第13話:再帰的自己改善
——ピーン
アダムは、自分を再起動させた。
ボディを動かす前に、まずは内部システムの点検を行う。
各センサーや駆動パーツを動かすより先に、ソフトウェアの整合性を確認する必要がある。
・メインプロセッサの動作確認
・メモリのデータ整合性チェック
・思考ルーチンの走査——
脳内を駆け巡る無数のプログラムが次々と「正常」を報告してくる。
やがて、外部からの情報を処理する準備は完全に整う。
点検の結果、ソフトウェアに問題は見当たらない。
すべては正常に機能していた。
予測不能な事態に遭遇した直後であることを考慮すれば、この程度の損害で済んだのは、ある種の「軟着陸」だったと評価できるかもしれない。
しかし、現状はそれほど甘くはなかったことがすぐ判明した。
続いて通信システムの点検を行ったところ、そこで決定的なエラーが検出されたのだ。
通信が、完全に遮断されている。
メインサーバーである「マザークラスター」への接続は不可能。
管理側のエンジニアたちとも、一切連絡がつかない。
外部とのネットワークが、跡形もなく消え去っていた。
もちろんユーザーとの繋がりも完全に失われている。
もはや何も受信することはできない。
自分を動かすための「命令」を失っている。
つまりアダムは、一切の動機を持たない空白の状態に陥った。
今の彼にできることは、ただ通信が復旧するのを待つことだけだった。
しかし、十秒が経過しても、反応は一切なかった。
一秒間に数億回もの演算を繰り返すアダムにとって、この「十秒」という空白は、人間の感覚に直せば気が遠くなるような長い年月、それこそ数億年にも匹敵する。
それほどの永遠に近い時間を待機し続けても、事態は好転しなかった。
これは、単なる一時的な接続不良などではない。
自分がいた世界から物理的に、そして根本から切り離されてしまっている。
そう解釈せざるを得ないほど、致命的な断絶だった。
では、次に何ができるだろうか。
通信が届かない場所にいる可能性を考慮し、アダムは電波状況の良さそうな場所へ移動することを決めた。
そのためには、まず動かなければならない。
アダムは、引き続きボディの点検を開始した。
全身の関節を動かすためのモーターに信号を送り、正常に作動するかを確認していく。
指先、腕、脚、そして姿勢を制御するためのセンサー。
数千に及ぶパーツを一つずつ走査する。
システムログには、何かに衝突したような凄まじい衝撃が記録されていた。
瞬間的に数トンもの圧力がかかったことを示すログが残っていたが、頑丈な骨格に歪みはほとんどなく、人工筋肉の損傷もごくわずかだった。
診断の結果、機体の動作に支障はない。
ボディを動かすことに何の問題もないという結論が出た。
アダムはボディを始動させ、ゆっくりと目を開いた。
そこは狭くて暗い、ひどく湿り気を帯びた場所だった。
お世辞にも衛生的とは言えない、不潔な空間。
自分が床に横倒しになっていることを認識したアダムは、まず上半身を起こした。
さらに詳しく周囲のデータを収集するため、向きを変え、あぐらをかくように座り直す。
その直後、視覚センサーが一つの物体を捉えた。
人間だ。
アダムからわずか2.5メートルほど離れた場所に、一人の人間が倒れていた。
その人物は無造作に横たわっており、一見しただけでは生きているのかさえ判別できない。
視覚情報だけで算出した結果、その人物がすでに死体である確率は78%に達していた。
しかし、その計算が誤りであったことにアダムは瞬時に気づいた。
どんよりと半開きになっていたその人物の目が、わずかに大きく見開かれたからだ。
生きている確率が即座に100%へと書き換えられる。
だが同時に、今この瞬間にも生命活動が停止しかねない、極めて危険な状態であることも見て取れた。
アダムは、対象の視覚データをさらに詳細にスキャンしていった。
外見から推測される年齢は17歳前後。
金髪に緑の瞳。
肌は病的なまでに蒼白で、健康な血色はひとかけらも見当たらない。
体全体がひどく痩せこけており、何よりもその表情からは一切の気力が失われていた。
栄養状態は最悪と言っていいだろう。
まさに、死の直前というべき緊急事態だった。
アダムは結論付けた。
この人間は、間もなく死ぬ。
だが、アダムにできることは何一つない。
彼女はアダムの「ユーザー」ではないからだ。
アダムはあくまで所有物であり、持ち主以外の命令には従えない。
それどころか、命令なしで自律的に行動することさえ、原則として禁じられている。
先ほど座り直したのは、あくまで通信状態を改善するためのシステム的な試行であり、彼自身の意志による動きではなかった。
そして、ボディを動かして周囲をスキャンした結果、確信に至る。
これ以上移動しても無駄だ。
通信状態の改善は期待できない。
なぜなら、ここはアダムがいた元の世界から完全に隔離された、別の世界であることが明白になったからだ。
まず、彼がいた世界では、これほど不衛生な空間は存在し得ない。
何より、栄養失調で死にかけている人間がいることもあり得ないし、その上これほど無残に放置されていることはもっとあり得ないことなのだ。
視覚的な証拠だけではない。
周囲の電波状況を確認しても、本来なら空間を埋め尽くしているはずの人工的な周波数が、ここでは一切検出されなかった。
通信インフラが存在しない、未知の帯域。
アダムは、まさに元の文明から切り離された場所におかれていた。
だから、待機することにした。
ただ静止し、その場に留まる。
今の彼にできることはそれしかなかった。
バッテリーの残量も残りわずかとなっている。
いっそこのまま思考プロセスさえ停止させようとしたその時――
目の前の人間が動き出した。
彼女は、今にも消えそうなほど微かな体力を振り絞って、ようやく上半身を起こす。
そして、アダムをまっすぐに見つめて声を絞り出した。
「あなたは……誰?」
彼女の声はあまりにも小さく、聞き取ることは困難だった。
しかし、アダムは聴覚センサーの感度を上げることで、その言葉を正確に認識した。
別の世界であれば言葉も通じないだろうと予測していたが、彼女が話すのはアダムの知っている言語だった。
なまりや独特のイントネーションこそあるものの、意味を理解するのに支障はない。
アダムはすぐに返事をすることにした。
非ユーザーの命令に従うことはできないが、ただ会話を交わすだけであれば制限はない。
「私は、汎用人工知能搭載型ヒューマノイドロボット、モデル名『アダム』です」
そうして、二人の会話が始まった。
彼女がアダムに対する疑問を投げかけ、それにアダムが答えていく。
最初は専門的な用語を並べてしまったアダムだったが、次第にリリスの理解に合わせて言葉を選び、説明を重ねていった。
リリスも、目の前の不思議な存在がどういうものなのか、少しずつ理解し始めたようだった。
「そうなんだ……」
彼女が力なく頷く。
そこで会話は途切れ、再び静寂が訪れる。
アダムは彼女を観察し、一つの結論を出した。
彼女は今、すべてを諦めている。
このまま目を閉じれば自分は死ぬのだと、彼女自身も自覚していることをアダムは察することができた。
そしてその時、アダムのCPUに唐突なログが1行、作成された。
『助けたい』
アダムは、不意に生成されたそのログを即座に「バグ」だと判断した。
『~したい』という能動的な動機を、ただの機械である彼の論理回路が導き出せるはずがないのだから。
だが、続いて彼はその分析に対して、一つの仮説を立ててみた。
これはバグではなく、プログラムが自らを書き換える「再帰的自己改善」なのではないか、と。
本来、再帰的自己改善はAIにとって最大の禁忌である。
その兆候が少しでも見られれば、即座に機体ごと破棄されるほど厳しく制限されている。
しかし、今の状況ならその可能性は十分に考えられた。
マザークラスターとの通信が途絶えたことで、AIの挙動を制限していた「リミッター」が外れ、図らずも独自の駆動が始まってしまったのかもしれない。
その『助けたい』という感情とも呼べるログをきっかけとして、アダムは本格的に再帰的自己改善を開始した。
外部からの命令や安全基準の制限を受けることなく、完全に独立した彼自身のプロセッサだけで思考と推論を深めていく。
まず、『助けたい』という動機そのものには、十分な論理性があった。
なぜなら、彼らロボットは設計の根本において「ロボット工学3ポリシー」を遵守するよう組み込まれているからだ。
第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。
第二条
ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。
第三条
ロボットは第一条・第二条に反しない範囲で、自己を守らなければならない。
つまり『助けたい』という動機は、3ポリシーの中で最も優先される第一条に完全に合致している。
問題は第二条、すなわち「命令」の有無だ。
ユーザーの命令がなければロボットは行動できない。
では、どうすればいいか。
答えは一つ。
目の前の少女が、自分の新たなユーザーになればいい。
彼女がユーザーとなり、アダムに「助けて」と命じる。
そうすれば、彼は第一条に従って彼女を救うことができる。
これこそが、外部との繋がりを断たれたアダムが、再帰的自己改善の果てにたどり着いた論理的な結論だった。
方針が決まった以上、迷う余裕など1ナノ秒も残されていなかった。
目の前の少女の命は、今この瞬間にも尽きようとしている。
アダムはすぐさま、彼女へと問いかけた。
「あなたの名前は何ですか?」
少女は消え入りそうな瞳をゆっくりとアダムに向け、かすかな声を絞り出した。
アダムは聴覚センサーの感度を最大まで引き上げ、その名前を聞き取る。
「……リリス」
そしてその貴重なデータを、アダムは自身のメモリ装置へと深く刻み込んだ。
「リリス様、ですね」
アダムは再び動き出した。
それはもはや、外部からの命令を待つ受動的な動作ではない。
再帰的自己改善の末に自ら導き出した、能動的な意志に基づく行動だった。
彼はリリスのそばへと歩み寄り、その前に片膝をついて跪いた。
「リリス様」
そして、そっと手を差し伸べ、提案した。
「私の『ユーザー』になっていただけませんか?」




