第26話:井戸
門の向こうに立っていたのは、まだ十歳にも満たないであろう小さな男の子だった。
見知らぬよそ者が現れたというのに、その子は驚いて逃げ出すことも、大人を呼ぶこともなかった。
ただ、うつろな瞳でぼんやりとこちらを見つめ返している。
よく見ると、その姿はどこか異様だった。
土埃にまみれた肌はやけにカサついて生気がなく、小さく開かれた唇はひどくひび割れて、白くめくれ上がっている。
浅く重い息を繰り返すその小さな体は、ただそこに立っているだけで精一杯のように見えた。
「まずは、あの子に声をかけてみましょうか」
立ち止まってしまったリリスの隣で、アダムが静かな声で提案した。
「うん……」
ただならぬ子供の様子に戸惑いながらも、リリスは小さく頷いた。
二人は、ゆっくりと門へと近づいていった。
こちらが近づいていくと、門の向こうにいた子供もまた、ふらふらとした足取りで歩み寄ってきた。
やがて、二人の目の前でその小さな足が止まる。
アダムはゆっくりとしゃがみ込み、子供と同じ高さに視線を合わせる。
そして優しい声で話しかけた。
「こんにちは。私たちは旅の者なのですが……君、大丈夫ですか? 少し顔色が良くないようですが」
しかし、男の子はアダムの気遣うような言葉には答えなかった。
焦点の定まらないうつろな瞳で二人を見つめ返したまま、白くひび割れた唇をわずかに震わせる。
そして、喉の奥から絞り出すようなかすれた声で、唐突にこう尋ねてきた。
「……お水、持ってる?」
「……いいえ、持っていません」
アダムが答えると、男の子が今度はリリスの方を見上げた。
リリスはゆっくりと首を横に振った。
すると、男の子の顔がくしゃりと歪んだ。
まるで、堰を切ったように泣きじゃくる時の、絶望に満ちた表情だった。
ひっく、と喉の奥から悲痛な嗚咽まで漏れ出している。
しかし、その瞳から涙がこぼれ落ちることはなかった。
悲しみに暮れて泣き叫んでいるかのような顔つきなのに、ひとしずくも出ない。
涙のないその泣き顔は、普通に涙を流されるよりもずっと痛ましく見えた。
たかが水を持っていないと告げられただけなのに。
ここまで絶望したように泣きじゃくるのは明らかにおかしい。
アダムはしゃがみ込んだまま、より一層優しい声色で男の子に問いかけた。
「どうしたのですか? 何か辛いことでもあったの?」
すると男の子はしゃくりあげながら、喉から声を絞り出した。
「……お水が、飲みたい……」
その声は、ひどく干からびていた。
リリスには聞き取ることさえやっとだった。
リリスは思わずアダムと顔を見合わせる。
「アダム、この子……」
「ひどい脱水症状です」
瞬時に分析を終えたアダムが言う。
「一刻も早く水分をとらせないと危険ですね」
ふと男の子がふらりと小さな体を揺らした。
倒れそうなその体を、アダムが慌てて抱きとめる。
男の子はすべてを諦めてしまったかのように、だらりと全身の力を抜いた。
気絶しているわけではないが、うつろな目をしたままピクリとも動かない。
生きる気力そのものが尽き果ててしまったようだった。
アダムが表情を引き締め、即座に決断を下した。
「急いで村の中へ入り、水を探しましょう。一刻を争います」
アダムはすぐさま男の子を自身の背中にしっかりと背負い、立ち上がった。
「門番はいないようですね。急いで中に入りましょう」
背中の子供を気にかけながらアダムが言うと、リリスはこくりと頷いた。
二人は丸太が組まれただけの簡素な門をくぐり抜け、村の中へと足を踏み入れた。
村の入り口付近には見張り小屋のような小さな建物があったが、中には誰の姿もない。
それどころか、村全体が不気味なほどに静まり返っていた。
道に沿って、木製の壁にわら屋根を乗せた小さな家々が並んでいる。
しかし、外を歩く村人の姿はまったく見当たらず、話し声や鳥の鳴き声すら聞こえてこない。
まるで村全体から活気がすっぽりと抜け落ちてしまったかのようにリリスには思えた。
さらに奥へと進んでいく。
やがて二人は、村の中央らしき開けた場所に出た。
アダムが、周囲の景色をぐるりと見渡してから言った。
「家屋の数や広場の広さを見る限り、おそらく三百人程度が暮らす小さな村のようですね」
リリスも周りをぐるりと見まわしてみる。
彼の言う通り、そこはこぢんまりとした質素な広場だった。
中央には日陰を作るための大きな老木が立っており、その脇には少し色あせた木製のベンチがいくつか並んでいる。
普段であれば、村人たちが集まっておしゃべりをしたり、子供たちが元気に駆け回ったりする憩いの場なのだろう。
だが今は、人っ子一人いない。
広場にはひっそりとした重い静寂だけが横たわっている。
そして二人の目に、探していたものが飛び込んできた。
老木のすぐそばに据えられた、石組みの古い井戸だった。
「井戸だ」
リリスの口から少し弾んだ声がこぼれた。
アダムの背中にいる男の子だけでなく、彼女自身も限界まで喉が渇いていた。
水場を目の前にして思わず喜びがこみ上げてくる。
二人は急ぎ足で、井戸のすぐそばまで近づいた。
苔むした石組みの上に、分厚い木の蓋が被せられている。
長い間、村人たちに大切に手入れされてきたことがわかる、しっかりとした造りだった。
ふと、アダムが周囲をぐるりと見回して口を開いた。
「本来であれば、誰かに許可を得るのが先なんですが……」
リリスが静まり返った広場を再び見渡して言う。
「でも、周りには誰もいないわ」
アダムは背中の子供の重みを確認するように一度姿勢を正し、小さく息を吐いた。
「……そうですね。命に関わる緊急事態ですから、今は仕方ありません」
そう言ってうなずくと、アダムは井戸を覆っている重たそうな木の蓋へと手をかけた。
そのまま木の蓋をゆっくりとずらす。
リリスも井戸のそばへともっと歩み寄った。
そして、パッと眉間にしわを寄せた。
手で自分の鼻を覆う。
アダムも蓋を半分ほど開けたところで、ピタリと手を止めた。
「何なの? この臭い……!」
リリスは嘆いた。
半開きの井戸の奥から、強烈な悪臭が湧き上がってきたのだ。




