【2015•しまなみ海道、おんな横断記】
今治と尾道を結ぶしまなみ海道を自転車で横断する二人の女子。ただの観光に思えたが、実はある思惑があった。一方の恋人を略奪して、別れさせてしまっていたのだ。どうにかして謝罪と贖罪をしようとするが……
am7時、今治のレンタサイクルショップ前集合。こんな早朝に落ち合う約束をするのは、人生で初めてだ。それも平日にわざわざ有休をとって、今から私はこの全長約70キロのしまなみ海道を自転車で完走することになっている。
「いや、やっぱり正気の沙汰じゃないな……」
思わずポツリと零した。社会人も2年目の今、運動といえばごくたまに行くスポーツジムでほんのちょっぴり走る程度の私が、松山市内からわざわざ出てきてこの早朝に、会社を休んでまで、しかもバイクではなく自転車でこの長い距離を走る予定なのだ。
───今更だけど、なんでこんな無謀なお誘い受けたんだろう。そりゃあ昔は、何度か激チャしたことはあったけど……。
激チャとは、自転車で長距離を爆走することだ。お金もなく、移動手段も自転車しかない当時高校生だった私たちは、瀬戸内海を挟んで向こう側の広島県に行ける唯一の手段が、このしまなみ海道を走り抜けることだった。約8時間程度、ひたすらに黙々と自転車を漕いで、途中休憩も挟みながら、ようやく到着した広島尾道でヘトヘトになって、何もする気力もなく力尽きる。あのあと結局同じルートを戻ることは体力的にも時間的にもできなくて、親に連絡して迎えに来てもらったっけ。
あのときのアレを一言で言い表すとすれば、若気の至り。後先考えずにただ前だけを見て、いや前しか見ずに、この海の向こうには都会が待っているという希望だけを胸にひたすら友達と声を掛け合いながら自転車を漕いだ。自転車に乗っている間だけは異様なテンションが続き、最後まで走り抜けられた。あれをライダーズ・ハイというのだろうか。だからこそ迎えにきてくれた親は、地面にへたりこんで動けなくなっている私たちを鬼の形相で叱咤し叫んだ。誰が尻拭いすると思ってるんだ、後先考えろ、と。
そして思う。もう一度それを今の私に言ってくれ。この無謀で浅はかなチャレンジを、今一度考え直せ、と。今日は一日、ゆっくりゴロゴロ過ごすのも乙じゃないか、次の日のことを考えて英気を養うのも仕事のうちだって。
社会人になって、誰も私の責任は負えない。負えるのは自分だけだと教えられた。その代わりに得たのは自由という名の新たな責任。結局自由とは自分に責任を負わせることだと、改めて知った。
正直今の私がまたこのしまなみ海道を完走できるかどうかは微妙なところで、明日も朝から仕事があることを考えると、できればこんな無謀なお誘いは受けたくなかった。それでも私は受けなければならなかった。なぜなら───。
「伊代〜。久しぶり!」
長いポニーテールをなびかせ、麻耶が小走りで近づいて来た。1年ぶりだろうか。以前より少しふっくらしている。
「久しぶりー!元気だった?」
「相変わらずだよ。今日は付き合ってくれてありがとうね。ちょっとレンタルの手続きしてくるから少しだけ待ってて」
そう言って、麻耶はレンタサイクルショップに入っていく。相変わらず綺麗で都会然しているな。今日の為に揃えたのか、見るからにおしゃれで高そうなウェアにブランドのシューズ。それに引き換え、急拵えで揃えた汚れてもいいジャージに何年ものかわからない私の靴。橋一つ向こうに住む本州の女は、こうも違うものなのかと恨めしく思う。
麻耶とは神戸の大学時代の友達だ。松山から進学を機に神戸に来た私と、幼少期から地元住まいだった麻耶は出会ってすぐ意気投合し、どんな時でも常に一緒に行動した。神戸の街を探索することもあったし、遠方に出かけることもあった。
卒業後、すっかり神戸の街が気に入った私は、このままここに暮らそうと思い麻耶と一緒に神戸のデザイン会社に就職した。しかし私の出身地が愛媛だとわかると、会社は新しく作った愛媛支社に新しい風を取り入れたいと言って、私だけを愛媛に飛ばした。こうして愛媛支社のニューホープとなった私は、刺激的だった神戸ライフにたった数年で終わりを告げねばならなくなった。
さようなら一千万ドルの夜景、こんにちは今治工場夜景。また会う日まで神戸ビーフ、お久しぶりね愛媛みかん。お元気で明石海峡大橋、また会ったな来島海峡大橋。そんなわけで、私はまた地元の愛媛に不本意ながらも戻って来てしまったのだった。
「夜行バスでね、6時に今治に着いたの」
麻耶は駅で降りてから橋の入り口であるここまで歩いて来たという。これから約8時間自転車を漕ぐというのに、いささか体力の配分を間違えてないだろうか。しかも宿泊を想定してないのか、荷物は携帯と財布が入る程度のリュックのみというかなりの軽装だ。
「さ、行こっか」
麻耶はどぎついピンクのレギンスを履いた脚で借りたクロスバイクに跨ると、ペダルを踏み締めた。私は家にあった兄のマウンテンバイクを借りたのだけど、久しぶりに乗る自転車は予想以上に背中と腰にくる。うう、これが加齢か。だけどペダルを一漕ぎしただけで6月の爽やかな風の中を往くことができ、一気に先ほどの陰鬱な雰囲気が吹き飛んだ。
───案外楽しいじゃん、これからも定期的に乗ろうかな、なんてお気楽に思ってしまう。紫外線対策で何重にも施した日焼け止めの上に更にアームカバーを着けて、ただひたすら、漕いで、漕いで、漕ぎまくる。平日だからか早朝だからか、あまり自転車に乗っている人は見かけない。今はまだ涼しいが、これからどんどん暑くなっていくだろう。ヘルメットの中はすでに蒸れて、これから心配になってきた。
「でもさー、まさか伊代がこんな誘いに乗ってくれるとは思わなかったよ!」
走りながら麻耶が言う。並走はしないで前後に分かれて運転しながらのお喋りだ。
「まぁ久々に麻耶に会いたかったしね」
私も前にいる麻耶に聞こえるように言う。側からみたら大声でお喋りする変人女二人組。プライバシーも何もあったものじゃない。そして思う。
───嘘だ。本当は会いたくなかった。
麻耶は続けた。
「ずっと会ってなかったもんね。電話はしてたけど。私が明広にフラれて、わんわん泣きながら伊代に電話して。あの時はマジで迷惑かけてごめんね」
「いいよそんなの」
走りながら、心の中で思う。本当に気にしないでほしい。
───私は、これから先麻耶から何か言われた時は絶対に断らないし、お願いされたことは叶えてあげなきゃいけないと思ってた。それがせめてもの罪滅ぼしだと思った。だからこんな無謀なアラサー社会人女しまなみ海道横断旅行を受けてたったのだ。
麻耶から明広を略奪したのは、私だったから。
「わー!海が綺麗だね!」
「ほんとに!」
「因島にはレモン大福があるんだって。後で買いに行こう」
「うん。どこかでスポドリ買い直さなきゃだし」
しまなみ海道は、大きく分けて6つの大島と7つの橋から成る。スタート地点の愛媛県今治から、大島、伯方島、大三島、生口島、因島、向島。これらの島にかかる橋を渡り、広島県尾道に到着する。しまなみ海道が愛される理由は、瀬戸内海を一望でき個性あふれる様々な島々を巡ることができる他に、その利便性と手軽さがあるのではないかと思う。近年の自転車ブームでおあつらえ向きに整備された道は、サイクリストから聖地扱いされているらしい。
ほんの数年ぶりのしまなみ海道だが、確かに以前よりサイクリストへの扱いが厚いなと感じる。コンビニもカフェも増えたし、レンタサイクル利用者が途中で投げ出してもいいように返却場所も至る所にある。走りながら、軽トラに積まれて戻されていく自転車を何台も見送りながら言ってやる。
「麻耶も疲れたらああして途中で帰れるみたいよ」
「失礼な。ちゃんと完走します!私こないだ神戸から赤穂まで走ったんだからね」
赤穂……と頭の中で地図を描き、距離にぞっとした。アスリートでも目指してんのか。
「今日は持って来れなかったけど、いい自転車買ったんだ。最近は休日いろんなところ行ってるよ」
「ふーん……それって、明広の影響?」
意地悪な質問に、麻耶は少し沈黙する。それからしばらくして、
「まさかぁ。ハマったアニメの影響。別れてしばらく経つし、そもそもアイツ自転車の趣味はなかったからなぁ」
白々しく答えるも、私は麻耶の明広との交際時代の黒歴史を覚えている。
数年前、麻耶は明広に影響され自分の趣味も、ファッションも、食事の好みまで変えていた。普段聴かない音楽を我が物顔でこれいいよと勧めてきて、ここ美味しかったんだぁ伊代も行こうよ、と教えてくる。全部明広の影響なのが丸わかりで、あの時出会ったあの彼と付き合えたのは、あなたじゃなくて私なのよとマウントを取られているのがずっと気に食わなかった。
明広と出会ったのは、麻耶と二人で行った門司旅行でだった。
明広は人力車の車夫として、観光客相手に必要以上に愛想を振り撒いていた。よく日焼けした肌に鍛え抜かれた筋肉、ぱっちり二重に白い歯を覗かせた明広の軽快な営業トークにまんまと乗せられた私たちは、貧乏学生だったにも関わらず財布が痛い運賃を払い、門司の街を明広の曳く人力車で駆け抜けた。人力車というのは本当に不思議なもので、『この人に乗せてもらった』という満足感が半端ない。明広の力強い腕に曳かれながら、広い背中を眺めつつ周る門司港は最高にドキドキしたのを、今でも昨日のように思い出せる。
話をしてみると私たちは皆同い年で、内定済みだった私と麻耶と違い、明広は就職活動に苦戦しているとのことだった。
「何か就活のネタになるかなと思ってこのバイト始めたんだけどね。なかなか難しくてさ」
案外打算的な男だったが、すぐに相手の懐に入り警戒心を解く話術と無邪気な笑顔に、私も麻耶もすっかり明広の虜になってしまっていた。初対面の人間ともこれだけ話せる話術があり、尚且つこの人たらしな性格なら、簡単に営業職にでも就けるだろうと思った。だがどうやら遊び感覚で始めたこの車夫のバイトを優先させているうちに説明会をすっぽかすという本末転倒を繰り返しているらしく、このままだとこの車夫のバイトを卒業後も続けていくかもしれないと言っていた。
私と麻耶は明広と門司港駅で別れてからもずっとこの話題で盛り上がり、ホテルに戻ってからもあの爽やかな笑顔が脳裏にチラついて離れず、一緒に撮った写真を何度も見返してはため息をついていた。
仲良くなったとはいえ観光客に対するリップサービスだっただろうし、私たちなんて年間何人も訪れる客の一人でしかないから、次の日にはもう忘れられてるだろうな───。
そう思って思い出を噛み締め諦めていた私とは裏腹に、麻耶はアグレッシブに行動を起こしていた。私の知らない間に明広と連絡先を交換しており、旅行後も何度も会っていたらしく、それどころか明広の就職活動に協力してあげていた。麻耶が私にそれを打ち明けたのは明広が麻耶の親戚の会社に内定を貰ってからで、しかも、付き合うことになったと同じタイミングで告げられた。
こうしてまんまと明広を神戸に呼び寄せることに成功した麻耶と、出し抜かれた上に愛媛に追いやられた私。ラブラブの二人から私は完全に蚊帳の外で、華やかな都会を堪能する明広と麻耶の投稿をSNSで見ては憎悪が募り、祝福なんて絶対してやるもんかとスマホを放り投げたものだ。だから、僅か数ヶ月で破綻したと麻耶から泣きながら連絡が来た時は、東予湾を眺めながら不謹慎だがガッツポーズをとったものだ。その原因を作ったのは、紛れもない私だったのだけれど。
「でもさぁ、麻耶って明広と付き合ってる時めちゃくちゃ感化されてたよね。急にボルタリング始めたりベトナム料理作り出したり」
前を走る麻耶に話しかける。顔が見えないから強気で言える。車もあまり走行していないから、本当は並走してもいいのかも知れなかったけれど、グングン進む麻耶についていくのが精一杯だ。
麻耶に、明広と呼び捨てするのは、私なりの反抗のようなものだ。麻耶からしたら私と明広は出会いが一緒だったし違和感がないようだが、私だってアンタの後に明広と付き合ったんだから呼ぶ権利はあるんだという僅かな矜持が私にそうさせた。
「アイツなぁ……、デートがいつもスポーツ系だったんだよなぁ。ついていくのが大変でさ」
麻耶のぼやきに、知ってるよと心の中で返事する。日々のトレーニングが、明広のあの強靭な体を作っていた。あの太い上腕二頭筋と胸板に抱かれて恍惚とならない女はいない。
「でももう全く未練ないよ。今考えたらちょっとどうかと思う言動多くて。女はヤニ吸うなとか言うくせに自分はバカスカ吸うし、私が一人でラーメン屋行くと怒るし」
一通り不満を述べた後、伊代に言ったことあったっけと言われて、うん、と返事する。知ってるし、なんなら私も言われた。明広は女に変な幻想を抱いてる。しかもそれを押し付けてくる。いつまでそんなもん好きなんだ、いつまでそんな夢追ってんだ。会うたびに言われていた気がする。
「私にめちゃくちゃ自分の理想押し付けてきてさ。その末が、『他に好きな人ができたから別れてくれ』だもん。ふざけんなって感じ。私がどんだけ尽くしてやったか」
麻耶の怒号を孕んだ声に少し萎縮する。その、『他に好きな人』というのが、すぐ後ろを走る私だと知ったら、どんな顔するだろうか。
しばらく沈黙が続いた後、思いきって聞いてみる。
「……もしかして、今日のこれって、このまま尾道に明広に会いに行くのが目的?」
「え?」
明広は麻耶と別れて私と付き合うことになると、気まずくなったのか会社も辞めて今度は広島の尾道に渡った。愛媛住まいの私は麻耶より少しだけ地の利を得る形になり、しまなみ海道を突き抜けて、車で何度も明広と逢瀬を重ねた。
明広からしたら、門司港で出会った二人組の女を、どちらも恋人にしたのだから不思議な感覚だっただろう。それも、麻耶には私たちのことは内密で。
「……明広が今尾道にいるの、なんで伊代が知ってんの?」
麻耶の質問に、一瞬背中が冷えた。
「……あ、えっと、ホラSNSで報告してるの見て。私もずっとフォローしてるから」
「…………ふぅん」
取り繕い方がおかしかったかも。怪しまれたかな。一応、私も明広とは友人という設定だから、おかしくはないはずだ。顔が見えてないことに感謝しながら走っていると、
「明広が目的じゃないよ。しまなみ海道って、パワースポット沢山あるらしいから。縁結びの神頼みしたいだけ。もう本当にあんなヤツ勘弁だわ。今思えば、なんであんなのと付き合ってたんだろ」
強がりだろうか。でもなんとか怪しまれずに済んで良かった。
またしばしの沈黙の中、黙々とペダルを漕ぐ。前方の麻耶の美しい曲線が描く臀部を眺めながら、確かに麻耶は明広と付き合って抑圧されてたときより今の方が断然生き生きしていると思った。
そして思った。───私は今、どうだろうか。
友達の彼氏にSNSを通じてメッセージを送るのはルール違反だと思ったけれど、この方法しか、明広に連絡を取る手段がなかった。覚えてくれているか不安だったけれど、彼は私のこともちゃんと覚えてくれていた。久しぶりに会いたい、バレたら気まずいから麻耶抜きで、と言うと、明広は簡単に釣れた。
愚痴を聞き、なんでも肯定してあげて、不満に寄り添い、都合のいい女になるよう徹底するようにした。何故なら明広が欲しかったから。すると明広は麻耶を捨て、簡単に私のものになった。あまりの節操の無さに、自分のことは棚に上げ呆れたほどだ。
麻耶のものを横取りして、今まで何も勝てなかった麻耶に、私はようやく勝てた気がした。
道ゆく女が皆振り返ってため息をつく、俳優顔で長身のイケメンマッチョ彼氏を手に入れた。私はようやく、欲しいものが手に入ったんだと有頂天になった。───そして、自由を失ったことに気付いた。というより、イケメンと付き合うことにも責任が生じることにようやく気付いた。
明広は、とにかくうるさかった。私が好きなぬいぐるみもカプセルガチャも、全部子供っぽいと一蹴し、好きなキャラクターも全否定した。それどころか大事にしていたキーホルダーもマグカップも勝手に捨てられていて、大喧嘩したこともある。それでも許してしまうから、イケメンは顔で得してやがる。悔しいことに。
結局惚れた方が負けなのだ。だから麻耶も自分の信念なんて簡単に売り渡し、どこにでもいる普遍的でつまらない女に成り下がった。そして、今度はその順番が私にきただけのことだった。
何度目かの橋を渡るときがきた。やっぱり橋を渡り次の島に行く時はクエストをこなしたみたいで気分がいい。麻耶は余韻を楽しむことをしないのかグングン先に行く。私も負けじとついていくが、本当はちょっと休みたい。脚も背中も痛いしハンドルを掴む腕も震えている。ちょっと頼んでみるかと声をかけようとしたとき、麻耶が話しかけてきた。
「この先にさぁ、うさぎの島っていうのがあるんだって!行ったことある?」
「大久野島でしょ?ないよ」
「意外。伊代好きそうなのにー!」
明広を誘ったことはある。けんもほろろに断られたが。アイツは小動物とか可愛いものを愛でるということにてんで興味がない。嫌なことを思いだして沈みかけたとき、
「そろそろ休憩しよっか。」
麻耶が言ってくれた。よかった。
「次の多々羅大橋渡る前に色々あるみたいだから、そこで」
次の橋までお預けか。きばろう。
ミカン畑をぐるりと見渡して、海岸沿いをただひたすら進む。次の橋は案外すぐに到着した。大きな道の駅があったのでレストランに入り、
海鮮丼を頼んだ。ようやく一息つけ地図を見ると、この大三島は丁度半分くらいの場所にある。
残り半分……。
少し挫けそうだったが、麻耶はスマホを睨みながら、
「げ!大山祇神社って全然道沿いから外れるんだけど!もういっか。遠隔お参りしとこ」
そう言って外に向けて念を送っている。
「いいの?パワースポットが目的だったんでしょ?」
「……うん、もういいや。それより、早く食べよ」
運ばれた海鮮丼を写真に撮ると、いただきますといって食らいついていく。もしかして、パワースポットなんてただの口実で、何か別の目的があったのかな。罪滅ぼしでこの旅行に乗った私のように。
美味しい!と目を輝かせていた麻耶は急に箸を止めると、じっと海鮮丼を見つめ、
「……そういえば明広もこれ好きだったわ。なめろうとか」
思い出したようにしみじみと言った。思わず零れたであろうその言葉に、私の苛つきは、急激にマックスに達した。
「あのさぁ、麻耶はもう明広のことは忘れたほうがいいと思う!」
シンと場が凍りついた。店員さんも、他の客もこちらに注目している。言うはずのなかったことを言ってしまい、しまったと思ったがもう時すでに遅し。麻耶はびっくりしたままこちらを見ている。
私の知らない情報を言われたからか、いつまでも明広の彼女面されたのが気に食わなかったからなのかは分からない。ただとにかくイライラして、麻耶に怒鳴ってしまった。気まずい空気が流れ、居た堪れなくなり、残りの道が頭に浮かんでは肝が冷えていく。ゴールまでまだまだあるというのに、私は、なにをしてるんだろう……。
麻耶は口を開くと、
「……もう忘れてるって。でも、ごめん。ちょっとアイツのこと話しすぎてたかな。もう言わないようにするね。伊代、明広のこと嫌いだもんね」
なんのことを言っているのか分からず、
「……嫌い?私が?」
「うん。伊代、私が明広の話したら不機嫌になるじゃん」
「違うよ。……それは麻耶にムカついてたんだって。明広に合わせて趣味も自分も変えるから。なんであんなやつに感化されてんのって」
思わず今まで燻っていた胸の内を曝け出した。
明広に言われて、タバコも辞めて自由に旅行もしてくれなくなった麻耶。こんなに簡単に自分を変えてしまって、情けない。
私は、自由な麻耶が好きだった。カッコいいライダーズを着て、タバコを吸い、思い立ったらすぐにどこにだって参上する。私はこれが好きなんだから邪魔しないで、って全身で言ってる麻耶に憧れてた。
そう思って、麻耶に言った言葉は全部自分に返ってきた。私こそ、明広に言われて自分を曲げてしまっている───。明広を手に入れる為に卑怯な女に成り下がり、そして理想の女になり変わる為に自分を犠牲にしている。
麻耶は驚いたように、
「そうかなぁ……。でも、伊代の方が絶対感化されやすいよ。いつも私の真似するじゃん」
え、何のこと?という顔を私がすると、冷ややかに言い放つ。
「……私の方が先に好きになったのに。とったよね」
微かに悲しそうな顔をしながら、それでも責めるような声の凄みに一気に体温が下がる。
───嘘。麻耶は、私が明広を奪ったことに気づいていた……?
麻耶は無言で持っているスマホを指差すと、
「バリィさん。私の方が好きだったのに」
私のスマホケースに貼ってある今治市のゆるキャラ、バリィさんを指して言った。咄嗟に言い返す。
「……っバリィさんは!私のが絶対先!だって私愛媛出身だよ!?とってなんかない!」
「でもグッズとか集め出したのは私が先なのに真似して伊代も集め出した。最近は全然付けてないけど、卒業したの?」
大学の頃にあった空前のゆるキャラブームで、周りの女子がブランドの服や靴を持っている中、私たちだけはキャラクターもののグッズを買い集めていた。中でもバリィさんは私たちのお気に入りで、見たことがないバリィさんグッズがあれば条件反射で買ってしまうほど好きだった。そして明広に子供っぽいと馬鹿にされ、持つことも買うことも禁止された。
「……今も好きだよ。今日だってなんか可愛いのあればお迎えするし。それに仕事でもね、イラスト描かせてもらってるんだよ」
私が言うと、麻耶は目を輝かせて、
「やっぱりあの絵、伊代だったんだ?凄いじゃん!なんでもっと早く教えてくれないの」
私は会社が出してる広報誌のイラストを任せてもらえ、ずっとイラストレーターになりたいと思っていた夢を一歩前進できていた。学生の頃から麻耶は応援してくれていたが、連日バタバタしていて、報告できていなかった。まだ小さなイラストカットだけど、いつかはバリィさんのようなご当地ゆるキャラを生み出してみたい。
「最近SNS見てても元気なさそうだったし、もうゆるキャラとか好きじゃなくなったのかなって思ってた。良かった。夢叶えたんだね」
明広にSNSの投稿を監視されていたとは言えず、しかも奪ったのに祝福までしてくれる麻耶に、罪悪感と後悔で何も発せなくなってしまった。
私、最低だ───。
バレなきゃいいと思っていたし、罪滅ぼしはこの無謀サイクリングに付き合ってあげることで帳消しだなんて都合のいいこと考えていたが、やっぱり麻耶に明広を奪ってしまったことをきちんと謝りたい気持ちが膨らんでいく。許してくれないかもしれないし、もしかしたら絶交されてしまうかもしれない。それでもいつかは許してくれて、また対等に同じ好きを言い合える関係に戻りたい。
昼食を平らげ、少し休憩してからまた自転車に跨ると、少しペース落とそっかと言ってくれ、ゆっくりスタートする。
麻耶はよく見てくれてる。優しいし、潔くてかっこいい。趣味がただ合うだけなのかも知れないが、否定しないでくれるし、応援もしてくれる。明広との出会いこそ出し抜かれて卑怯だと思ったけど、それだってただ行動を起こしただけのことだ。
結局、行動を起こさないと何も出来ない。夢を叶えるのも、恋人を得るのも。
麻耶は私が元気なくて心配してた、て言っていたけれど、麻耶も明広と付き合ってる時はそうだった。似合もしないタイトなスカートに女子アナみたいなメイクして、死んだような目をしてた。自転車に乗って好きなことしてる今の方が、キラキラしててカッコいいと思う。
「この辺、色々あるんだね。全然知らなかったな」
「温泉とかもあるみたいよ」
「入りたいけどメイク落ちるってー!」
出発してからもう5時間は経過している。やっぱり運動不足の大人が気軽にするチャレンジじゃなかった。塗装された道は迷うことなく進路はこっちだと教えてくれているが、果てしなく続く道の先、尾道は未だ見えず、心が折れかけてしまう。立派な多々羅大橋を抜け、レモンの木々を横目に生口島と因島を完走し、スマホの位置情報は少しずつゴールに近づいていることを教えてくれた。何本目かも分からない水を飲み干し、ついに向島、最後の大きな島にかかる因島大橋が見えた。この島を渡り切ってしまえば、あとは尾道が見えてくる。
ああついに、と喜んだのも束の間、前を走っていた麻耶は急に横に逸れて自転車を止めた。
「……伊代。この橋渡ったら、ちょっと話したいことがある」
神妙な面持ちで言う。私も覚悟を決める。
「……私もある。じゃ、行こっか」
潮風を全身に受けながらペダルを漕ぐ。目の前の空は陽が落ちかけてオレンジ色がどこまでも広がっており、少し下に目線を逸せば、紺碧の海が腕を広げている。今まで散々照り付けて私たちの体力を消耗してきた太陽の光は、今は暖かくて全身の細胞も喜んでいるようだ。
───気持ちいい。出来るなら、ずっとこのままでいたい。
ついに橋を渡り切ると、ちょうどいいスペースを見つけ、自転車を停めて降りる。麻耶は水を一口飲んでからゆっくり語り出した。
「……実はさ、明広から連絡来たんだ」
思いがけない麻耶の言葉に、私の頭は真っ白になった。何を話されるかは分かってなかったが、これは完全に予想外だった。
───明広から?なんで?───
そして一瞬のうちにマグマのように怒りが込み上げ、ほとんど衝動的に麻耶に掴みかかった。そして叫ぶ。
「お前か!!!!」
目の前には、驚いて硬直している麻耶の姿があった。ほぼ泣き叫んでいる私は、夜叉のようだったに違いない。なりふり構わず、それでも頭の片隅は冷静に、数日前の明広から受けた電話をフラッシュバックさせた。
───『他に好きな人が出来たから、別れて欲しい』───。
その言葉は以前私が麻耶から明広を奪った時に、明広が麻耶に言った時のセリフと全く同じだった。
人から奪うと、奪われる。簡単に靡く男は、他の女にも簡単に靡く。ただそれだけのことだったが、まさかこんなに早くフラれるとは思わなかった。誰もが認めるイケメンで、自慢できる彼氏だった。多少モラハラ気味のところはあったし、私が好きなものは悉く否定するような奴だったけれど、でも、大好きだった。
別れたくないと散々ごねたが、結局黙って全部無視されてしまった。せっかく仕事が楽しくなりだしたタイミングだったのに、喜びの余韻は悉く消し去ってしまい、三日三晩泣いて過ごして仕事にも支障を来たした。
思えば明広は最近どこか余所余所しかった。常にスマホで誰かと連絡取り合っていたようだし、話しかけても上の空だった。
───まさか麻耶と再度連絡取り合って、焼け木杭に火がついていたとは。私がしたことは許されないことだけど、でも、理性で割り切れるほど男女の仲は単純ではない。私から明広を奪い返すなんて。酷い、酷い、酷い───。
「ちょっと待って待って!連絡は来たけど、ただの悩み相談だったけど!?」
「……え?」
鬼の形相で掴みかかった私に、麻耶は驚きながらも話してくれた。
「───久々に連絡来たと思ったら、私と別れた後に付き合った伊代とも結局別れた。今他に好きな人ができて、今までは言われるがままに恋人をつくってきた人生だったけど、今度こそ本気で自分から好きになった。でも、こんなことは初めてだから、どうしたらいいかわからない、って……。
最初は元カノにそんな恋愛相談してくんなって怒鳴ってやりたかったけど、あんまりにも悲壮な感じで言ってくるもんだから、老婆心でついアドバイスしちゃったよ」
飄々と話す。唖然としている私に、
「なに?私が伊代から略奪し返したと思ったの?んなわけないじゃん。ウケる」
カラカラと笑っている。何を言っているか分からず、信じられないものを見るような顔をしている私に、
「私はもう気にしてないよ」
綺麗さっぱり、吹っ切れた顔をしている。
「……最初はね、まさか明広の次の女が伊代で、しかも私と付き合ってる時に伊代とも付き合い出して、挙げ句の果てに別れさせられたと知ったときはめちゃくちゃ腹たったけど、でももう過ぎたことだし」
麻耶はそう言って笑った。麻耶を裏切り、略奪して、そして今まで黙ってたのに。今も勘違いで責めようとしたのに。
愕然としている私に、
「もしかして、伊代はまだ明広のこと引きずってるの?」
そう聞かれ、ギクリとした。正直まだ未練はある。だけど、また私の趣味にダメ出ししてくることも、明広の理想に沿わなければ責められる生活も、また戻れるかと言われるとぞっとする。それに、今日自転車に乗りながらずっと考えていた。
私は、私の好きを大切にしたい。誰かに侵害されることも、責められるのもごめんだ。そして、それに素敵だねって賛同してくれる人のことを大切にしたい。
イラスト描かせて貰えたよって報告したら、広明は鼻で笑った。だけど麻耶は夢を一つ叶えたねって言ってくれた。
麻耶も、明広と付き合って無理をしていた頃より、今の方がずっと綺麗でカッコいい。誰かに言われて変わる自分より、自分がいいと思う自分でありたい。
「麻耶、……ごめんね。ずっと謝らなきゃって思ってた。私最低だった」
明広と付き合えた後も、ずっと後ろめたさと後悔が渦巻いていた。麻耶に勝てたと思っても、優越感より罪悪感の方が強かった。
「いいよもう。私たち二人ともフラれて、痛み分けってことで。私たちは最初から明広には選ばれなかったってだけだよ。明広から好きな人の相談受けたけど、そりゃ私らじゃ敵わんわって相手だったよ」
麻耶は苦笑いしながら続ける。
「タバコとか禁止されてたけど、もう全部解禁。自由万歳!今日一日、伊代はいつ謝ってくれるのかなーって思ってたんだ。まさかこんな終盤になるとは思わなかったかな。だから助け舟出したつもりだったんだけど……そういや、伊代の話したいことってこのことだったの?私に謝りたいってだけ?」
麻耶に聞かれ、私は腹を決めて言う。
「……それもあるけど、私、会社辞めようかなって思って」
「えっ」
驚いて口を開けている麻耶に、
「勿論今すぐにじゃないよ。イラストのお仕事が軌道に乗ってから。実はこないだの広報誌の他にもちょっとずつやってるんだ。まだ一人だけど、ファンも出来たの。だから、これからもちょっとずつ夢を追っていきたい」
「いいじゃん!」
即答で肯定してくれた。明広には否定された夢だったけど、私はきっと、誰に否定されてもこれだけは続けたいと思っている。言葉にしたら叶わなくなるかもと不安だったけど、肯定されて改めて頑張ろうと思えることもある。ああ、麻耶ありがとう。
「尾道着いたらさ、ラーメン食べてお祝いしよ。完走と、伊代の新しい門出に」
「うん!消費したカロリー、全部取り返してやろうぜ」
いつか夢叶えたら、明広にも報告してやろう。
アンタが否定したゆるキャラの世界で、今私は食っているんだって。
そして見せながら、このキャラクターを作ったのは、私なんだぞって自慢してやる。
「さ、あとちょっと頑張ろう!」
尾道に向けて、目標に向けて。私は今一度強くペダルを踏み締めた。




