ハイブリッド・ブラン・ブルー/十二
私今、付き合っている人がいるんです。
ユウリがコウヘイに言ったことは出鱈目なんかじゃなかった。
恋人がいるからあなたに愛してもらえなくても大丈夫、といった意味の彼を安心させるために付いた真っ赤な嘘。
そんなもんじゃない。
そんな優しい嘘をユウリはまだ言えない。
そのことはコウヘイに言うつもりはなかった。でもたった少しの動揺は口を滑らせた。「私今、付き合っている人がいるんです」
恋人は女の子。
コナツじゃない、女の子
ユウリがずっと彼女にしたかった女の子はコナツだけど、恋人はコナツじゃない。
コナツはユウリに恋人が出来たことを知らないだろう。
教えていないし。
これからも教えるつもりもないでしょう。
二人が恋人同士だっていうのは二人だけの秘密。
最近ユウリがお淑やかなのはこの辺りに理由があると思うんです。
お淑やか、というか。
静か、というか。
そういう状態になってるのってきっと彼女に影響されていることによるもの。
ユウリはアオく。
彼女の色に影響されている。
正式に恋人になったのは一週間前の金曜日の話だ。
その日の錦景市の夜もアオは忘れ物をしたと言って塾の終わりにユウリの家にやって来た。
一人で、コナツに内緒でやって来たんだ。
九月の初日からアオの内緒の訪問は毎晩続いていた。だから約束もないのにユウリは家を綺麗にして彼女のことを待っていた。お風呂を沸かして待っていた。
夜の九時過ぎにチャイムが鳴った。
「はい、」リビングのインターフォンをとってユウリは返事をした。「また忘れ物?」
「うん、忘れ物しちゃったの」抑揚のないアオの声。
「今、開けるね」
「うん」
小さな鍵のマークの上のボタンをユウリは押した。エントランスのオートロックの施錠が解かれる音がインターフォン越しに鋭く聞こえた。アオはエレベータに乗り込んで上昇してユウリに近づく。ユウリは車椅子で玄関に出て部屋の施錠を解いてアオを待つ。すぐにエレベータの扉が開く音が聞こえた。再びチャイムが鳴って玄関のドアが向こう側に開きセーラ服姿のアオが顔を覗かせた。「こんばんは」
「こんばんは」ユウリはアオのテンションで返す。何かを探るような目線はもう、彼女に送らなかった。
「また忘れちゃって」
「アオちゃんってば、忘れっぽいんだから、しょうがないんだから」
アオの忘れ物、リュドミラ・マケットはこの頃ずっとステレオのスピーカの上に置いたままになっていた。アオはそれをリビングの入り口の方から一瞥、手に取ることもなく「よかった、見つかって」と小さく言って微笑んだ。
「よかったね、見つかって」ユウリも微笑み返す。
「今日こそは忘れないようにしなくっちゃいけないね」
「そうかもね」
二人は小さく笑い合った。
二人の態度はまだ、余所余所しい。
心の距離の微妙さをユウリは感じる。
でもそれがなんだか新鮮で。
なんだか心地良くて。
新しい風を感じているの。
「じゃあ、お風呂にする?」アオは鞄をソファの上に置いて言う。
「うん、」ユウリはいやらしくなりそうな顔を必死に隠して頷く。「もう沸かしてあるから」
「準備がいいね」
「そうなの、私、準備がいい女なの」ユウリは甘えるように言った。
アオはユウリの正面でひざまづく。ユウリのブラウスのボタンを首元から一つ一つ丁寧に、そして確実に外していく。両手を上げてユウリは脱がされる。すぐに全部脱がされた。アオはユウリが纏っていたものを丁寧に畳み、ユウリの膝の上に置いた。そしてアオはセーラ服を脱ぎ一糸纏わぬ姿になった。
アオは華奢で、綺麗な体をしていた。
浴室ではアオは優しくユウリの体を洗ってくれた。毎晩ずっと洗ってくれているから慣れたのか、背中を擦る力はいつもよりも強いと感じた。熱いお湯を掛けられて少しヒリヒリとした。でもそんなこと気にならないくらい、ユウリは彼女との入浴を楽しんでいた。
お風呂から上がりパジャマ姿になった二人はソファに寄り添い合うように座ってリビングでお菓子を食べながら珈琲を飲んで、夜のニュースを映すテレビ画面にぼーっと視線を向けながら静かに会話をしていた。盛り上がって騒がしくなったりはしない。お淑やかで静かな談笑にユウリの心は癒されていく。
そして自然勝手にユウリの頭はアオの二つの太股の上にあった。耳が彼女の体温を感じていた。
「ねぇ、ユウリ」アオはユウリの髪に指を入れて動かしたり摘んだりして遊んでる。
「んー?」ユウリは微睡んでいた。
「錦景女子に合格したらバンドしようよ」
「どうしたの、急に?」
「やらない?」
「最初からそのつもりよ」
「うん、知ってた、コナツから聞いたから」
「本当に何でもしゃべるんだ、コナツって」
「うん、だから私もメンバにしてって話」
「いいわ、認可をあげる、」ユウリは言って吹き出すように笑った。「とか言って、まだメンバなんて何も決まってないんだけどね、ただコナツとやりたいって話してただけで、ギターは少し練習してるけど、ああ、そう言えば最近弾いてないな、中学に入ってギター買ってそれからずっと練習してたんだけどそう言えば最近弾いてないな、クローゼットの中だ、とにかくバンドの構想はすっごく漠然としてて」
「ユウリのギター、聞きたい」
「人に聞かせるほどの技量はないよ、アオちゃんは楽器、何か出来るの?」
「ううん、出来ない、ユウリは私に何の楽器をやって欲しい?」
「アオちゃんは何がやりたいの?」
「私には何が似合うと思う?」
「好きなバンドは?」
「あんまり知らないの、音楽のこと」
「じゃあ、コレクチブ・ロウテイションを聞いて」
「あ、私、あの華火大会で聞いた曲、好きだったな」
「ハイブリッド・ブラン・ブルー?」ユウリはしっかりと題名を覚えていた。
「まるで私の歌みたいだった、」アオは言ってユウリの頬に手を触れた。アオの手はひんやりとしていた。「どうして私の心が分かるのって思ったの」
「ああ、そうなの、そうなの、」ユウリは頬にあるアオの手を握りしめて微笑む。「コレクチブ・ロウテイションの曲ってそう思うの、どうして私の心にこんな風にリンクしてくるんだろうって思うの」
「もう一度あの曲が聞きたいな」
「リリースはまだ未定みたい、ラジオで流れるのはいつになるのかな、うん、私も待ち遠しいな」
そこでアオは不自然に黙り込んだ。
テレビ画面に視線を移して。
ユウリの手を強く握り返した。
そして口元を動かす。「レズビアンって気持ち悪いよね」
ユウリはビクっとなってアオの顔を見て、その視線がまっすぐにテレビに向いていたから、ユウリは首だけを動かしてテレビ画面を見る。
ニュースはレズビアンについての特集を組んでいた。新宿で暮らすレズビアンのカップルの密着ドキュメントだった。二人のレズビアンの女がカメラに向かって同性愛者の結婚について語っている。同性愛者の結婚は認められるべきだ。多様な価値観を尊重し合って偏見をなくしていけば世界はきっと平和になる。色んな人たちが暮らしやすい国を政府は目指すべきだ。
「本当に気持ち悪い」
言ってアオはリモコンを掴みテレビの電源を落とした。「ああ、嫌なものみたな、本当に気持ち悪いんだから」
ユウリはアオの太股に頭を乗せたまま、何も言えずに硬まってしまった。
だってアオが気持ち悪いと言って強く否定しているもの。
それは紛れもなくユウリのことだから。
何も言えない。
動けない。
アオの目を見れない。
見れば自分が気持ち悪いものだって見抜かれてしまいそうだから。
黙っているのもおかしいしけれど首を締め付けられているように声が出ない。
アオが好き。
嫌いになって欲しくないから苦しいの。
苦しくって動けなかったんだ。
けれど。
突然、それは本当に急だった。
アオがユウリの頭に顔を寄せて、髪を束ねて匂いを嗅いだ。匂いを嗅いだって分かるくらい、強く鼻で息を吸った。
「な、何?」
「匂う、」アオはユウリの頭に顔を寄せたまま言う。「すっごく匂うよ、なんなの、コレ?」
「なんなのって、なんなのって、」ユウリはちょっと泣きそうだった。「そりゃ、シャンプの匂いでしょ?」
「違うでしょ、コレって、コレって、レズの匂いでしょ」
「え?」
「私の匂いも嗅いで」
「え?」
「いいから早く」アオは自分の髪を掴んでユウリの鼻に近づける。
「は、はい」ユウリは言われるがままに、アオの髪の匂いを嗅いだ。シャンプの匂いがした。ユウリが使っているシャンプの匂いしかしない。アオの匂いも少しくらいは混ざっているかもしれないけれど、お風呂上がりにはシャンプの匂いが濃くて当然。
っていうか。
レズビアンの匂いって何?
「どう?」アオの顔はユウリの顔と五センチくらいしか離れてない。だからアオの息が顔にぶつかって変な気持ちになる。キスしてしまいそうになる。
「どうって言われてもシャンプの匂いしかしないよ」
「分からないの?」
「え?」
「私の匂いだよ」
「アオちゃんの、匂い?」
「レズ臭いでしょ?」
ユウリの返答はアオの唇が自分の唇と衝突したことによって遮られてしまった。
本当に衝突だった。
勢いがあって強くって、歯が当たって少し痛い。
乱暴なキスだった。
アオとの最初のキスはそうだった。
それからユウリは両手でアオを抱き寄せて夢中で何度もキスをした。アオは強い力でユウリに自分の体を押しつけてきた。ベッドに移動するのも煩わしいからソファの上でそのまま、ニュースの後の夜のミステリィドラマをBGMに、体を絡ませ合った。
ひとしきりの興奮が収束した後、アオはこれがファースト・キスだったのと教えてくれた。
ユウリもこれがファースト・キスだと言った。厳密には違うけど、互いに求め合ったキスは多分、初めて。
だから初めて。
「ユウリが好き、」アオはユウリをまっすぐに見つめて、やっぱり無表情に言った。「私の彼女になって」
彼女の告白にユウリの体は燃えたように発熱して顔は凄く紅かったと思う。
ユウリが小さく頷けばアオは笑う。
そよ風みたいに冷静に。
しかしユウリはアオの体の異常な熱を知っている。
目で見えるもの。
体で感じるもの。
あなたのどちらが本当?
同じように燃えたいと思うのに、それが不可解で引っかかる。
なかなか心の色を見せないね。
恋人同士になってから一週間が経って二人の体が徐々に馴染んで来たな、と思ってもそれはちっとも変わらない。
ちょっと嫌だな。
でもまだ一週間だし。
恋は焦らず、なんて歌があったな、なんて思い出して。
ユウリは今夜も横で眠るアオに聞く。
アオって、藍、青、蒼、碧って色々書くけれど。
「あなたのアオはどれ?」
ユウリは彼女の名前の字を知らなかった。
彼女の名前はスマートフォンにカタカナで登録されている。
アオは笑顔をユウリに見せた。
でも答えないで、ユウリの柔らかい部分を抓って口に含んだ。
「笑ってないで答えろよ、」低い声で恫喝するように言った。しかしすぐに、ユウリは高い声で喘いでしまうのでした。「……あ、いや、待って、駄目っ、……ひゃあっ!」
「あなたの右足が心配よ」




