第35話 信頼
引き続き、領都ハーバス、ライカ・カドモンド伯爵別邸の応接室。
室内には、『情報共有』を終えたばかりの、重く沈殿したような空気が漂っていた。
「……坂本、殿……」
「あ、無理に喋らなくていいですよ。ハーブティー、淹れ直しましたから」
坂本昇が、そっとカップを差し出す。
アレン・ハーバスは震える手でそれを受け取り、眼鏡の位置を直した。その顔は、王都の官僚としての優秀な仮面が剥がれ落ち、ひどく憔悴している。
「……感謝する。それにしても、これほどの情報を瞬時に流し込まれるとは 」
「アイは効率派ですからね。僕も最初は、しょっちゅう倒れて意識を失いましたよ 」
坂本が苦笑いしながら隣に座る。
部屋の隅では、ライカ伯爵とユタル老師が、アイの提示した【自由奔放ルート】を基に、王都への報告書の最終構成を練っていた。
(坂本昇という少年。使徒という強大な力を傍に置きながら、なぜこうも自然体でいられるのだ)
アレンは、隣に座る少年を横目で観察した。
(強すぎる力を持つ者は、多かれ少なかれ傲慢か孤独に染まるものだ。だが、坂本にはそれがない。むしろ、どこか達観した穏やかさがあるものだ…)
「―ねぇエリスちゃん、さっきの広場の屋台! あれはやっぱり、蜂蜜をかけすぎだったと思うの。でもあの食感、癖になりそうじゃない?」
「ええ、真鍋様。仰る通りですわね。ですが、次はもう少し落ち着いた場所で――」
楽しげな女子トークと共に、応接室の重厚な扉が開かれた。
入ってきたのは、二人の若い女性だった。
一人は、真鍋咲希。
異世界に来て吹っ切れたのか、その足取りは軽く、元気な声を響かせている。
もう一人は、この屋敷の主であるライカの一人娘、エリス・カドモンド。
茶色の髪、日焼けのない透き通るような肌。黙って立っていれば、亡き母の面影を残す儚げな美女。
真鍋は、坂本の姿を見つけるなり、先ほどまでのテンションのまま駆け寄る。
「ちょっと坂本君、聞いてよ! あのね、激辛パイがさぁ…… 」
真鍋の言葉が、物理的に止まった。
視線の先には、伯爵、老師。そして、死にそうな顔をしながらも、自分を凝視している見知らぬ端正な貴公子。
「あ……。えっと、あ、の……。会議中、でしたか?」
一瞬で顔を赤くし、カニのように後退しようとする真鍋。
だが、その時。
背後にいたエリスは、流れるような動作でカーテシーを披露し、
「皆様、ごきげんよう。……父上、老師。そして、アレン様。騒々しく戻りまして、失礼いたしましたわ」
凛とした声。
一切の無駄がない完璧な淑女の礼。
さっきまで「激辛パイがね!」と笑い合っていたはずの少女はどこにもいない。
そこにいるのは、”完璧な伯爵令嬢”だった。
(えっ、待ってエリス! 私だけ置いてけぼり? それってズルくない!?)
真鍋は、隣のエリスを強烈なジト目で見つめた。
「はぁ、……エリス。お前は相変わらずだなぁ 」
ライカが苦笑を漏らす。
エリスは澄ました顔で、「淑女として当然の嗜みですわ」と微笑んだ。
アレンは、その様子を呆然と眺めていたが、真鍋が自分に意識を向けたことで、背筋を伸ばした。
「……あ。すみません、私は真鍋咲希です。坂本君と一緒に……あー、使徒っやってます 」
「アレン・ハーバスだ。真鍋殿、お噂は伺っている」
アレンは官僚らしい微笑みを返すが、真鍋は持ち前の、少し落ち着いたがそれでも親しみやすい距離感で詰め寄る。
「アレンさん、エリスちゃんの知り合い? なんだか、お疲れみたいだけど、坂本君が何か失礼なことしました?
たまに天然で人を振り回すから」
「……いえ、坂本殿には感謝している。ただ、少々、情報の奔流に酔っただけで」
「あー、アイちゃんですよね。あれ、頭痛くなるよねー。
坂本君なんて、意識失って、よく倒れてますよ。
それで、どれだけ私が心配したことか… 」
「いや、僕の場合は仕方が無かったというか…… 」
「へぇ、仕方がないんだぁ… 」
「で、でも、アレンさん、アイは慣れればとても便利ですよ!」
坂本がタジタジになりながら話を変えようとするが、
目の前の真鍋に詰め寄られ
結局、
「はい、すいません、今度は気をつけます」
と力なく頷く坂本の横顔。
それは、精霊を操る英雄でも、異世界の使徒でもなかった。
ただの、”勢いのある女性に抗えない被害者” の顔だった。
その姿に、アレンの中で、ある光景がフラッシュバックした。
王都の自宅。馬車の中。
自分の意見を一切聞かずの一人の女性。
「はい、姉上」と答え続けてきた己の半生…。
アレンは気づかぬうちに、口の中でその名を呟いていた。
「……ジーナ……」
その微かな呟きを、真鍋の地獄耳が逃さなかった。
「え? ジーナ?」
真鍋がパッと顔を輝かせ、アレンの顔を覗き込む。
「アレンさん、今、ジーナって言った? もしかして……そのジーナさんって、アレンさんの彼女さんですか?」
「………………」
アレンは、石のように固まった。
「え? だって、あんなに切なそうな、遠い目をして名前を呼ぶなんて。きっと王都に残してきた、大事な恋人なんだよね! 素敵じゃない、アレンさん!」
真鍋の妄想は加速する。
対するアレンは、あまりの正解とギャップに、脳が停止した。
恋人? あの、戦車のような勢いで自分を轢き潰していく実の姉が?
「……違う。彼女ではない……」
「照れなくていいですよ! あ、もしかして、訳あり? 身分の差とか?」
「……姉だ」
アレンは、絞り出すような声で言った。
「私の上には、ジーナ・ハーバスという、王立魔法学校の教官をしている姉がいる。……君が今、坂本殿に詰め寄っていたその姿が、あまりにも姉の……その、重なる部分が多かったというか…… 」
今度は坂本が、アレンの肩にそっと手を置いた。
その掌からは、「わかります。言葉にしなくても、すべてわかりますよ、アレン殿」という無言のメッセージが伝わってくる。
「えーっ! お姉さん 魔法学校の先生ですか! 凄いですね!」
真鍋はアレンの絶望をよそに、ますますテンションを上げる
。
「ねぇエリスちゃん、ジーナさんって知ってる? 会ってみたいよね。ね、エリスちゃんも一緒にどうかな?」
「……ジーナ様は、その、非常にパワフルな方ですわ。真鍋様となら、きっと意気投合なさるでしょう……色々な意味で」
アレンは、遠い目をして夕暮れの窓を眺めた。
魔法学校の教師、ジーナ。
剣の腕を隠し持つ策士、エリス。
そして、この世界を物理的に壊しかねない、真鍋。
(……もし、王都でこの三人が合流することになれば。……それはもはや、『天災』ではないか?、それとも、【使徒】力の制御につながる!? )
アレンは、隣に座る坂本の手を、がっしりと握り返した。
「……坂本殿。王都までの一カ月間、お互い、頑張りましょう」
「……ええ、…というか、アレンさんも大変だったんですね……」
共通の敵――いや、共通の【災難】を予感した二人の男の間に、情報の共有では決して得られない、強固な友情の鉄鎖が結ばれた瞬間だった。
部屋の隅で、真鍋とエリスが ”王都のスイーツ店”について談義を広げ始める。
後にアルサーク王国の歴史家は、この日のことを「使徒と王都の融和が始まった日」と記したが、その当事者たちの心境が、単なる【女難の同志】であったことを知る者は、誰もいない。




