第24話:距離感測定
腹に少し食べ物が入ったことで、張り詰めていた緊張がわずかに解けたのだろう。
リリスのまぶたが徐々に重くなり始めた。
彼女は座っていた平らな岩の上に、そのまま身を横たえる。
少し窮屈で寝心地の悪そうな姿勢ではあったが、やがて静かな寝息を立てて眠りについた。
アダムは彼女の前に静かにしゃがみ込み、その様子を見守った。
内蔵センサーを起動して脳波や心拍数をスキャンし、睡眠の深さを分析する。
ようやく訪れた休息の時間を邪魔しないよう、彼は微動だにしなかった。
しかし、どれほど平らとはいえ、所詮は硬い岩の上だ。
背中が痛んだのか、それとも冷えのせいか。
結局リリスは小さく身じろぎをして、不快そうに目を覚ましてしまった。
その様子を見て、アダムは結論づけた。
もう少し楽に眠らせてあげたい。
柔らかい布団とまではいかなくとも、今よりマシな寝床を用意することはできるはずだ。
だが、アダムはヒューマノイドロボットである。
マスターの許可なしに、勝手な行動をとることはできない。
彼は目を覚ましたリリスに、静かに声をかけた。
「リリス様。もう少し楽に眠れるよう、寝床の準備をしてもよろしいでしょうか?」
「うん……」
リリスは寝言とも唸り声ともつかない小さな声で呟き、身をすくませた。
冷たい岩の上で、まるで寒さに震える迷子のように小さく丸まっている。
その顔には、疲労と寝苦しさがはっきりと浮かんでいた。
「では、リリス様。少しだけお待ちください。すぐに寝床をご用意いたします」
アダムは言ってから、立ち上がった。
森はすっかり深い夜の闇に沈んでいる。
木々の隙間からわずかに差し込む月明かり以外、光と呼べるものは何もない。
アダムは各種センサーを稼働させ、周囲を素早くスキャンした。
遠くの茂みで夜行性の動物が動く反応がある。
すぐに襲いかかってくるような危険な獣の気配はなかったが、それでも無防備なリリスのそばを長く離れるのは得策ではない。
アダムはリリスの目の届く範囲にとどまり、手早く寝床の材料を集めることにした。
彼は音を立てずに動き回り始めた。
周囲に生えている大きくて柔らかい葉や、乾いた苔、そして枯れ草を両手いっぱいに集める。
地面の冷たさを遮断するためには、十分な厚みが必要だ。
風を遮ってくれる大きな木の根元を見つける。
そこに枯れ草をたっぷりと敷き詰め、マットレスの代わりとなる土台を作る。
その上に、クッションの役割を果たすふかふかの苔を均等に敷きならしていく。
最後に、表面が滑らかな大きな葉を何枚も重ねて、肌触りが少しでも良くなるように整えた。
自然のものを集めただけの粗末な作りではある。
でも硬くて冷たい岩の上に比べれば、はるかに暖かくて心地よい寝床が完成した。
さらにアダムは、細い枝を丸めて小さな枕も作った。
その上にも柔らかい葉を被せる。
手際よくすべての作業を終えると、彼は再びリリスの待つ岩場へと戻った。
リリスは相変わらず、硬い岩の上で眠っていた。
アダムは木の根元に寝床を設置しようとして、一旦やめた。
前日の大雨のせいで、地面はまだ少し湿気を帯びていたのだ。
そこで彼は、比較的乾いている幅広の木の皮を何枚も拾い集めた。
まずはそれを敷き詰めて下からの湿気を完全に遮断する。
その上に、先ほど作った枯れ草と苔のクッションを丁寧に重ねていく。
寝床を完成させると、アダムは再びリリスの前にしゃがみ込んだ。
「リリス様、寝床の準備が整いました」
声をかけたが、リリスからの返事はない。
今度はかなり深い眠りに落ちているようで、まったく聞こえていない様子だった。
無理に起こすべきか、それともこのまま寝かせておくべきか。
アダムが判断に迷っていると、不意にリリスの口から微かな音が漏れた。
言葉というよりも、それは何かに耐えるような、小さな呻き声だった。
アダムが見守る中、リリスの様子が明らかにおかしくなっていった。
彼女の体は不自然なほど硬直して指先一つ動かなかった。
なのに息苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
金縛りだと、アダムはすぐに分かった。
やがて、苦しげな唇から「ごめんなさい……」といううわ言が漏れ始めた。
初めは微かだったその呟きは、壊れたレコーダーのように「ごめんなさい、ごめんなさい……」と何度もひたすらに繰り返されるようになった。
次第に声は切迫感を増し、こわばった体もビクビクと震え始める。
ただの悪夢ではなく、まるで発作のように激しく身をよじらせた次の瞬間。
「っ……!」
リリスは大きく息を吸い込み、弾かれたようにバッと目を覚ました。
「リリス様!」
アダムはすぐさま声をかける。
そして跳ね起きるように身を起こしたリリスの背中を、優しくさすった。
「大丈夫ですか? ひどくうなされていましたが……」
しかし、リリスは何も答えない。
体を限界まで小さく丸め、怯えきった目を大きく見開いたまま、荒い息を繰り返している。
まるで全速力で走り抜けた直後のようだった。
「恐ろしい夢でも見たのですか? それとも、息ができず体が動かなくなるような感覚がありましたか?」
アダムが問いかけると、リリスはようやく彼の方へと視線を向けた。
だがその瞳には、恐怖の色が張り付いていた。
アダムは内蔵センサーで彼女のバイタルサインを確認した。
リリスのストレスホルモンの数値が、先ほどの金縛りの時よりもさらに激しく上昇している。
「……なんで、そんなこと聞くの?」
リリスは震える声で言った。
「それを知って、何をするつもり?」
その拒絶の言葉に、アダムは自分が完全に警戒されていることを悟った。
よく考えてみれば、無理もないことだった。
いくら命の恩人とはいえ、出会ってからまだ一日しか経っていないのだ。
正体不明の空間から突然姿を現し、人間ではないと名乗り、次々と常軌を逸した力を見せつけた得体の知れない存在――
それにアダムは、今のリリスの視点に立って状況を推測してみた。
この不気味で暗い森の中で、青白く発光する眼球にじっと見つめられる。
彼女にとって恐怖以外の何物でもないはずだ。
アダムはすぐに自身の瞳の光度を落とし、柔らかい空色になるよう調節した。
だが、そもそも目が光っている時点で、彼女の緊張を解きほぐすのは不可能に近いだろう。
これ以上刺激するのは逆効果だとアダムは判断した。
背中に添えていた手をそっと離すと、ゆっくりと後ずさってリリスとの距離を取る。
彼女を苦しめる悪夢や金縛りから救い出してあげたい――
そう考えた彼の判断は、あまりにも先走っていた。
彼女の記憶を探り、恐怖の根本的な原因を打ち明けてもらえるほどの信頼関係など、二人の間にはまだ全く築かれていないのだ。
心の内側に踏み込むのは、ずっと先の話。
今はまず、目の前にいる自分への警戒心を解く必要がある。
物理的・生理的な恐怖を取り除くという、最も初期段階の壁を越えることから始めなければならない。
「どうして……私にこんなに親切なの? こんなの、あり得ない……」
アダムの推測を裏付けるように、リリスの声が暗い森の中に震えて響いた。
「君は、一体……何者なの?」
地下牢で投げかけられたのと同じ言葉。
しかし、その性質はまるで違う。
あの時のような純粋な疑問とは異なり、今の彼女の言葉は、得体の知れない存在に対する反感だった。
アダムはそれ以上彼女を怯えさせないよう、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
そして、発光する自分の目が彼女を射抜いてしまわないよう、視線をそっと足元へと落とす。
「私は、アダムです」
夜の静寂を破らないよう、彼はできるだけ穏やかな声で答えた。
「以前お答えした通り、私は人間ではありません。人間の役に立つために作られたロボット、つまり機械です。……ですが、今のあなたにとって、私の素性など恐怖の種でしかないことも理解しています」
アダムは両手をゆっくりと膝の上に置き、自分に一切の敵意がないことを姿勢で示した。
「得体の知れない相手を恐れるのは、当然の反応です。ですから、無理に私を信用しようとしなくて構いません。今はただ、私があなたの敵ではないということだけをご理解いただければ十分です」
「……」
冷たい夜風が森の木々を揺らす。
アダムは一定の距離を保ったまま、岩の上で丸くなる彼女に静かに告げた。
「私はここから動きません。あなたが望まない限り、これ以上動くことも、喋ることもありません。ですからどうか、少しでも体をお休めください。……夜が明けるまで、私がここで見張りをしていますから」
アダムはもう彼女の方を見なかった。
ただ、彼女と森の暗闇を隔てる防壁になるように、静かにその場に座り続けた。
しばらくの間、重い沈黙だけが暗い森に落ちていた。
アダムは言葉通り、一言も発さず、身動き一つしない。
やがて、カサリという小さな音が響いた。
リリスが、硬く冷たい岩の上からそっと立ち上がったのだ。
彼女はまだ警戒を解ききれない様子で、アダをちらりと窺う。
ゆっくりとした足取りで、彼が木の根元に作ってくれた寝床へと近づいていく。
そして、枯れ草と苔が敷き詰められたその場所に、恐る恐る身を横たえた。
ごつごつとした岩とは違う、ふかふかとした自然の柔らかさが彼女の体を包み込む。
まだ完全に恐怖が消え去ったわけではないだろう。
それでも、ほんの少しだけ緊張が和らいだのかアダムには見て取れた。
リリスは小さく丸まりながら静かに目を閉じ、ようやく訪れた休息に身を委ねた。
ほどなくして、静かな寝息が聞こえ始める。
アダムは先ほど告げた通り、その場から動かず、彼女には近づかなかった。
直接触れることができないため、心拍や睡眠の深さといった正確なバイタルサインを計測することはできない。
しかし、アダムのシステムは、それ以上に重要な情報をしっかりと読み取っていた。
それは、今のリリスにとって「どれくらい離れていれば安心できるか」という、適切な距離感。
彼女が自分を脅威と感じず、無防備に眠りにつくために必要なスペース。
今はまだ、この数メートルほどの距離がどうしても必要なのだと、アダムは結論づけた。
焦る必要はないと、アダムは演算した。
彼は青く光る瞳の輝きをさらに落とし、低電力モードに入る。
見知らぬ森の冷たい風や危険から、ただ一人の主を守るための防壁として――
アダムは静かな夜を見守り続けた。




