2.カスミソウ
あの日以来、アンリは毎日昼休憩になるとお弁当を持ってピアノの置かれた礼拝堂に姿を見せるようになった。アンリ曰く、倒れないか心配だからだそうだが人をなんだと思っているのだ。食事はきちんととっている。
でも彼のお弁当はおいしいので、ナタリーは渋々ながら来訪を許可した。
なんて言ったら、間違いなくアンリに怒られるだろう。
あの日、空腹が満たされていく感覚が懐かしすぎて、泣きながらお弁当をほおばっていたらナタリーの手首を握ったアンリが『細すぎんだろ!』と激怒。
壁に追い詰められながら、お弁当は二人分つくるし頼むから食べてくれ、とほとんど脅迫に近い懇願をされ、ナタリーはそれを二つ返事で了承したのである。
日々仕事に忙殺されているナタリーは、食事こそとっているものの、さっと食べられるパンとか、具のないスープとか、そんなのばかりだ。
そんなナタリーにとって、アンリの提案はこの上なくありがたいものだった。
アンリのお弁当はとても美味しくて、初日であっさりナタリーの胃袋はつかまれた。
色どりもきれいで、ナタリーが見習いたいほどの女子力である。
「今日のピアノは食後でいい?」
「ナタリーさんの好きな方で」
ナタリーは、毎日お弁当のお礼として、食事の前か後にアンリのためにピアノを弾いている。
むろん、最初は、お弁当に使われている分の食費を手渡そうとしたのだが、すっごく不機嫌そうな顔で『いらない』と言われたのだ。だいぶ傷ついた。
それでも、なにかお礼をさせてくれと食い下がるナタリーに、アンリからピアノを聞かせてほしいと頼まれた。曲は何でもいいからと。
誰かにピアノを聞かせるなんてナタリーにとっては初めての経験だったから、最初はずいぶん恥ずかしかった。けれど最近ではすっかり慣れっこになり、ときどき、ヴァイオリンを弾くアンリと一緒に協奏したりもする。
アンリにピアノを聞いてもらう時間は、少し不思議だ。ずっと昔から、アンリとこうして過ごしていたような気持ちになるのだ。そんなわけないはずなのに。
(というより、本当にこんなことでお礼になるのかしら……? アンリさんは、毎日お花も持ってきてくれるのに……)
出会った日、アンリは持っていたニワゼキショウの花をナタリーにくれた。ナタリーの髪色と同じ、はちみつ色のリボンがかけられたそれは、しかし明らかに他の誰かにプレゼントするために用意されたもので、受け取るかどうかはかなり悩んだ。
けれど結局
「あなたに渡すために、僕は今日この花を持っていたんだと思います」
と言われてあえなく撃沈。思っていたよりキザな人なのねと批難してみたものの、そうですか? とかわされた。やっぱり、というか、絶対キザだ。多分無自覚の。
「へえ、城下町でお花屋さんを……」
「はい。六年前に父から店を継ぎました。ありがたいことに、今でも城の花はうちの店に依頼してもらってます」
今日のアンリのお弁当の中身は具だくさんのサンドイッチ。ナタリーの好きなポテトサラダのものもある。
初日から既に胃袋をがっつりと掴まれていたナタリーは、もうアンリのお弁当のとりこだ。
さっそくポテサラサンドに手を伸ばしたら、プチトマトを口に突っ込まれた。
先に野菜を食えと言いたいらしい。おとなしくトマトを咀嚼し、ごくんと飲み込む。
「では、城の花瓶に生けられているお花はあなたが……。失礼ですけど、今、おいくつですの?」
「……えっと……」
「あ、言いたくなければいいのです……! 自分は言いもしないで、不躾でしたよね。わ、私は今年で20になりますわ」
「そう、なんですね。僕よりも、一つお姉さんですね」
「え……」
まさかの年下だったとは、とナタリーは頭を抱えた。
(え? ということは……なんですの? 私、自分よりも年下の男の子にお弁当を……? お腹の音も聞かれて……? え?)
年上である身としてはあまりに情けなく、穴があったら入りたい。
今からでもなんとか挽回できないだろうか。
アンリの記憶を抹消する方法をナタリーは割とまじめに考えている。
「そんなに気にすることないですよ。何歳だろうと、ナタリーさんも僕も、何も変わりません」
「そうは言ってもですよ? 自分より年下の男の子が地に足つけて働いて、料理もできて、その上かっこいいなんて、やっぱり悔しい……」
「え? ん!? い、や、ナタリーさんだって……」
突然うろたえたアンリは、しどろもどろになりながらナタリーに気をつかってくれた。優しさが痛い。
「それに、どんどん先を行ってしまいそうで、少しだけさみしいのです。アンリさんのお店の花は、城でも評判ですし……」
「…………」
ふいに、アンリが悲しげな顔をした。
無表情なのはいつもと同じなのに、ナタリーを見つめる瞳に泣き出しそうな彩が混じる。
「……アンリでいいですよ」
「へ?」
やっと口を開いたかと思ったら、アンリはそんなことを言う。
「名前呼ぶの、アンリでいいです。年上の人に、さん付けで呼ばれるのも、アレですし」
「…………」
まるで、先ほどの顔を見せてしまったことを後悔するかのようにアンリは顔を逸らした。
再びこちらを向くころにはもう、いつもの表情に戻ってしまう。
「……じゃあ、アンリ……くん」
「はい。なんでしょう」
かと思えば、なんだかとてもうれしそうに、懐かしそうに返事をするから、ナタリーはどうしていいかわからない。ただ、アンリのこの顔がずっと続けばいいのにと思うことしか、できない。
「いつも、ありがとう」
何とかその言葉を絞り出した。どうしても言いたかったことだ。
アンリは驚いたように目を瞠って、それから、伏せる。その横顔は、とうてい年下とは思えない男性の色気を纏っていて、今度はナタリーが顔を逸らした。
「そんなの、僕のセリフだ」
ぽつんと響いたアンリのつぶやきは、すでにポテサラサンドを夢中で頬張るナタリーの耳には届いていない。
「ナタリーさんさぁ……」
「なんですの?」
はあとため息をついたアンリにナタリーはうろたえた。ずいっと寄せられた顔はやっぱり綺麗で整っていて、いちいち驚いてしまう。
目を白黒させていたら、片手で両頬をむぎゅっとつかまれた。
花屋さんらしい、固い皮膚で包まれたアンリの手は、いろんな花の香りがした。爪は丁寧に切りそろえられ、ごつごつと骨ばった指は長い。
アンリはムッとした顔でナタリーを見ると、やがてもう一度、はあとため息をついて手を離した。
その手は、零れ落ちたナタリーの髪を耳にかけ、甲でそっとナタリーの頬をなぞり、そのままアンリの元に戻る。
ナタリーはピクリとも動けなかった。アンリがナタリーを見る瞳が、あまりにも穏やかで、愛しげだったから。
そしてそれが、ナタリーを通して別の女性を見ているかのようだったから。
「やっぱりキザ! アンリくん!」
ナタリーは顔を真っ赤にして叫んだが、アンリは気にした様子もない。
これは、はまったら痛い目を見る人ねとナタリーは予防線を張る。
だけど
「ナタリーさん限定のつもりだけど」
そう言ってアンリは小さな白い花をナタリーの髪に挿した。カスミソウだ。
似合うね、と誇らしそうな顔をするアンリを、ナタリーは軽く睨む。完全にナタリーをおちょくっている。
頬がじんわり熱いのは、きっともう、手遅れだからだ。