3.ツユクサ
外は雨。空から雫が落ちる音だけが響く城内は、驚くほど静かだ。
石畳に跳ねる雨はあっという間に街の色彩を濃く変えて、透明な水滴で飾り立てていく。
いつもより音が広がる礼拝堂で、ナタリーは『雨の森』を弾いていた。ドーシュが作曲した練習曲だ。降り注ぐ雨を思わせる細かい音符の羅列は、弾くのがとても大変だけど、その代わり弾けると抜群に楽しくて、移り変わる雨の中で踊っているような気持ちになる。
外のじめじめとした空気をものともせず、城内は最近一気に騒がしさが増していた。近々、立太子の儀式があるのだ。隣国の王族の訪問があるので感慨もひとしおなのだろう。
この国は大国と呼ばれるほどではないものの、安定して豊かな治世を築く国だ。他国からの信頼も厚い。やってくる使者は決して少なくないはずだとナタリーは思っていた。実際、医官用にと渡された招待客のリストはなかなかの分厚さである。
さらに、立太子の儀式の期間、街では祭りが開かれる。毎年恒例の祭りではあるが、今年はそれに儀式が重なった形だ。
街道にはずらーっと出店が並んで、広場では可愛らしい乙女たちがくるくると踊る。各地からたくさんの人が訪れ、街は夜まで賑やか。最終日には花火が打ち上げられるのだ。
しかしこれもまた当然のことながら、最終日まで仕事でいっぱいのナタリーには、夜店を覘く時間などあるはずもなかった。
(ここは高いから、街の景色も花火もよく見えそう……。時間ができたらここに来て、ピアノを鳴らそうかなぁ。……アンリくん、来てくださらないかしら。お昼ではないし、難しいかもしれないけど……)
誘ってみようか、とナタリーはそっと隣に視線を滑らせた。
すっかり礼拝堂にいつくようになったアンリは、今日も当然の如くやってきている。例に漏れず、おいしそうなお弁当を携えて。
それでもやっぱり、儀式の前で忙しいのか疲れているようで、お弁当を手渡すと、ナタリーの横に腰を下ろして、うとうとと舟をこぎ出した。
「花屋さん、忙しいんですの? ほら、お祭りも近いですし」
「……ん、まあ……」
「そう……。今年は立太子の儀式も重なりますものね」
「んぅ……? そう……だっけ……」
(相当疲れてるなぁ……。お祭りの花火の日の予定は、また次回にしましょうかしら……)
今にも寝落ちしてしまいそうに見えるなんて、よっぽど仕事が大変に違いない。今聞いてもまともな返答は帰って来そうにないなとナタリーはひとりごちる。毎日顔を出してくれるのは、本当に貴重なことなのだと改めて思った。
お弁当の中身を見てみるとジューシーなハンバーグが三つも入っていて食べ応えがありそうだ。目玉焼きものっていて、そばにはナポリタンとポテトも添えてある。ハンバーグの上には、可愛らしい小さな旗がちょこんと刺さっていた。
あまりに豪華な欲張り弁当に、ナタリーは祭りのことなど頭から追いやり、ぱあっと目を輝かせた。
(よーし! まずはハンバーグ……!)
「いただきます!」
一つのサイズが大きめなそれを、ナタリーは気合を入れてぱくりと頬張った。
もぎゅもぎゅとお肉をかみしめると中からじゅわっと甘い肉汁が溢れ出て、とろっと濃いソースと絡み合う。飲みこんでしまうのがあまりにもったいなくて、ナタリーは頬をおさえた。
「ん~~~~! お、おいしぃ~~~~! 天才ですの!? アンリくんは天才でしたの!?」
「いや、さすがに大袈裟」
いつの間にか目を覚まし、やれやれ仕方ないという目でこちらを見てくるアンリ。
だが、これは照れているときの顔だ。アンリは照れくさくなると呆れた顔をする癖がある。そのことに、最近になってナタリーは気づいた。
「大袈裟なものですか! 冷めてもふんわり。ソースのあまじょっぱさがお肉によく合ってます! ナポリタンも焦げ目がちょうどよくて、タマネギが甘くて!」
「お粗末様です」
「本当にわかってます? アンリくん」
「はいはい、わかってますよ」
うんうんと雑に頷くアンリは、口いっぱいに食べ物を詰め込んだナタリーの顔を見て、ふはっと笑った。
わかってないような気もするが、とても機嫌が良さそうなので、まあいいかとナタリーは思った。
「明日のお弁当の具は何がいいですか」
「ん~、じゃあ、アンリくんが前に作ってくれた、生姜焼きがいいなあ。雨ばっかりだと嫌になるのに、アンリくんの生姜焼きはどれだけ続いても嬉しいから不思議……」
「――っ!」
なぜかアンリがキュッと唇を引き結んだ。ぎゅっと眉間にしわが寄る。
何か気に障ることを言ってしまったのだろうかとナタリーは不安になった。
「あっ! もちろんアンリくんのお弁当はなんだって全部おいしいですからね? 全部好きです!」
「…………」
生姜焼きだけしか好きじゃないみたいな言い方に聞こえてしまったかと思ったが、そうではないらしい。その証拠にアンリの顔はどんどん険しくなっていく。
じりじりと、表情は険しいままのアンリの顔が近づいて、なのに、その距離が近いというただそれだけのことでナタリーの胸はドキドキと早鐘を打つ。
しかしナタリーが困惑していると突然、はっとしたように元の表情に戻り、いつもの声のまま返事を返した。
「……夏も近いですし、暑さでバテがちですよね。ひんやりしたおやつとか、持ってきたら食べます?」
「もちろん! でも大丈夫ですの? お仕事忙しいんじゃ……」
「平気です。大した手間じゃないし。それに、僕が作りたいから」
「そ、そう?」
「うん」
「……そっか……。じゃあ、お願いしようかしら」
「うん」
近くにあったアンリの顔が、すっと遠ざかる。
明らかに、何かをはぐらかされたような気がする。
なのに、返事をするアンリが今度はどこか嬉しそうで、ナタリーは何も追及できなかった。
「何を作って来てくださるの?」
「…………内緒で」
「ええ~!」
(――……アンリくんは、私に何を隠しているのかしら……?)
おやつ内緒発言に唇を尖らせて抗議の意を示しながら、ナタリーは考えていた。
アンリがときどき、こんな風に泣き出しそうな顔をするのにはナタリーも当然気づいていた。それは一体どうしてなんだろう。
(……なんて、お付き合いをしているわけでもないのに、私は何を考えているの……)
アンリと会うのは、決まってこの時間。ナタリーのお昼休憩の間だけ。
それだけでは少し物足りないと思うのは、やっぱりわがままなんだろう。
(きっともう一人のナタリーさんにも、お弁当を作っているに違いなくてよ)
こちらを幸せそうに見る瞳が他の人にも向けられていると思うと、不意にズキンとナタリーの胸が痛んだ。
ガラスの向こうの雨を背景に凛と花瓶に生けられたツユクサが揺れる。
アンリはもう一人のナタリーにも、こうして花を贈っているのだろうか。
(……でも、そんな人がいるのに、アンリくんはここに来るのを辞めないんだもの。それって少しは可能性があるっていうことではないのかしら)
先ほどまで思考から追い出していたお祭りのことが頭をよぎった。
その日、もう一人のナタリーと、彼は街を歩くのだろうか。
エプロンじゃない服を着て、いつもは長い前髪を持ち上げて、おめかしをしたもう一人のナタリーに『かわいいね』って言うんだろうか。
(……いやだ……)
この思いが不毛だということくらいはナタリーにもわかっている。この気持ちは、追いかけないほうがいいということも。
アンリは最近、少し明るくなった。否、本来の表情を見せるようになったと言った方が正しいだろうか。最初に会った時よりずっと打ち解けて話すようになって、笑顔もよく見かけるようになった。
この穏やかな時間をなくしたくない。アンリの笑った顔をずっと見ていたい。
今自分が一歩踏み出したら、何かが崩れてしまいそうな気がする。
(……最終日に、一緒に花火を見ようって言うくらいなら、許されるかしら……)
「どうかした? ナタリーさん」
「ふぇ!?」
声を発そうとして息を吸い込んだナタリーはしかし、アンリがこちらを覗き込んでいることに気付いて飛び上がった。膝の上に置いていたお弁当を落としてしまいそうになって慌てておさえる。
「な、なんでもありませんわ。少し、考え事をしていましたの……。わ! この揚げ芋、さっくさくのほくほくでおいしい! いったいどんな手を使えばこんなことが……」
「ナタリーさん」
なんとか話を逸らそうと揚げ芋を熱烈に褒めたナタリーだったが、自分の名前を呼ばれて、思わず肩がはねる。
(……どうして……?)
「……ケチャップついてる」
形のいい手がゆっくりと伸びてナタリーの唇のすぐそばに触れた。親指がそっと押し当てられて、離れる。
(どうして、そんな顔をするの……?)
じっと、まるで己の目に焼き付けようとするようなアンリの視線に貫かれる。
やめてほしい。勘違いしてしまうから。
そんなに穏やかな声で名前を呼ばないで。いけないとわかっているのに、溺れてしまいそうになるから。
(……どうして、そんなにやさしく私に触れるの……?)
アンリは指先に付いたケチャップをぺろりと舐めた。
ポテトの塩味と混ざった少しあまじょっぱいケチャップだ。
「……おいし」
それだけ言って、アンリはまたナタリーが食べている横でうつらうつらし始めた。
真っ赤な顔のまま無心で食べ進めるナタリーを横目に、雨の音は、今だやまないまま。




