第5話:孤児院
空がいっそう厚い雲に覆われ、微弱な雨が降り始めた頃、リリスは孤児院に到着した。
そこは煉瓦造りの煤けた外観。
どんよりとした色合いといい、光を拒むような狭い窓の造りといい、まるで監獄を思わせる憂鬱な佇まいの建物だった。
リリスが十七年の生涯を過ごしてきた場所。
それでも、ここへ戻るたびに、彼女は「自分の居場所ではない」という疎外感を感じる。
リリスは懐のイヴァヌエルの似顔絵が無事であることを確かめ、孤児院の中へ足を踏み入れた。
屋内は外よりもさらに暗かった。
まだ午後二時だというのに、まるで夜になったかのような暗さである。
明かりは一切なく、狭い窓からは外の光もほとんど入らない。
玄関先に続く廊下には人影もなく、静まり返っていた。
仕事先を追い出されて予定より早く帰宅してしまったこの状況を、皆にどう説明すべきか。
リリスは暗い廊下で立ち尽くし、まずは事の次第を報告するため二階の院長室へ向かおうとした。
だが、階段に足をかけようとしたその時、廊下の奥から鋭い声が飛んできた。
「その格好、何?」
振り返ると、そこにクロイが立っていた。
言葉に詰まるリリスを逃がさないよう、クロイが早足で距離を詰めてくる。
「それに、なんでこんなに早く戻ってきたの?」
「……」
「私の声が聞こえないの?」
さらに詰め寄られ、二人の顔が急接近する。
クロイはリリスと同い年の十七歳で、この孤児院では皆をまとめるリーダー的存在だった。
ポニーテールに結い上げた赤茶色の髪、鼻の周りに散ったそばかす。
そして何より、獲物を狙う猫のように鋭い目つきが彼女の気性の激しさを物語っている。
そのクロイが、いつも以上に険しい表情でリリスを睨みつけていた。
「その服は何?なんでこんなに早く帰ってきたのかって聞いてるのよ!」
クロイは言葉を吐き出すたびに、人差し指でリリスの胸元を強く突いた。
その指に押されるまま後退したリリスの背中が、冷たい壁にぶつかって止まる。
「……途中で、追い出されたの」
「追い出された?」
「うん」
淡々と事実だけを告げると、クロイは一瞬、呆気に取られたような顔をした。
しかし、その理由を深く追及することはしない。
ただリリスを睨みつけながら、無造作に手を差し出すだけだった。
「イヴァヌエル様の似顔絵は?」
リリスは懐から例の似顔絵を取り出して、クロイに差し出した。
クロイはそれを奪い取るように受け取る。
彼女はしばらくの間、その絵を慈しむように見つめ、うっとりと鑑賞する。
その時だけはわずかに表情を緩める。
だが絵を自分の懐へしまい込むと、すぐさま元の氷のような表情に戻る。
次の瞬間、いきなり振り上げられた彼女の手が、リリスの頬を強く打ちつけた。
それは、ただ乾いた音を立てるだけの平手打ちではなかった。
まるで拳骨で叩かれたかのような、重い一撃。
リリスの視界に火花が散る。
頭全体に響く強烈な衝撃に見舞われる。
「この役立たず! 一体何をやらかしたら追い出されるのよ! 皇宮から賜った仕事なのよ? 事の重大さが分かっているの!?」
「……ごめんなさい」
淡々と謝罪の言葉を口にしながら、リリスは直感していた。
(これは、あざになる……)
殴られることが日常であるため、痛みの質だけでどれほどの痕が残るか予測がつくのだ。
だからリリスは、むしろ安堵する。
顔にあざができれば、それが治るまでは外の仕事に出されることはない。
外に出なくていい。
今日のように、『悪魔の子』だと気づかれる心配をせずに済む。
そう思うと、リリスは心が軽くなった。
とにかく、いつもは顔を避けるクロイが、今日は迷わずそこを殴ったわけだ。
それだけで、彼女の怒りと自分の失敗の重さが分かる。
そして暴力はまだ続いた。
起き上がる間もなく、容赦なく踏みつけられる。
リリスは亀のように背を丸め、その衝撃をただじっと受け流す。
「死ね」
心底からの嫌悪を孕んだ声が、足蹴と共にリリスへと降り注ぐ。
「お前みたいな役立たずで、皆に嫌われる子は死んだ方がマシなのよ。この世にいらない。生きてちゃいけない存在なの。だから、死ね」
「……」
「あんたさえいなければ……あんたさえいなければ……」
「……」
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね!!」
クロイの声は次第に大きくなり、最後には泣き叫ぶような音量に達した。
それを聞きつけた他の孤児たちが、三々五々集まってきた。
「あ、魔女狩りだ。またやってる」
「僕らも混ぜろよ」
リリスより三つほど年下の、十四歳くらいの少年二人が加勢する。
クロイと一緒になってリリスを踏みつけ始める。
「……っ!」
ついにリリスの口から、押し殺した呻きが漏れ始めた。
年下とはいえ、少年の力はクロイとは段違いに強かった。
物理的な衝撃が引き金になったのか、リリスの体の内側で、パチパチと火花が散るような感覚が走る。
だがリリスはそれをぐっと堪えた。
内に流れる電気を抑え込むのは、幼い頃から繰り返してきたから造作もない。
だが、痛みは別だった。
どれだけ繰り返されても、こればかりは慣れることができない。
薄れゆく意識の中、リリスは自分を殴りつける者たちの顔をちらっと見上げた。
誰も、楽しそうな顔などしていない。
ただ事務的な日課を淡々とこなしている、そんな無機質な表情をしているだけだった。
それが、リリスにはいつも不思議でならない。
あまりの痛みに、いつしか喉から悲鳴が上がっていた。
声を出すことで痛みが和らぐことを、リリスは経験から学んでいた。
「やめなさい!」
二階から突然、大人の女性の声が響いた。
その声を合図に、暴力は嘘のようにピタッと止まった。
誰も文句を言わず、未練も見せず、淡々と自分の持ち場へと散っていく。
静寂が、唐突に訪れる。
そして、本格的な痛みが始まった。
緊張が解け、麻痺していた一部の感覚が弛緩すると、さらなる痛みが津波となって一気に押し寄せてくる。
リリスは自分を抱きしめるようにして、その波に耐えた。
漏れ出る喘ぎ声は止められないが、涙だけは流さない。
決して、泣きはしない。
心を強く保つためではない。純粋に実用的な理由だ。
泣けば、それだけこの時間が長引く。
早く終わらせたいのなら、泣いてはいけない。
ただただ、耐える。
そんなことを、リリスは十七歳ですでに学んでしまっていた。
「大丈夫かい?」
痛みの津波が過ぎ去った頃。
それを見計らっていたかのようなタイミングで、二階の声の主が歩み寄ってきた。
彼女が静かに手を貸し、リリスを支える。
リリスはふらつきながらも、なんとか立ち上がることができた。
「はい、大丈夫です」
リリスは答えた。
本当に大丈夫になったので、事実を告げただけだった。
リリスを助けてくれたのは、この孤児院の院長だった。
初老の女性で、白髪を端正に後ろで結んでいる。
リリスはそれだけ言うと、軽く会釈して部屋に戻ろうとした。
だが、再び声をかけられる。
「リリス」
リリスは足を止めた。
聞き間違いかと思い、訝しげに院長を振り返る。
名前で呼ばれることなど、めったにない。
「……何ですか?」
やはり、皇宮を解雇されたのがまずかったのだろう。
当分は罰として、孤児院の大掃除を一人で押し付けられるに違いない。
疲労感に包まれながら、そう覚悟した。
だが、院長の口から出たのは予想だにしない言葉だった。
彼女は一度足元に視線を落とし、躊躇うようなそぶりを見せたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「今日の夜、ここを出て行きなさい」




