深夜、幼女を拾う 8
この日の蛍太郎の受業態度は酷いものだった。タマのことが気掛かりで、ずっと心ここにあらずといった具合だった。内容なんてほとんど頭に入っていない。
彼は基本的に、講義中は1人でいる。だから様子がおかしいことを指摘する人はいなかった。
「(タマのやつどうしてるかな。テレビを見るか、本を読んで時間を潰してくれていたらいいんだけど)」
3講時が終わった。教室を移動しなくてはいけないというのに、蛍太郎は机に肘を乗せて頬杖をついたままだ。
そんな彼に声をかける人がいた。
「柏木くん。もう移動だよ」
「っ!? びっくりした……」
藤原夕花だ。ぼーっとしたまま動く気配のない蛍太郎を心配したらしい。
「ノートも片付けてないじゃん。早くしないと、先生にどやされるよ」
そして彼女は当たり前のように、蛍太郎の準備を手伝い始める。
驚いた蛍太郎は、慌ててそれを止めようとする。
「大丈夫、先に行ってていいよ。こんなことしてたら、藤原さんもどやされるって」
「私は平気だよ、あの先生、女に甘いじゃん」
しれっと明かされる教授の男女差別。
だがそうだとしても、自分の落ち度に他人を巻き込むのは申し訳ない。
「あとは自分でやっとくよ」
「あとはって、ノートをカバンにしまうだけじゃん」
その通りである。支度をほとんど委ねてしまった。
「わざわざごめん」
「気にしないの。私が勝手におせっかいしたんだし。ほら行こ!」
夕花に連れられて、次の教室に移動する。
2人で一緒に入ったものだから、流れで席も隣に座ってしまった。
あれだけ気にしていた教授は、まだやって来ていない。意外と始業まで余裕があった。
「ねぇ柏木くん。さっきの受業の時、ずっと上の空だったけどどうかしたの?」
「え? えっと、その――」
まさか訊ねられるとは思っていなかった。何と答えればよいのかわからず、口をつぐむ。
そんな彼の気も知らず、夕花は興味津々の視線を向ける。
何かよい言い訳はないだろうか。
…………そうだ。
「昨日の帰り、猫を拾ってさ。迷子っぽいんだけど、首輪も付けていないから、どこの子かわからないんだ。どうやって家を探してやればいいかなって、ずっと気になってるんだ」
大丈夫。間違いは言っていない。はずだ。猫ではなく人という違いはあるが。
これなら怪しまれることはないだろう。
むしろ、正直者っぽい夕花のことである。何も疑わないに違いない。
「へぇー。迷子猫かぁ。交番とか、ネットの掲示板に届けられてなかった?」
よし、信じてくれた。この場は誤魔化せそうだ。
「調べたけど、特に情報はなかったよ」
「そっかぁ、大変だね……。そうだ、私にも手伝えないかな? この講義終わったらヒマ? 柏木くんの家に行っていい?」
待て待て待て! 思っていたのと違う方向に話が進み、焦る蛍太郎。どうにかして切り抜けなければ。
「今日はバイトが入ってるから、家に来るのはダメかな。大丈夫、気にしないで、きっとすぐに見つかるはずだから」
不自然なくらい早口だ。バイトも嘘である。何かを誤魔化そうとしているのが丸分かりだ。
それでも信じてしまうほど、藤原夕花は正直者だった。
「そっか残念。私にできそうなことがあったら相談してね」
「ありがとう。いざという時は頼るよ」
そんなことを言っていいのか柏木蛍太郎。彼は自分で墓穴を掘っていることに気付いていない。
このタイミングで、教授がやって来た。話を打ち切るには丁度良い。自然な形で終わらせることができた。
しかし結局、蛍太郎はこの受業にも集中することができなかった。
終業時間を告げるベルが鳴ると、蛍太郎は夕花から逃げるように教室を飛び出した。
「それじゃあね、藤原さん」
「えっ? うん、また明日ね」
明日また色々訊かれるんだろうなぁ。そう思うと、気が重かった。
すぐに駅には向かわず、図書館に寄る。病気関連の書籍が並ぶ棚で、何冊か手に取っていく。
「あった。この辺かな」
記憶喪失や、記憶障害に関する本だ。タマの症状について、何か知る手がかりになるかもしれない。
素人の自分ができることは少ない。そもそも素人のくせに、やってはいけないこともある。
わかっていても、手を出さずにはいられないのだ。
手に収まっているのは5冊。これだけあれば十分だろう。カウンターで本を借りると、今度こそ駅に向かった。