間章Ⅳ<追憶の鏡>
天城結女が退室してから、ゾットールは溜息を一つつくと、椅子に繊細な躰を沈めた。
机に肘をつき、そして遠き東方の国にいるであろう、かつての戦友を思い浮かべていた。
天城星。
目を閉じれば、いつでもあの時の光景が目に浮かんでくる。
それは薄暗い部屋の中だった。右腕に巻かれた包帯の奥で、肉に刻まれた無数の裂傷が口を開き、真紅の華を咲かせるまでに、自虐的に壁に打ち付けている、あの姿。
傷を負いながら、星は真剣に、己の死を望んでいた。不甲斐なさ故に、かつての恋人を死なせたと感じていた。
一辺の情けもない言い草であるが、あのときの星の認識は正しかったのだ。
若きヴォン・ヨー・ズの使い手は、確実に未熟であった。しかし、戦場において、未熟だったが故の失策を、誰が責められようか。否、未熟ではない者など、一体この世に存在するのだろうか。
恋人の死が星の未熟さに帰結するのならば、恋人が死ぬということもまた、それは運命であったのだ。
いまだ忘れえぬ、あの薄暗い回廊と中庭の光景。雨の降る庭に出たときに感じた、空気の中の水の匂い。
自分自身の中で渦を巻く激情に、水の精霊が反応するのを感じながら、ゾットールは押さえつけることが出来なかった。木の虚の中で、ターラエの手紙を読みながら嗚咽を漏らしたあの涙の味は、今でも忘れられぬ。
そんな思い出が、走馬灯のようにゾットールの脳裏に閃いては消えていく。
人知れぬ激戦を生き抜いたゾットールは、あれからひそやかに孤児院を営んでいた。
同じように、混血ゆえに忌み嫌われた精霊族や、肌の色で差別を受けていた精霊族の身寄りのない子らの世話をしていたのだ。
彼の望みは、そのままひっそりと、そして穏やかに、生涯を終えることであった。噂を聞きつけてきた、子どもを連れた精霊族の母親と出会い、そして夫婦となるまでに、さして時間はかからなかった。
だが、世間はゾットールをそのままの平穏にいさせてはくれなかったのであった。レイトナー家と並ぶ、稀代の魔術師を輩出する名家シェルダーリオン家当主にも、その噂は届いていた。
正直、決して余裕があるとはいえぬ経営に、シェルダーリオン家は援助を申し出た。さらには、彼と妻にシェルダーリオンの姓を名乗る権利すら与えたのだ。
その見返りは一つ。ヒルヴァイロ島、クレージェント王国の歴史資料管理委員会長に就任するという条件であった。
全てはゾットールの精霊力を見込んでの申し出であり、ゾットールの側には普通であれば断る要素など何一つとしてなかった。
だが彼自身、名声や地位に必要以上にこだわる性格ではなかったため、苦悩に日々を費やすことにもなった。しかし、今のままの生活をしていては、子どもたちや妻に気苦労をかけていることには違いない。
そう決心し、条件を飲むことによって、ゾットールは晴れてシェルダーリオン家の一員となったのであった。
無論、その事実はごく一部の人間が知っているだけであり、稀な特例であることには変わりない。今のところ、孤児院の環境や教育方針なども、彼の目指していた方向性が尊重されている。何等、問題はないはずであったのに。
彼は素直に、今の状況を喜べないでいた。
今の自分の姿を知ったら、お前はなんと言うだろうな。今は亡き、ターラエ・レイトナーの顔を思い浮かべ、自嘲に唇を歪める。
「…館長」
控えめなノックの音とともに、追憶にあったゾットールは現実へと引き戻された。
聞き覚えのある職員の声に、ゾットールは入室を許可した。
「午後の会議の件についてなのですが」
入ってきた青年の話に頷きながら、ゾットールは回想の断片の中に、語りかけていた。
天城星。
かつての友よ。
今もまだ、私のことを友と想っていてくれるのなら、私はそれに答えよう。再見の日がもし来るとすれば、健やかなる顔を見せてくれ。
祈りの言葉は、記憶の泉の鏡のような水面に波紋を呼び、それは音もなく広がり、消えていった。




