第1話:悪魔の子
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五月中旬、厚い鉛色の雲が空を覆い尽くしていた。
しかし、皇宮の最上階にある舞踏会場は、外界の陰鬱さとは無縁の、まばゆい華やかさに満ちていた。
天井には数万のクリスタルが連なる巨大なシャンデリア。
磨き抜かれた大理石の床には、その光が星屑のように反射している。
壁一面の大きな窓からは荒涼とした海が一望でき、優雅な弦楽の調べが、高い天井に反響しては甘く溶けていく。
そこはまさに、地上で最も天国に近い、浮世離れした黄金の楽園に見える。
その豪華な空間を彩るのは、色とりどりのドレスや勲章を胸に飾った貴族たち。
彼らは扇を揺らし、洗練された所作で談笑に興じている。
リリスは、そんな人々の間を縫うように歩き、メイドとしての務めに勤しんでいた。
銀のトレーに乗せているのは、極北の氷晶で冷やした琥珀色の熟成果実酒や、幻の青い花から抽出された芳醇な香りのリキュールなど、平民の一生分の稼ぎでも一杯すら買えないような高級酒ばかり。
ふと、リリスは足を止めた。
優雅に笑い、さざめき合う貴族たち。
そして視線を窓の外へ向ければ、そこにはどんよりとした灰色の海が広がっている。
「……はぁ」
小さく吐いた吐息が、手に持った銀のトレーを曇らせる。
空になったトレーを鏡のように覗き込むと、そこに一人の少女の顔が映し出される。
丁寧にまとめ上げられた金髪は、乱れ一つなく後頭部で結い上げられている。
瞳は、深い森の奥を連想させる瑞々しい新緑の色。
しかし、その瑞々しさをを台無しにしているのは――
彼女の絶望的なまでの表情の乏しさだった。
目の下には深い隈が刻まれ、その瞳には光がまるで宿っていない。
映っているのは、あの濁った海の色とよく似た、空虚で殺風景な無表情だけ。
(……ひどい顔)
自嘲気味にそう思うのも束の間、彼女はすぐに意識を仕事へと引き戻した。
再びトレーに新しいグラスを並べ、喧騒の中へと足を踏み出す。
その時、一人の貴婦人が小さく手を上げた。
リリスは音もなくその傍らへ歩み寄り、従順に腰を落としてトレーを差し出す。
貴婦人は隣の婦人との会話に夢中になったまま、リリスの方を見ようともせずに手を伸ばした。
その指先が、グラスに届くよりも早く、リリスの持つトレーをかすめた。
――パチッ!
その瞬間、静電気とは明らかに質の違う、鋭い火花が青白く弾けた。
「……っ!」
不意の衝撃に貴婦人が短く悲鳴を上げ、反射的に手を引っ込める。
その反動でリリスの持つトレーが大きく傾いた。
ガッシャン、と。
会場に、クリスタルグラスが砕け散る無慈悲な音が響き渡る。
琥珀色の酒が貴婦人のドレスの裾を汚し、周囲の視線が一斉にこちらへと突き刺さる。
「も、申し訳ありません……!」
リリスは慌てて床に膝をつき、破片を拾おうとした。
しかし、貴婦人は彼女を人間として扱うことすら拒むような、苛立ちに満ちた声を上げた。
「……なんてこと。このドレス、東方の絹で設えたばかりなのよ? こんな泥臭い娘に触れられただけでも不愉快なのに!」
その騒ぎを聞きつけ、年配の先輩メイドが血相を変えて駆け寄ってきた。
彼女は貴婦人の前で、地面に額をこすりつけるほどの勢いで頭を下げる。
「誠に、誠に申し訳ございません! すぐに別の者が対応いたします。教育の行き届いていない新人ゆえ、どうか、どうかご容赦を……!」
先輩メイドはリリスを射抜くような鋭い視線で見据えると、低く、冷たい声で言い放った。
「……あなた、ついて来なさい」
リリスはただ震える手で空のトレーを抱え、準備室へと連行されていった。
***
「仕事中にぼうっと突っ立って、何に気を取られていたのよ」
「申し訳ありません」
リリスは頭を下げたが、その声にはいささかの感情もこもっていない。
機械的で事務的な響きは、謝罪というよりは単なる報告のようだった。
それが先輩メイドの神経をさらに逆なでする。
「何なのよ、その態度は。その無表情は!そんなぶっきらぼうで仕事になると思っているの?メイドの基本は笑顔でしょう」
「……仕方ないです。この子、孤児院の子ですから」
たまらず横から口を挟んだのは、リリスを雇った別のメイドだった。
「孤児院!?」
先輩メイドが素っ頓狂な声を上げる。
「孤児院の子を雇うなんて、正気なの?ここは皇宮なのよ!」
「だって、本当に人が足りないんですもの」
説明するメイドの声が、苦々しく細くなる。
「『魔女狩り』の影響ですよ。どこもかしこも人手不足で、募集をかけても誰も来やしない。まず人を探すことすらままならない状況だったんですから」
「だからといって、孤児院なんて……。メイド長が知ったら、間違いなく激怒するわよ」
「大丈夫ですよ、バレませんって。今日限りの日雇いですから」
二人の先輩メイドは、彼女を「使い捨ての廃品」でも品定めするような蔑みの目で見下ろした。
やがて大きな溜息をつくと、そのうち一人が顎で出口を指した。
「とにかく、あんたはこの華やかな舞踏会場には全く似合わないわ。別の場所で働いてちょうだい。厨房の奥に水回りがあるから、そこへ行って。今すぐに」
「かしこまりました。……厨房は、どちらでしょうか」
その時、舞踏会場の方から別のメイドが呼ぶ声が響いた。
二人のメイドは即座に返事をし、背を向けながら吐き捨てるように言った。
「そんなの自分で探しなさいよ!案内する時間なんてないんだから」
足早に去っていく二人の背中を見送り、リリスは一人、静まり返った準備室に取り残された。
仕方なく、リリスは教えられた「厨房」を探して歩き始めた。
皇宮の最上階は、舞踏会場以外にも数多くの客室や控室がある。
見上げるほど高い天井が続く廊下は、まるで複雑な迷宮のようだった。
なぜか通りがかる職員の姿も全くなく、どこまでも続く静寂がリリスの足音を強調する。
右も左も分からぬまま歩き回るうちに、彼女は完全に道を見失ってしまった。
気がつけば、先ほどまでの喧騒が嘘のように、全くひと気のない一角に迷い込んでいた。
(……ここは、どこ?)
立ち止まり、周囲を見渡す。
とにかく誰かを見つけて道を尋ねるしかない。
リリスは意を決し、目の前にある重厚な木製のドアをノックして、中へと足を踏み入れた。
そこは、ドレスルームだった。
室内には、まるで百年以上も人の気配がなかったかのような、深い静寂が満ちていた。
しかし、そこに並ぶ品々は決して朽ちてはいなかった。
壁際を埋め尽くすように並べられたドレスの数々。
繊細なシルクの光沢が柔らかな光を反射し、裾にあしらわれた最高級のレース。
職人が一針ずつ魂を込めたであろう見事な刺繍。
すべてが宝石のような煌めきを放っている。
真珠やクリスタルを惜しみなく散りばめた夜会服、重厚なベルベットが威厳を放つローブ。
それらは塵ひとつなく手入れされ、整然と佇んでいた。
自分が致命的に道を間違えたことは、すぐに理解できた。
本来なら、すぐにドアを閉じて立ち去るべきだろう。
けれど、十七歳の少女にとって、その光景は到底あらがえることのできない魔力に満ちていた。
磁石に引き寄せられるように、リリスの足は室内へと向かった。
ドアを開けっぱなしにして、夢遊病者のようにふらふらとドレスの間を歩き始める。
そして不意に、一着のドレスと視線がぶつかった。
それは、彩る絢爛豪華な衣装の数々と比較すれば、比較的シンプルなデザインのドレスだった。
肩をわずかに覆うだけのノースリーブで、スカートの広がりも過度ではない。
だが、その無駄を削ぎ落としたかのような潔い美しさが、かえってリリスの視線と心を強く捉えて離さなかった。
そして、色合い。
深く、それでいて底知れぬ透明感を湛えた、深緑色。
まるで大地の息吹を閉じ込めたかのような、生命力に満ちた色にも見える。
「奇麗……」
リリスの指先が、滑らかなドレスの生地に引き寄せられる。
まさに触れようとした、その刹那。
「あんた、ここで何をしているのよ!」
背後から飛んできた鋭い声が、室内の静寂を切り裂いた。




