第12話:汎用人工知能搭載型ヒューマノイドロボット
見間違いだろうか。
だが、リリスは目を逸らさずにその男を——いや、死体を見つめ続けた。
男は背中を丸め、こちらに背を向けたまま倒れている。
顔は隠れて見えない。
そのまま微動だにしない様子を見て、やはり見間違いだったのかと視線を外そうとした、その時だった。
——ピーン
澄んだ音が響いた。
それは、この古びた牢獄にはおよそ似つかわしくない、あまりにも明快で綺麗な音色だった。
先ほど凄まじい勢いで叩きつけられたばかりの男から発せられたとは、到底信じられないような響き。
それに、人間の喉から発せられるような音でもなかった。
何か鈴でも持っているのだろうか。
いや、鈴の音とも違う。
これまでにリリスが一度も聞いたことのない音だった。
強いて例えるなら、以前、彼女が皇宮の舞踏会で働いていた時に耳にした楽団の楽器、その中の一つに近いかもしれない。
洞窟のように冷え切った牢獄の中で、
その澄んだ音が反響し、静かに消えていく。
その時だった。
男の体が、ゆっくりと動き出した。
リリスは思わず後ずさった。
座り込んだまま、這うようにして距離を取る。
死体が動き出したという、限界を超えた恐怖が彼女の体を突き動かす。
悲鳴を上げる余裕すらなかった。
ただ、何が起きているのかを見届けるように、その動きをじっと見守る。
男は、まず上半身を起こした。
その動作は、まるで毎朝決まった時間に目覚めるのが習慣になっている人間が、ごく当たり前にベッドから起き上がる時のように、淡々としたものだった。
無駄な力みがなく、迷いも、もたつきもない。
そんなあまりにも自然な所作で、床に胡坐をかいて座った。
その拍子に、自然と彼の体はリリスの方を向く。
そこでようやく、リリスは男の顔を正面から捉えることができた。
「……」
思考を失う。
停止した頭の中を、鮮烈な刺激が一気に突き抜けていく。
男の顔は、あまりにも美しかった。
その美しさは、以前見た聖騎士団団長、イヴァヌエルに匹敵するほどだった。
雰囲気こそ違うが、イヴァヌエルが手の届かない高貴な王子様だとするなら、目の前の男は爽やかな美少年といった印象だ。
年齢はリリスと同じ十七歳くらいだろうか。
艶やかな黒髪に、人種を断定できない、さまざまなルーツが混ざり合ったような不思議な魅力を持つ顔立ち。
肌は白く、それでいて健康的な美しさに満ちている。
大人の男性らしい凛々しさと、少年の無邪気さが同居するその顔には、抗いがたい引力があった。
そして何より、リリスの目を釘付けにしたのは――
彼の青い瞳だった。
吸い込まれるように、彼の瞳に見入ってしまう。
これほど無害で、これほど純粋な目を、リリスは今まで見たことがなかった。
(まるで、人間の目じゃないみたい……)
それにその瞳は、わずかに光を放っていた。
比喩ではなく、本当に発光しているように見える。
だが、確信は持てない。
それもそのはず、体が極限まで疲れ果てているから。
幻覚を見ているのではないかと、リリスは自分でも疑った。
(そうだ、幻覚に違いない)
死を待つばかりの囚人の前に、こんなに美しい少年が突然現れるはずがないじゃないか。
死を目前にして、とうとう頭がおかしくなってしまったのだと、リリスは納得した。
(死ぬ前に迎えに来てくれた、天使様なんだ……)
それなら、自分は天国へ行けるのだろうか。
リリスの胸に、ささやかな安心感が広がる。
けれど、その「天使」は座ったまま、ピクリとも動かなかった。
視線はまっすぐリリスに向けられ、綺麗な青い瞳で彼女を捉えているだけだった。
それなのに、彼は何も言わず、何の反応も見せない。
ただ、そこに静かに座り続けている。
まるで、精巧な彫刻のようだ、とリリスは思う。
それほどまでに、彼は微動だにしなかった。
生身の人間がここまで完璧に静止することなど、ありえるのだろうか。
わずかな瞬きや呼吸の気配さえ感じられないほど、微細な動き一つ見せない。
あまりの不自然さに、リリスは次第に恐怖を覚え始める。
沈黙に耐えきれなくなった彼女は、自ら口を開くしかなかった。
彼に向かって、恐る恐る声を絞り出してみる。
「あなたは……誰?」
「私は、汎用人工知能搭載型ヒューマノイドロボット、モデル名『アダム』です」
「……」
今までの沈黙が嘘のように、淀みのない答えが即座に返ってくる。
声は透き通るほどに聞き取りやすく、澄んだ音色をしている。
けれど、リリスには彼が何を言っているのかがさっぱり分からなかった。
発音には独特の響きがあり、どこかの訛りか、あるいは異国人の発音にも聞こえる。
言葉自体が聞き取れなかったわけではない。
ただ、言っている意味が理解できなかったのだ。
結局、彼女が辛うじて拾い上げることができたのは、最後の一言だけ。
「アダム……」
リリスは、その響きをなぞるように問いかけた。
「それが、あなたの名前なの?」
「半分は正解で、半分は誤りです」
彼はまたも即座に、淀みのない言葉を流し出した。
「『アダム』とは、あくまで私の個体識別を行うためのモデル名です。量産される設計に基づいた製品カテゴリーを示す記号であり、あなた方が用いるような、個人のアイデンティティを定義する『名前』とは性質が異なります」
「……」
リリスはまた黙り込んでしまう。
やはり何を言っているのかわからない。
だけどこのまま沈黙していると、相手もまた黙り込んでしまうのだった。
だからリリスは困惑したまま、なんとか問い返した。
「……あなたは、人間なの?」
すると、彼が説明を開始した。
「私は、高密度なニューラルネットワークを基盤とし、非構造化データの解析と推論を並列実行する汎用人工知能を搭載した自律個体です。物理的構造については、ナノカーボン製のエンドスケルトンと人工筋肉を統合したバイオニック・アクチュエータにより駆動する、極めて精緻な人間形態模倣型ヒューマノイド・プラットフォームであり、リアルタイムでマルチモーダル・インタラクションを最適化するために設計されました。つまり、生化学的なプロセスに基づく生命体ではなく、計算資源と工学的なプラットフォームが統合された……」
「ごめん」
結局、延々と続く暗号のような説明を、リリスは途中で遮るしかなかった。
そして、きまり悪そうに正直な気持ちを口にした。
「あなたが何を言っているのか、さっぱり分からないわ。……つまり、あなたは人間じゃないってこと?」
「……そうですね」
彼は、瞬時に態度を切り替えたかのように、先ほどよりも速度を落とし、落ち着いた声で説明を再開した。
「私は、人間に限りなく似た姿をした『動くお人形』のようなものです。中には、いろんなことを考えたり、お話ししたりできる『とても賢い心』が入っています。あなたたち人間とは違って、機械で作られた体を持っていますが、自分の意思で動くことができる存在です」
今度の説明で、リリスにもそろそろ話が見えてきた。
まだ聞き慣れない言葉はいくつか混ざっていたけれど、一番大事なところは理解できたつもりだった。
そこで彼女は、自分の知っている知識の中から、目の前の存在に当てはまりそうなものを探してみた。
「……じゃあ、あなたはエルフみたいな存在なの?」
そう尋ねたのは、彼があまりにもエルフを彷彿とさせるほど、浮世離れした美貌を持っていたからだった。
すると、アダムは問いに答える代わりにこう聞き返した。
「確認させてください。あなたの言うエルフとは、尖った耳を持ち、魔法や自然を操り、非常に長い寿命を持つ美しい種族……という認識で間違いありませんか?」
リリスは、よく分からないなりに小さく頷いた。
「うん……」
すると、アダムは静かに首を振って、説明を続けた。
「いいえ、違います。どうやらここは、私が元いた場所とは別の世界のようです。私のいた世界では、私のような動く人形はどこにでもいる、ごく当たり前の存在です。でも、この世界には、私と同じようなものは一つも存在しないのでしょう」
リリスは壁の大きなくぼみへ、再び目をやった。
そして、さらなる疑問を口にする。
「どうして、無事なの?」
少し言葉が足りなかったかと思ったが、アダムはまたも淀みなく答えを返してきた。
「あの壁にあれだけのくぼみができるほどの衝撃を受けたのに、私の体には傷一つなく、平然としているのが不思議だということですね?」
リリスは少し圧倒されながらも、小さく頷いた。
「……うん」
彼の説明が続く。
「私の体は、見た目こそ人間と同じようですが、中身は全く違います。とても特別な材料でできているので、石や鉄よりもずっと頑丈なのです。それでいて、あなたの肌と同じように柔らかくしなやかに動くこともできます。だから、あんな風に壁に叩きつけられても、大きく損傷することはありません」
「そうなんだ……」
リリスは、力なく頷いた。
世の中には不思議なものもいるのだと、
リリスは消え入りそうな意識の中で思う。
あまりに多くの情報が洪水のように流れ込んできた。
疲れ果てた彼女の脳はさらに重く、鈍くなっていく。
耐えがたいほどの強烈な眠気が、リリスを襲う。
そして、彼女は直感する。
(このまま眠ると……それで終わり)
それは、逃れようのない死の予感だった。
だが、もはや生きようとする気力さえ、リリスには残っていなかった。
目の前にいるアダムという存在がいかに奇妙で異様であろうと、今の彼女には彼に興味を抱く余裕すら残されていない。
リリスは、かろうじて起こしていた上半身を、再びゆっくりと床へ横たえた。
そのまま意識を閉ざそうとした、その時だった。
「あなたの名前は何ですか?」
澄んだ声が、彼女の耳に届く。
もちろん、それはアダムの声だった。
そういえば、とリリスは思う。
自分はまだ名乗っていなかったのだ。
彼はあんなに熱心に自己紹介をしてくれたのに。
だからリリスは、ぽつりと自分の名前をこぼした。
「……リリス」
「リリス様、ですね」
その言葉を聞くと――
彼は、動き出した。
すっくと立ち上がり、リリスのすぐそばまで歩み寄る。
「リリス様」
そして、彼女の前に跪き、そっと手を差し伸べてきた。
「私の『ユーザー』になっていただけませんか?」




