【1999•その距離約四キロ】
小学生のオレは、その理由を求めて明石海峡大橋を渡り淡路市へ来た。そこで再会した母さんは、ヤンキースタイルでバイクに跨り、オレを出迎えた───。
3911m。これは、兵庫県神戸市と淡路島を繋ぐ明石海峡大橋の長さだ。
去年、校長先生が全校朝礼で俺たちに向かって大きくこの数字が書かれた画用紙を掲げ、これは何の数字でしょうと尋ねた。同級生の塩屋くんがサンキューワンワン!!と叫んで笑われて、それで覚えてしまった。
この約四キロの橋は、世界最長の吊り橋として開通されたときに大規模なセレモニーを行って、神戸から淡路島まで歩いて渡ることができた。父さんと母さんに連れられて、沢山の人が集まる中ただひたすら歩いたのを覚えている。約四キロ、往復で八キロの距離を、橋の端から端まで渡りきった上で戻ってくるのは本当に大変で、結局最後の方は父さんにおんぶされて寝てしまったっけ。
当時は、ああ橋が出来たんだ、これで淡路島や四国まですぐに行けるようになるんだな、としか考えていなかった。後から、橋は徒歩では渡れず電車も走らず、車かバスでしか向こう側に行くことができないことを知った。
この約四キロ。たった四キロだけど、海の向こう側の淡路島に行く手段が、小学生の俺にはまだない。
六時半に起きると、既に父さんは会社に行っており家には僕とばあちゃんしかいなかった。ばあちゃんは朝ごはんを準備中で、早く顔を洗っておいでと優しく言ってくれ、俺は適当に返事して着替えてから洗面所へ向かう。
去年、小学三年生の夏休みに父さんと母さんが離婚した。俺は父さんに引き取られ、特に引っ越しもしなければ名字も学校も変わることがなかった。だから俺の家が離婚したことを知っているのは近所に住んでいる親友の光くらい。離婚の前から一緒に住んでいたばあちゃんは母さんの代わりに家事全般やってくれるし、同じように親が離婚したという友達は名字と家が急に変わったし、お母さんも帰宅時間が遅くなって大変だと言っていたから、俺は恵まれてる方なのかなぁと思う。
変わったところといえば、母さんがいないことだけ。本当にそれだけだ。
離婚前に母さんが立っていたキッチンはばあちゃんが立ち、母さんの服がギッシリかかっていたクローゼットは何もなくなってガランとしている。
朝ごはんを食べて光と学校に行き、一時間目、先生が来るまでみんなでお喋りした。目下の話題は、夏休みにどこへ行くか。
光は長野へ行ってゆっくりするらしいし、透は滋賀のおばあちゃんの家へ行くと言う。
「生太は?どっか行くの?」そう訊かれ、
「俺は、淡路島かな。母さんと一泊二日で旅館に行く」
旅館とかすげーな、とクラスメートたちは騒ぐ。羨ましがられたけど女親と行ったところで温泉では分かれるし、つまらないだけだ。しかも母さんは車を持ってないから、せっかく淡路島に行ったって移動はバスになると言う。
母さんは淡路島の旅館に住み込みで働くため、この家から出ていった。いや、別れて出ていくから住み込みで働ける所に行ったんだろう。家から追い出されたのか出ていったのかはよく知らないが、とにかく、俺は母さんが働いている旅館に泊まることになる。夏休みの一番忙しい時にニ日も休みを貰ったのよと恩着せがましく言われたが、俺からしたら四十日ある夏休みのたった二日しか一緒にいてくれないのかよ、と思う。それにきっと宿泊費だって従業員割引を使うんだろう。
先生が教室に入ってきて、俺たちに席に着くように言って一時間目の授業が始まる。社会の授業だ。
先生の話をぼんやり聞きながら、窓の外を眺める。山の奥に少しだけ、にょっきりと建つ明石海峡大橋の先端が見えた。あっちが南か。
あの開通式。ただ橋が出来たってだけでなんでわざわざ歩いて渡る必要があるんだよと思ったが、神戸側───JR舞子駅から橋の上に降り立ち下から橋の主塔や極太のケーブルを仰ぎ見たとき、その壮大なスケールと圧巻の姿にこんなものが人の力で出来るのかとただただ興奮したのを覚えている。
そして何より、俺と父さんと母さん、三人で並んで歩いたのが楽しかった。今思えば、あれが三人で出かけた最後のお出かけだった。父さん母さんからしたら離婚前の最後の思い出作りだっただろうが、その四ヶ月後に離婚するなんて、俺は全く知らなかった。
「───生太。父さんと母さんは離婚する。この家から母さんは出ていくけど、会いたい時には会えるようにするから」
父さんはそう言ったが、母さんはオレに特に何も言わないまま家からいなくなった。
「有馬くん!!聞いてましたか!」
担任の先生が叫び、慌てて意識を戻す。
「……すみません、聞いてませんでした」
素直に答えると、先生はため息をつきながら、
「神戸と淡路島を繋ぐのが明石海峡大橋ですね。それではもう少し西に、瀬戸大橋という鉄道も通る大きな橋があります。知ってる人」
クラスメートたちが何人か手を挙げて、オレも手を挙げる。
「では有馬くん、こちらは何県と何県を結びますか」
「岡山県と香川県です」オレが答えるとハイ正解、と先生が言う。
「本州と四国の連絡橋は、あとひとつ、広島県と愛媛県を繋ぐ橋もついこの間全線開通しました。いつか行ってみてくださいね」
橋はこんなにあるんだな。昔母さんは岡山に住んでいて、香川出身の父さんと結婚し、オレが生まれた年に瀬戸大橋が出来たと言っていた。もう少し早く出来ていれば楽だったのに、とも。
でも結局離婚することになったんだから、橋が早くかかってようと父さんと母さんはうまくいかなかったんだ。そしてオレは、二人を繋ぐ橋になれなかった。ただそれだけだ。
あっという間に夏休みは中盤に差し掛かり、母さんのいる淡路島の旅館に泊まりに行く日が来た。島まではフェリーで行き、父さんは乗り場である明石で僕を車から降ろすときに、明日の夕方にまたここで待ってるとしか言わなかった。どうせなら車で母さんとの待ち合わせ場所まで送ってくれたっていいのに、そんなに母さんに会うのが嫌なのだろうか。
「よォ、クソガキ」
第一声がこれだ。母さんはタバコを吸いながら待ち合わせ場所である停留所に立っていた。他にも沢山降りる人はいたし、なんなら睨まれていたのに全く気にしてないようで本当にガラが悪い。
「よぉ、クソババア」
オレが言い返すと、思いっきり耳をつねり上げられた。
「アンタ……親を馬鹿にしたら許さないよ?」
オレが降参、降参!と叫んでようやく手を放す。真似して言っただけなのに、この理不尽。
「じゃ、行こっか」
ニンマリ笑って、母さんが背を向ける。ダボダボのTシャツに黒のホットパンツ。ジャラジャラと腕と耳にアクセサリーをつけている。髪こそ黒だけど、子持ちの一児の母とはいえない姿だ。
「とは言ってもガキが楽しめる所ないんだよなぁ〜。アタシ車もないし」
母さんについて行くも、そもそも待ち合わせたバスの停留所は大きな公園の前のようで、周りに何もない。オレは思いついて、
「アッほらあれ行きたい!うず潮クルーズ!船乗って渦潮みてみたいな」
「お前ここまでフェリーで来たんだろ?また船乗んのかよ。ホラ、ついてきな」
母さんはそう言うと、駐車場に案内された。どでかいバイクが置いてあり、黒くてカッコよくて、アメリカの映画俳優とかが乗ってそうなヤツだ。母さんはヘルメットをポーンと投げてきて慌ててキャッチすると、
「乗りな」それだけ言った。
「え!?バイクに乗るの!?さっき車持ってないって言ってたじゃん」
「だから、車は持ってないけどバイクはある。ツーリングするよ」
初めて乗るバイクの後ろの席。どこを持ったらいいかわからなくて遠慮していると、母さんがオレの手を掴み腰にまわした。
「じゃ、出発するよ。しっかり捕まってな」
けたたましくエンジン音が鳴り、遠心力がかかってすぐに前進した。風を切り、強く捕まってないとすぐに飛んでいってしまいそうで怖い。だけど、メチャクチャすごい。
淡路島は見渡す限り山、野原、野原、田んぼ、海。それでけで景色はいいとはいえないけど、こんなふうに大きなバイクの後ろに乗せてもらったことがある小学生は、クラスでも、いや学校中でもオレくらいしかいないんじゃないだろうか。みんなに自慢できる。旅館や温泉なんかより、バイクに乗せてもらったことをみんなに言ったら、きっと羨ましいがられるだろう。
信号待ちになって、オレは話しかけた。
「母さんがこんなすごいの乗ってるなんて初めて知った」
「そうだろ。アタシ、神戸にいた時は乗ってもママチャリだったから。最近お金貯めて買った。いずれアンタも乗ればいい」
え!?くれるの?と訊くと、いずれな、と返された。このすごいマシンがいつかオレのものになるのかと思うと、すごくワクワクした。いつか免許を取って、いろんな所を走る自分を想像する。このバイクなら、簡単に明石海峡大橋だって渡れそうだ。
「生太、学校楽しいか?」
再び走り出すと同時に話しかけられる。オレはうん、と大きめの声で言うとちゃんと聞こえたようで、
「そう。父ちゃんは?元気?」
「……うん。ばあちゃんも元気だよ」
「そ。よかった」
それからまたしばらく走る。父さんが気になるなら、連絡の一つでもしてやればいいのに。オレのこと仲介しないで直接訊けばいいじゃないか。そう思うと、胸が少しズンと重くなった。
しばらく走ってから、古民家のような場所でバイクを停めた。ヘルメットを外し、ここはどこだと周りを見渡すも、何もない。
「こんちはー」
母さんは無遠慮に入っていくと、小料理屋のようで机と椅子が並んでいる。あらいらっしゃい、と店主らしきおばさんが声をかけ、オレを見ると、
「アラ、息子さん?真琴ちゃんに息子さんがいること知らなかったわぁ」
「そうなんです。つっても別れた旦那に任せてますけど。今日は久々にデート」
オレの肩を抱きニカッと笑う。おばさんは素敵なデートね、と言って席を案内してくれた。煮魚定食を二つ頼み、まじまじと母さんを見つめる。母さんは、神戸にいた頃はこんな野蛮なヤンキーじゃなかった。スカートを履いて化粧もお上品な、お人形さんみたいな格好をしていた。なんでこんなに変わっちゃったんだろう。淡路島の温暖な気候と島の空気が母さんを変えたのだろうか。
「変わったろ」
見透かされたように言われ、素直にうん、と返す。母さんは、
「けど違うかんね。これが本来のアタシ。神戸にいた頃が猫被ってたの。アタシは元々煙草も吸うしバイクに乗って琵琶湖一周もしたことある。知ってる?淡路島の形って琵琶湖とほぼ一緒。だから昔琵琶湖があった所から、この島が飛んできたんだ」
「そうなん?」
母さんはケタケタ笑ってる。こういう時は大体からかわれているときだ。煮魚定食が目の前に運ばれて、いただきます、と手を合わせ食べる。ほろほろと口の中でほぐれてメチャクチャ美味い。ここ美味いだろ、よく来るんだ、と言う。
そういや母さんはあまり料理が得意じゃなかった。料理どころか家事全般あまりしなくて、それで小ニからはばあちゃんが来てくれて代わりにしてくれるようになった。正しいハンバーグは表面は黒くないし中にも火が通っているんだと、その時初めて知った。
「……母さんは、ばあちゃんと住むのが嫌で出て行ったの?」
オレはずっと疑問に思っていたことを訊いた。母さんが急に出て行ったことも、中々会いに来てくれないことも、ずっと尋ねようと思って今日淡路島まで来た。母さんは黙々とご飯を食べながら、
「ばあちゃんが原因じゃないよ。勿論父ちゃんもアンタのせいでもない。……悪いのはアタシだ」
「……それって、浮気したってこと?」
オレが尋ねると、母さんはブッと白飯を吹き出した。咳き込みながら笑ってる。
「なんだよそれ。誰かに吹き込まれたか?」
「……同級生の透が。あそこも離婚したけど、お母さんが透を引き取って一緒に暮らしてる。離婚して女側が子供と一緒にならない場合は浮気とか不倫とかでユーセキなんだって聞いた」
よく分からないが、オレみたいに父さんに親権がいくのは珍しいらしい。誰も口にしないけど、母さんが出て行った理由も、それだとしたら納得がいく。オレが思い詰めた顔をしていたからか、母さんは笑いながら、
「馬鹿だなぁ。浮気とか不倫なんかじゃないよ」
「……じゃあ、オレや父さんを裏切ったり後ろめたいことは」
「してない。それは断言できる。出てった理由は……まぁ、アレだ」
目を伏せ、髪をかきあげて一呼吸おいてから、
「アタシは理想に沿えなかったんだ」
そう言ったきり黙ってしまった。それ以上聞くこともできず、オレも黙って口に運ぶ。理想に沿う、ていうのは何だろうか。オレが求める母親像?それとも父さんが求める良き妻とかいうやつだろうか。
食べ終わって店から出ると、さー、旅館に行くか、と母さんが言う。もう行くの?もう少しどこかへ行こうよと言っても、ここから距離があるし他に行くところもないと言う。それまでのツーリングを楽しめ、とも。
仕方なしにバイクの後ろに乗り、母さんの腰に手を回してしがみつく。
さっきは遠慮がちだったから思い切って抱きついてみたけど、なんだかこれコアラみたいだ。母さんに体重を預けて抱きしめるのはいつぶりだろうか。
それからひたすら走った。食べた後なので多少眠たくはなったけれど、手を緩めると途端に吹き飛ばされそうでしっかり起きておかなくちゃと気を引き締めた。
海岸通りを走ると、海の向こうに四国が見える。海水浴に訪れた家族連れがたくさんビーチにいるのがわかり、今日海で泳げたら楽しいんだろうな、と思った。
───父さんと母さんと、来たかったな。
それは叶わない夢。だけど、オレがもう少し大人になって、いつかみんなで来られたら───。オレが二人の橋渡しが出来たら、叶うかもしれない。その頃には、海水浴なんてもうしたくなくなってるかもしれないけれど。
旅館に着くと、あら真庭さん、と働くおばちゃんに声をかけられた。母さんの名前だ。そういえば今日は母さんの働く旅館で過ごすという話だった。母さんはお世話になります、と言うと、何やら立ち話をした後、
「ごめん生太。今日お子さんがインフルエンザで急遽休みになっちゃった人がいるから、アタシ少しだけ働いてくる!部屋とかはフロントで聞いて!」
そう言ってバタバタと駆け出して行った。玄関でポツンと取り残され呆然としていると、真庭さんとこの息子さんかい、と従業員らしきおっさんに話しかけられた。
「いつもお母さんにお世話になってるよ。私はここで働いている南という者だ。今日はせっかくのお休みなのにごめんね。ささ、部屋に案内するから、ゆっくり休むといい」
南さんはオレを部屋まで案内してくれた。部屋は、二人で寝るには少し狭いと感じるサイズのこぢんまりとした部屋だった。でも窓の外は一面に海が広がっていて、開放感があってどこまでも綺麗だ。しばらくそうしていると、母さんが部屋に入ってきた。慌ただしそうに髪を纏めているが、きっちりと着物を着ていた。
「生太ごめんねー。夕飯には間に合うように戻ってくるから。風呂入ったりテレビでも見てて」
そう言って颯爽と去っていく。初めて見る着物姿に、母さんはいつもああしてここで働いているんだなぁ、凄いなぁ、と素直に思う。
そうだ、ちょっとどんなふうなのか見学してやろう。
オレは旅館の中を散策するふりをして、いろんな階に降りては母さんを探してみた。旅館は出来てあまり日が経っていないのかどこもピカピカしており、いい匂いがする。部屋のドアが開かれている所で、従業員らしき人たちが片付けをしている。テキパキと布団をたたみ、掃除機をかけ、洗濯物を集めている。他の人もいろんな荷物を運び、慌ただしく動いていた。部屋の奥では今旅館に来たばかりの家族が案内された部屋に入るところで、まるで別空間の出来事のようだ。じろり、と従業員のおばさんと目が合い、慌てて身を隠す。そのまま階段を使い別の階に行くと、今度は宴会場がある場所で、ここでも沢山の人がしきりに動いて準備をしている。そこに、母さんもいた。母さんは何かを指示されるとハイッ!と大きく返事し、仲間と協力しながらテキパキと動いている。
カッコいいな。
純粋にそう思った。一緒に住んでいる時の母さんは、たまにパートでスーパーのレジ打ちをするとは言っていたけど、実際に働いている姿を見るのは初めてだ。しかも、汗をかきながら動き回って、大変そうだけど生き生きしている。楽しそうだな。今日はバイクに乗ったり着物を着て働いたり、オレの知らない母さんをたくさん見た。最初は戸惑ったけど、どちらも目が輝いていて、母さんの好きなものは、これなんだと知った。
母さんはママチャリよりバイクが好きで、大変でも忙しくとも、汗水垂らして働くのが好きなんだ。オレは、神戸で家族三人で住んでた頃、母さんの好きなものを特に知ろうとしなかった。でも母さんも、片鱗も見せなかった。教えてくれたらオレも好きになったかもしれないのに。
おかあさーん、と小さな女の子が呼んで、母親と思われる女の人が優しく手を引いた。オレはその背中を、見えなくなるまでじっと見つめた。
風呂に行って部屋に戻ると、母さんが豪華なご飯を部屋に持ってきてくれていた。高そうな魚や刺身、茶碗蒸しもある。
「ちょっと時間貰ったから一緒に食べよう。いただきます」
母さんは手を合わせると勢いよくがっついていく。着物を脱いでないから、この後また仕事に戻るつもりなのかな。一口食べて、美味しい、と思わず零した。
「私も客として食べるのは初めてだよ。あとでゆっくり温泉にも入るんだから」
ニコニコしながら頬張る。お休みを貰って客として来たんだから、今日くらい仕事のことは忘れたらいいのに。
「母さんは、オレと過ごすより働くのが好きなんだね」
半年ぶりに会った息子より、仕事を優先させるほどに……。
恨みがましく言って、しまった、と思った。こんなこと言うべきじゃなかった。
けど、さっき見た女の子は当たり前のようにお母さんと一緒にいるのが羨ましかった。おかあさんみて、おかあさん手を繋いで、で直ぐに返ってくる母からの愛。オレだって平気なフリしてるけど、本当は離れたくなかったよ。
「……ごめんね、生太」
箸を止め、じっと見つめられる。ずるい。親に謝られたら、子供は許すしかないんだ。だって大好きだから。嫌われたくないから。
それから学校の話や友達の話を少ししたけど、ずっともう母さんの目が見られなかった。美味しかったご飯も、味がしなかった。
母さんはまた仕事をしに行って、オレは部屋で一人テレビを見たあと、何もすることがなくなり歯を磨いたあと布団に寝そべった。するといつの間にか寝てしまっており、ふと目が覚めると、部屋の電気は消えて月明かりが窓から差していた。
小さなスペースに椅子が置かれており、そこに母さんは座って煙草をふかしながら海を見ている。二度寝しようとしたけど寝られず、オレも母さんの対面に座った。
「……おや、眠れないの?」
頷くと、母さんが冷蔵庫からジュースを出してホラ、と差し出す。受け取り座ってから蓋を開けた。
「ご飯の時のこと気にしてる?」
返事の代わりに頷いた。目線は手元のジュースに落とす。
「アタシはさ、母親ってのになれなくって。子供産んだら勝手になるもんだと思ってたし、母性とかいうのもそのうちでてくるもんだと思ってたのさ」
母さんもグイッと手元のビールを飲んだ。
「自分の慣れ親しんだ名字が変わるのも、妊娠して身体が変わっていくのも、……自分が自分でなくなるのが怖くなっちゃったんだ。それで、ああもうダメだ、ってなったときに、父ちゃんがお前はお前でいい、て言ってくれて。……それで裸一貫。全部捨てて、もう一回アタシを生き直してんだ」
「……オレと父さんのことはもういらないの?」
「いらなくないよ。そんなわけない。でも、アンタとアタシはどう足掻いても別人格をもった、他人であり、別の人間だから」
「……他人じゃないよ」
縋るように言う。母さんは苦笑いしながら、
「なんていうのかな……親子だけど、好きなものも身体も考え方も違うだろ?」
「オレだってバイク好きだよ。たくさんある中で煮魚定食選ぶくらい魚が好きだし、働くことも好きかもしれないじゃん。母さんと一緒だよ。全部、一緒じゃんか」
「一緒でも、一緒にはいられないこともあるんだよ」
「どうして母さんは母さんでいてくれないの!」
ほろほろと涙が溢れた。自分が何を言ってるのか分からなくなってきた。ただ、他の友達や家族が当たり前にしてもらえている、『お母さん』が。朝起こしてくれたり、抱きしめてくれたり、怒ってくれたりする『お母さん』という行為が、もらえる立場にいるのにもらえないことが、とても惨めで悔しくて、他のみんながずるいと感じてしまう。
親ならば、そうするのが義務で、オレは受け取る権利ではなくむしろ義務があると思ってた。でも母さんは、それを放棄した。嫌いなわけではないと言っているのに、自ら手を離したんだ。
「だからアタシは理想に沿えなかったんだ。だから離れた。アタシはあそこにいたら、アタシじゃなくなっちゃう」
「……お母さんっていうのは、子供のそばにいたいって思うものじゃないの?」
「そう思わないお母さんは母親じゃないと思う?」
オレは頷いた。母さんは笑った。
「いろんなお母さんがいるんだよ。アンタもこれから知ることになる。アタシはアンタが言う『母親』になれなかった。自分が好きな自分でいることを選んだんだ。何にも縛られない、自由で気ままな人間。それがアタシ。母親失格と言われようと、……あのときのアタシには、それが限界だったんだ」
目を伏せながら笑う母さんは、悲しんでるような、吹っ切れているような不思議な表情をしていた。
「母さんは、変わるのが嫌だったの?オレが生まれない方が良かった?」
「それは違う。絶対に」
オレの両肩を掴み、真剣な眼差しで言う。
「生太を産むことができたのは、アタシの一生の誉れだよ。父さんも母さんも、望んでアンタを生んだんだ。
……アンタは覚えてないかもしれないけど、アタシは一時期ダメになって、耐えられなくなって、アンタのことを傷つけようとしたんだ。……だから、一緒に暮らせないって決めたんだよ」
そう言われて、朧げだけど思い出した。ばあちゃんが家に来る直前、オレの家は崩壊寸前だった。家中ごみが散乱しており、母さんは一日中塞ぎ込んでいて、オレはご飯もどうしたらいいか分からなくて泣いていた。あれから父さんと母さんは話し合って、ばあちゃんが来て、少しずつ改善されていった。
───どうして忘れていたんだろう。
傷つけようとした、というのは思い出せないけど、いくら話しかけても上の空で、髪も服もボロボロだった母さん。部屋に篭っていくら呼んでも出てこなくなっていて、あの時のことがあったから、離れて暮らさないとダメだと思ったんだろうか。
「アタシは親になりになりきれなくて、まずは自分を取り戻せ、て父さんに言われたんだ。……アタシたちには、ちょうどいい距離が必要だったんだよ」
翌朝起きると、すでに母さんの姿はなかった。歯を磨いて着替えを済ますと、朝食を持った母さんが部屋に来た。
美味しそうな鮭の切り身を前に、二人でいただきます、と手を合わせた。
「父さんはどこまで迎えににきてくれるの?」
「舞子駅まで。だからバスに乗って橋を渡り切らなくちゃ」
「あら。だったらアタシが舞子までバイクで送ってあげるよ」
オレは目を見開き、「いいの?」
「ああ。あの人もケチくさいねぇ。橋くらい渡って迎えに来てくれればいいのに。久々に会うからアタシも楽しみだ」
なんだか安心して息をついた。父さんと母さんは、顔を合わせづらいとかじゃないんだ。
じゃあやっぱり、オレがいることで母さんはノイローゼみたくなって、二人は離れることを選んだんだろうか。オレは、いない方が良かったんだろうか。
そう思いダークモードになっていきそうだったけれど、すぐに考えるのをやめた。だって昨日、母さんはハッキリとオレは望んで生まれたんだと言ってくれたから。
オレは二人の架け橋になれなかったけど、この、神戸と淡路島の間。ちょうど四キロ程度。母さんがオレを守るためにとってくれたこの距離が、オレたち家族には必要だったんだ。
なら、この距離を愛していこう。
食事を終え、身支度を整えると、旅館を出た。従業員のおばさんや南さんも、忙しそうにしている中オレと母さんに向かってしきりにありがとう、と頭を下げてくれた。
バイクに跨り、また母さんの腰にしがみつく。ぎゅっと力を込めると、
「苦しいよ。窒息死する」
「いいねん。しばらくできないからその分も」
「ハイハイ。でもそれも今のうちだね。男の子はすぐ親離れするから」
そう言う母さんに、
「わかんないよ。母さんみたいな母親もいるんだから、オレみたいにいつまでも母さんっ子の男がいるかもしれないじゃん」
母さんは成程、と笑ってエンジンをふかした。
島を横断し、明石海峡大橋を渡る。右手には大きな観覧車。海を挟んで向こうに、慣れ親しんだ神戸の街が見える。ここを渡りきってしまうと、また日常が帰ってくる。母さんともお別れだ。
ついに渡りきって、待ち合わせの舞子駅まで向かうと、父さんが既に車で待っててくれていた。フルフェイスを外し颯爽と現れたライダーが母さんだと分かると、目を皿のように丸くさせ、
「え……ひ、久しぶり……」
「よっ」
落ち着かなくオドオドしている父さんに向かって、母さんはニカっと笑う。
「わ……変わったね。でも、昔に戻ったみたいだ。バイクも買ったんだ。いいじゃん」
なんて、初々しく笑ってる。母さんはやっぱり昔はこういうスタイルだったのか。オレは二人に分け入るように、
「……オレは、今のかっこいい母さんも好きだけど、昔のスカート履いた母さんも好きだったよ」
二人がこっちを見る。
「……あんまり似合ってはなかったかもしれないけど」
「アハハ。気が向いたらまた着てあげらぁ。それじゃ、ふたりとも元気でな」
そう言ってまたバイクに跨りフルフェイスを被る。すかさず父さんが、
「真琴……、君が落ち着いたら、……俺も会いに行っていいかい?」
母さんは黙ったまま。フルフェイスだと表情もわからない。だけど、何も言わず、黙ってグッと親指だけ立てた。
エンジンをかけ、颯爽と去っていく。その後ろ姿を、父さんはじっと見送っていた。
「……母さん、かっこいいね」
「ああ。そうだろう。母さんは自由なところがいいんだ。そこを好きになったんだから」
黙って父さんが俺の手を握る。温かくて、なんだか安心した。
「あのバイク、いつかオレにくれるんだって。でも、オレはやっぱり車がいいな。みんなを乗せてあげる。そしたら淡路島をドライブしようよ」
父さんはしばらく黙っていたが、
「……いや、お前が免許取るよりもずっと早く、三人でドライブできるんじゃないかな」
そう言って微笑むと、車に乗り込んだ。
淡路島と明石海峡大橋を背にして、車は走って行く。窓を開けると、潮風と磯の匂いがいっぱいに広がり、大きく深呼吸した。




