒い髪を揺らす。
強い日差しに目を瞑った。
目を開ける。
ユウリの前に紫色のムーブが停まっていた。
「國丸君、うっす、」助手席側のウインドが開いて運転席の方から伊達リサコが声を投げた。今日も彼女は凄く元気みたいだ。今日も彼女のTシャツはヒステリック・ゴー・ゴーだった。「どうしよ、後ろに乗った方がいい?」
「はい」
ユウリは笑顔で頷き後部座席に松葉杖を畳んで乗り込んだ。車椅子は卒業してユウリは松葉杖少女になった。お医者様曰く、ユウリの傷の治りは順調みたい。再生能力が高いと褒められた。
自分でもそう思う。
私は再生能力が高い。
体だけじゃなくて多分。
心も。
今日は日曜日だけどコウヘイはG大の彼の研究室にいる。
ユウリは今日、コウヘイと会う約束をしていた。約束を取り付けてくれたのはリサコだった。リサコはユウリとコウヘイの間に何があったのか知らないだろうから、彼女にとっては天体史趣味の少女に向けたただの親切だったのだろうけれど。
無神経。
そう思った。
でも彼と会うと決断したのはユウリだ。
リサコの誘いの電話に、まるで普通の天体史趣味の少女のように、弾んだ声で、嬉しそうに返事をしたんだ。
コウヘイは今のユウリにとってはどうでもいい男。
でもどうでもいい男と簡単に切って捨てるのには惜しいのも本当で。
とどのつまり、ユウリは天体史研究者としての彼に憧れてるんだ。
悔しいけれど、それが本当の気持ちなの。
彼の論文には何度も目を通した。まだそこに書かれた全ての意味は分からないけれど、それは大切なことだっていうのは分かった。コウヘイはそれを知っている人。論文に書いた人。だから憧れる。
あなたのせいで私の右足はこんな風になったのにね。
「お、國丸君、久しぶりじゃないか、」コウヘイは爽やかに明るく言ってユウリのことを研究室に迎え入れてくれた。「足の具合はどう?」
「お久しぶりです、先生、」ユウリは笑顔を彼に見せた。うまくそれとなく、笑えたかな。遺恨は上手に隠せていたでしょうか。「はい、傷は順調に治っていますよ、私って再生能力が高いみたいなんですよね」
ユウリはコウヘイと研究室にある応接セットのソファで向かい合って天体史談義に華を咲かせた。リサコは珈琲を二人のために淹れて、早々に研究室から退散した。リサコも何かと忙しいみたい。
「あ、そう言えば、」コウヘイは話題を急に変えた。「ごめんね、病院にお見舞いにいけなくて、いや、忙しくてね」
「いいですよ、そんな、謝らないで下さいよ、」内心、ユウリは会って最初にそれを言うべきではないか、と思ったけれど笑顔を維持した。そういう風な簡単な気遣いが出来ない部分は批判されるべきだと思う。だから可愛い顔を作って言ってやる。「だけど少し、ちょっとくらい、酷いなって、思ったりもしましたけど」
「え、怒ってる?」コウヘイは途端に慌て出す。「ごめん、本当にごめん」
「怒ってないですよ、」ユウリは小さく笑い声を漏らした。「ただ少し酷いって思っただけです、今は別に全然気にしてないですよぉ、あ、先生から頂いた本凄くよかったです、それでなんと言いますか、チャラってやつです、だから別に全然気にしてないんです、本当ですよ」
ユウリはそして珈琲カップに口を付けた。少し苦かった。砂糖が足りてないみたい。ユウリの頭はちょっとぼうっとしていた。天体史についてしゃべり過ぎたせいだろう。高度な議論に、エネルギアを消耗してしまったみたい。心地のいい疲労感がある。凄く楽しいって感じてる。
「そう、それだったら、いいんだけど」
コウヘイの渇いた声を聞いた。
彼は自分の手の平を見た。手相でも見てるのかな。
一度咳払い。オアシスのワンダ・ウォールの最初の咳払いに聞こえて頭の中にその曲が勝手に流れ出す。
彼は顔を上げてユウリを見た。
真剣な顔をしていた。
格好いい。
クラスで一番男前な内藤よりもずっと男前。
相手をしてくれる女の人は沢山いるのでしょうね。
「まだ返事をしてなかったよね」
ユウリは息を呑む。とぼけた顔を作るのに少し遅れて不自然さを見せてしまった。「……えっと、何の返事ですか?」
「君は僕のことを好きだと言った、返事をする必要があるでしょうに」
ユウリはコウヘイの台詞に固まってしまう。
この男はなんて。
なんてロマンチックな台詞を吐くの!
未練なんてない。
一切ない。
ないのに彼を好きになった時間を思い出して、そのときに感じた気持ちに心は染まってしまってしょうがなくなる。
これは錯覚なのよ、とユウリは自分に言い聞かせる。
だってユウリは女の子が好き。
目の前でロマンチックな台詞を言った人は二十七歳の男。
対象は、全然違う。はっきり違う。何もかも違うんだ。
それなのに何かを感じてる。
彼はユウリの心を動かすの。
「ごめん、僕は君のことを気に入っているし、可愛い少女だと思うし、君の性格も個性的で一緒に会話をしていて楽しい、頭の回転も速いし、そのポテンシャルは大事にしなきゃって思う、ああ、ごめん、僕は何を言っているんだろうね、ちゃんと脳ミソが機能していないみたいだ、ごめん、とにかく、そう、」コウヘイはまっすぐに見つめるユウリの目から視線を逸らした。「僕は君を愛せない」
視線を逸らしたのは彼の優しさでしょうか?
銃口を心臓から遠くに逸らしたつもりでしょうか?
でも銃弾はユウリの体のどこかを通過して。
痛い。
凄く痛いな。
でも平気なの。
コウヘイのことはもう好きじゃないから。
じゃあどうして痛いの?
泣きそうなの?
よく分からないな。
少女ユウリの心は疾風怒濤なので、それを掴んで観察するのに難しい瞬間って沢山あるの。
とにかく。
ユウリは虚勢を張って笑う。「そんなに深刻そうな顔はしないで下さい、私は先生のことが好きでした、今でも先生のことは先生として憧れています、でも無茶だって最初から分かってたんです、どうにもならないって分かってました、だってまだ私は中学生だし、先生は大人だし」
「うん」コウヘイは肯定も否定もしない相槌を打つ。
「それに私今、付き合っている人がいるんです」
コウヘイは目を大きくして驚く。「……え、そうなの?」
「だからもう、先生が謝ることってないんです、」ユウリは明るく言って笑う。「だからもう、この話は終わりにしましょう、天体史の話をしましょう」
「そうだね、」コウヘイは大きく息を吐き、そして優しい顔を見せてハニカんだ。「うん、そうだ、それがいいね」
「はい、それがいいです」
ユウリは頷いた。コウヘイの優しい顔が少女のヒステリックから逃げられたことによる安堵感によるものだって分かって嫌な気がしても素直にしていた。
素直にしていてあげる。
コウヘイはユウリの未来に必要な先生だから。
「私は先生と天体史の話がしたい、」ユウリは無邪気で自分を飾って言う。「これからもずっと」




