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第33話 酪農

ミルデン領の春は、牛の匂いと土の匂いと、少しだけ湯気の匂いがする。


 朝の空気はまだ冷たいのに、堆肥小屋へ近づくと、そこだけがふわりと暖かい。冬のあいだ積み上げられた敷き藁と牛糞とおが屑が、ゆっくり発酵して熱を持っているからだ。屋根の下には、茶色い山がいくつも並んでいる。表面は乾いて見えても、中へスコップを入れると濃い色の層が現れ、そこから白く息のような湯気が立つ。


 ミルデン領では、それもまた立派な商品だった。


 肉、ミルク、バター、チーズ。そして堆肥。牛から得るものは多い。しかも、それぞれが別々にあるのではない。乳を搾れば牛舎は汚れ、敷き藁は積まれ、やがて発酵して畑の力になる。仔牛は育ち、雌は乳を出し、雄や役を終えた牛は肉になる。きれいな部分だけを切り取っても、領の営みは成り立たない。


 ミルデンの堆肥は、砂糖研究会にとっても欠かせない。グレンウッド領の畑へも運ばれていく山のような堆肥を思えば、エミリアにとってもここは、ただ牧歌的なだけの領ではなかった。


 だからミルデン領では、領主の令嬢もまた、その現場から逃げられない。


 その朝も、アグネス・ミルデンは作業服姿でスコップを持っていた。丈夫な布の上衣に、裾を上げたスカート、長靴、厚手の手袋。帽子の縁には藁くずがついている。王都の応接間では少し浮きそうな格好だが、この領ではよく似合っていた。


「今年も、いい堆肥ですねえ」


 そう言って、アグネスは堆肥の山へスコップを入れた。


 ざくり、と崩した途端、奥のほうで白いものがゆっくり動いた。


 するり、と現れたのは白蛇だった。長さは三メートルほど。しかも長いだけではない。いちばん太いところは十センチを軽く超え、十五センチ近くありそうで、細長いというより白い丸太がうねっているように見える。知らずに出会えば、たいていの人間は悲鳴を上げる。


 だがアグネスは驚かなかった。


「おはようございます。今年もよろしくお願いしますね」


 白蛇はぴたりと止まり、舌をちろりと出した。それから、またゆっくりと身体をほどいていく。


 冬の堆肥小屋は暖かい。暖かい場所には小動物が寄り、小動物が寄れば、それを食べる白蛇も住み着く。だからミルデン領では、堆肥小屋の白蛇は追い払うものではなかった。鼠を減らしてくれる、有能な同居人である。


「今年も、しっかり働いてくださいね」


 アグネスはそう声をかけて、また堆肥を崩した。


 春のミルデン領では、こういう挨拶も、わりと普通だった。


◇◇


 初夏になって、砂糖研究会のご令嬢たちがミルデン領を訪れた。


 名目は休養兼見学である。もっとも、砂糖研究会の「見学」はたいてい途中から手を出すことになるので、最初から穏やかな見物で終わると思っている者は少ない。


 馬車から降りたのは、エミリア、フローレ、ミレイユ、ヘレーネ、それにオリビアだった。道中の疲れはあるが、王都の研究棟にいるときよりも、皆どこか肩の力が抜けている。


 その一方で、迎えに出てきたアグネスを見て、全員が一瞬だけ黙った。


 麦わら帽子に作業服。肩に藁くず。靴は長靴で、しかも少しだけ土がついている。


 フローレが瞬きをしてから口を開いた。


「アグネスさん……そのままお迎えにいらしたのですか?」


「はい。朝の仕事の続きでしたので」


「続きのまま来るのですね……」


「続きのまま来ました」


 にこやかに断言されて、フローレは少しだけ押された顔になった。


「うちは朝の乳と牛舎の様子と堆肥の具合を見てからでないと、一日が始まりませんから」


「王都の令嬢教育には、まず入っていない項目ですわね」


 ヘレーネが笑うと、アグネスも頷く。


「その代わり、ミルデン領では必修です」


 そうして歩き出した道の脇で、草がさわりと揺れた。白い長いものが、眼の前をするすると横切る。


 先頭を歩いていたミレイユが、ぴたりと止まる。


「……今、何か通りませんでした?」


「通りましたね」


 アグネスは落ち着いて答えた。


「長かったですわよね?」


「長かったですね」


「太くもありませんでした?」


「はい。今年はとくに立派です」


「立派で済ませてはいけない大きさでしたわよ!?」


 白蛇は道を横切り、草むらの中へゆっくり消えていく。胴の太いところが草を押し分けるたび、そこだけ波が立つように見えた。


 フローレが思わずエミリアの後ろへ半歩寄る。


「思っていたより、ずっと“主”でしたわ……」


「そうですねえ。堆肥小屋の主ですねえ」


「そういう意味ではありませんの!」


 オリビアが肩を揺らし、ヘレーネは面白そうに見ている。エミリアも口元を押さえた。アグネスだけが本気で不思議そうだった。


「でも、白蛇さんですよ?」


「色の問題ではありませんの」


 ミレイユが真顔で言うと、アグネスは少し考えてから、


「太さでしょうか」


 と答えた。


「全部ですわ!」


 そこまで言われて、さすがのアグネスも小さく笑った。


「大丈夫です。毒はないしおとなしいので、触らなければ、向こうも困らせません。鼠を減らしてくれるので、うちではむしろいてくれたほうが助かります」


 その説明を聞きながら、エミリアは草むらのほうへ目を向けた。穀物倉庫の鼠害は、グレンウッドでも頭の痛い問題だ。もし天敵が定着する環境をうまく作れれば――と一瞬考えたが、蛇を本格的に扱い始めると周囲が本気で止めに来そうなので、その場では考えを引っ込めた。


◇◇


 牛舎は明るく、風通しがよかった。


 床の敷き藁は乾いていて、水桶も清潔である。牛の身体はよく拭かれており、乳搾りのための道具も整然と並んでいた。ミルデン領では乳が主力商品のひとつなので、牛の機嫌も、牛舎の手入れも、そのまま収入に響く。


「乳は、搾った瞬間から傷み始めます」


 歩きながら、アグネスが言った。


「ですから、うちは絞ったあとの仕事が大事なんです。牛の健康、乳房の清潔さ、桶の洗い方、こぼさないこと、早く次の処理へ回すこと。どれかが雑だと、すぐに味に出ます」


 こういう話をしているときのアグネスは、いかにも研究会の仲間らしい。牧場の令嬢というより、乳製品担当の研究者である。


 まず見せてもらったのは、絞りたての牛乳だった。まだ少し温かい。


「これを静かに置いておくと、上に脂肪分が浮いてきます。そこがクリームです」


 広い器の表面を薄い匙でそっとすくうと、少し濃く、とろりとした層が取れた。


「これを集めて撹拌すると、バターになります」


 次に出てきたのは、蓋つきの縦長の桶と、上下に動かす撹拌棒だった。見た目は単純だが、単純なものほど腕に厳しい。


「どなたか、やってみます?」


「わたくし、やりますわ」


 真っ先に手を挙げたのはフローレだった。料理系として、ここで引くわけにはいかないらしい。


 上下、上下、上下。最初は軽い。だが三十回も動かせば腕が重くなり、五十回を越えるころには笑顔に少し無理が出る。


「……思ったより……」

「力仕事です」


 アグネスが穏やかに補足する。


 次はヘレーネが引き継いだが、今度は工学系らしく張り切りすぎて早々に息が上がった。


「理屈では簡単なのに、腕が先に駄目です」

「理屈では簡単で、体が保たない作業は多いんですよ」


 アグネスが真面目に返したので、オリビアが吹き出した。


「それ、すごく納得できます」


 結局、エミリア、オリビア、アグネス本人まで交代で棒を動かし続け、ようやく中身の感触が変わった。ちゃぷちゃぷしていた音が、ぽそぽそと粒の寄る音へ変わる。


「出来ました」


 蓋を開けると、白っぽい液の中に黄色味を帯びた塊がまとまり始めていた。


「これがバターです。残った液はバターミルクで、こちらも無駄にはしません」


 できたての若いバターを、焼きたてのパンにのせる。塩を少しだけ振る。それだけで十分だった。


 フローレが一口食べて、しばらく目を閉じる。


「……危険ですわ」

「何がですの?」

「これだけで昼食が終わってしまいそうなところが」


 オリビアもすぐ頷いた。


「パンが悪いのではありません。バターがいけません」


 アグネスは嬉しそうに笑った。酪農領の人間は、こういう反応をもらうとだいたい機嫌が良くなる。


◇◇


  牛舎のさらに奥、少し離れた建物のほうから、低い牛の声が聞こえてきた。


 さっきまで笑っていた空気が、そこで少しだけ静かになる。


 アグネスは隠さなかった。ただし、近くまでは連れて行かなかった。


「あちらが屠場です。今日は遠くから見るだけにしましょう」


 牛が引かれていくのが見える。暴れてはいないが、その先に何があるのかは、見学する側が軽く扱っていいものではない。


 そのかわり、手前の加工場は、もう朝のうちから慌ただしかった。


 大鍋には火が入り、塩袋が開かれ、香草を刻む音がしている。麻紐の束が台に置かれ、樽の蓋が外され、桶を運ぶ者、布で肉を拭く者、骨をより分ける者が、互いに声を掛けながら持ち場を移っていた。ひとつ潰したら、そこで終わりではない。むしろそこからが忙しい。初夏の肉は待ってくれない。今日焼いて食べる分、塩を当てる分、煮て油漬けに回す分、干し場へ送る分――切り分けと同時に行き先を決めて、人手を一気に動かさないと、すぐに傷み始める。


 アグネスはその様子を見て、少し肩をすくめた。


「ですから、屠殺の日は、屋敷じゅうが少しざわつくんです。のんびりしていると、すぐに傷んでしまいます」


 王都では、肉は切られたあとで見ることが多い。だが、生肉は長く置けないし、遠くへ運ぶにも向かない。肉は屠場の近くで食べられるか、保存食にされてから流通する。


「豚ならハムやソーセージになりますし、牛なら干し肉、油漬け、塩漬け牛肉に回ることが多いです」


 アグネスは歩きながら説明した。


「王都の方は、牛がいればいつでもステーキにして焼けると思いがちですけれど、そんなに都合よくはいきません。真冬なら、地下の冷えた肉蔵に吊るしておけば、数日は生のまま回せます。寒さが続く年なら、一週間近く、ステーキを焼く分を残せることもあります。でも、今みたいな初夏ではそうはいきません。焼いて食べるなら、屠殺したその日だけです。残りはすぐに干し肉か、油漬けか、塩漬け牛肉に回します」


「なるほど……」


 フローレが小さく頷く。


「贅沢なステーキは、その日のご馳走なのですね」


「ええ。だからこそ、どこまでを生で回して、どこから保存へ入れるか、その見極めが大事なんです」


 アグネスは言った。


「牛乳も同じです。そのままでは長く保ちませんから、チーズかバターかヨーグルトにします。うちは結局、“保存の技術”で食べているようなものなんです」


 案内された加工場では、すでに下処理の済んだ肉に塩と香草がすり込まれていた。


 台の上にあるのは、今日は豚肉だった。腿肉はハム用に整えられ、細かく刻まれた肉はソーセージ用に香辛料と合わせられている。その一方で、別の棚には牛の干し肉が吊るされ、奥では塩漬け牛肉の樽が並んでいた。大鍋の脇には、煮た牛肉を脂で覆って保つための壺まである。


「今日はハムの仕込みを少しだけ体験していただきます」


 分厚い肉の表面へ塩をすり込み、砕いた香草を押しつけていく。見た目より力がいるし、均一に入れないと保ち方にも味にも差が出る。


 フローレはすぐ真剣な顔になった。


「これは料理というより、加工ですわね」

「ええ。まず保たせることが先です」

「その上で美味しくする」

「その通りです」


 その横で、オリビアは大鍋に視線を釘づけにされていた。骨と筋が煮えている。


「それ、捨てませんのね」

「捨てません」

「スープになります?」

「なります。牛の骨はスープにしますし、煮た肉はほぐして油漬けに回すこともあります」

「いいですね」

「いいですわね」


 オリビアとフローレがほとんど同時に頷き合うので、アグネスが笑った。やはりこの二人は、そういうところへ真っ先に飛びつく。


◇◇


 昼食は、厚切りの豚腿ハムのサンドだった。


 ハムは五ミリどころではない。しっかり肉の厚みがあり、その間に若いバターがパンへ少し溶けている。白いチーズが添えられ、骨の出汁を使った温かいスープまでついていた。


 一口食べて、フローレが真顔になる。


「……厚いですわ」

「厚いですね」

「見た目だけの厚さではありませんのね」

「そうですね」

「ちゃんと美味しいですわ……」


 オリビアはもう二口目だった。


「保存食って、もっと我慢して食べるものかと思っていました」

「それでは続きませんもの」


 アグネスは当然のように答える。


「日持ちは大事ですが、まずくしすぎると作る側も食べる側も嫌になります。毎日関わるものほど、ちゃんと美味しくないといけません」


 エミリアはスープを飲みながら、小さく頷いた。グレンウッドが穀物と輸送で成り立つように、ミルデンは乳と肉と堆肥で成り立っている。どちらも派手ではないが、止まればすぐ困る。そして、そういうものほど研究のしがいがある。


◇◇


 食後、アグネスが思い出したように言った。


「そうでした。兄のところも見ていってください。きっと皆さん、お好きな話だと思います」


「好きな話?」

「たぶん、かなり」


 案内されたのは、牛舎の裏手にある小さな作業小屋だった。外から見れば質素な建物だが、中には同じ形の瓶がずらりと並んでいる。机の上にも棚の上にも窓辺にも瓶があり、中身はどれも牛乳らしい。あるものは白く澄み、あるものは表面に薄く膜を張り、あるものには札が結ばれていた。


 中央には大きな湯桶が二つ置かれ、そのそばに若い男性がしゃがみ込んでいる。


「兄です。パステル兄さん」


 振り向いた青年は、アグネスによく似た顔立ちをしていたが、目つきには少し違う種類の熱があった。人よりも、まず手元の瓶の状態を優先するタイプだ。


「ようこそ。ちょうど困っていたところです」


「困っているのですか?」


 ミレイユがすぐに反応する。


 パステルは机の上の瓶を一本持ち上げた。


「牛乳を瓶に詰めて、加熱して、どれくらい保つかを見ています。高めの温度まで上げれば、かなり長く保つところまでは分かってきたんですが、上げすぎると風味が落ちるんです。煮た匂いも強くなりますし、せっかくの乳の甘みが少し弱くなる。だから、もっと低い温度で、味をあまり損なわずに傷みにくくできないかを探してます」


 エミリアが一歩近づいた。


「瓶のまま加熱しているんですね」


「ええ。まず絞った牛乳を布で漉して、なるべく早く瓶へ入れます。瓶は事前に洗って煮て、乾かしてあります。栓も同じです。入れたらすぐ栓をして、湯へ入れる。直接火にかけると、底だけ強く熱くなって焦げ臭くなったり、味が変わったりするので」


 それはかなり筋が良い。ミレイユもすぐ頷いた。


「湯で瓶ごと温めているのですね」

「はい。なるべくゆっくり、均一に」


 パステルは二つの湯桶を示した。


「こっちは熱い湯、こっちは少し低い湯です。ひとつだけだと、火加減を変えたときの揺れが大きくて、狙ったところへ止めにくいので」


 ヘレーネが感心したように眉を上げた。


「それをもうやっているんですの」

「やってみたら、そのほうが扱いやすかったので」


 エミリアは机の上の札を見た。印と短い書き込みはあるが、温度の数字は入っていない。


「今は、どのくらいの温度でやっているんですか?」


 そう聞かれて、パステルは少し困ったように笑った。


「それが、まだ厳密には測れていません。温度計がなくて」


「温度計をご存じないわけではなく?」


 ミレイユが念のため確認すると、パステルは首を振った。


「もちろん知っています。王立大学校にあるのも知っていますし、アグネスから砂糖研究会で使っている話も聞いています。ただ、あれは入手しにくいでしょう。割れ物ですし、牧場の作業小屋で使うには、ちょっと贅沢で」


 そこまで聞いて、研究会の面々が一斉にアグネスを見た。


「アグネスさん」

「はい」

「なぜ王立大学校の購買部に頼まなかったのです?」

「……あ」


 きれいに固まった。


 フローレが半ば呆れて言う。


「ありますわよね、購買部」

「ありますね……」

「取り寄せできますわよね」

「できますね……」

「なぜ頼まなかったのです?」

「兄は大学所属ではありませんし、兄の温度感覚で十分だと思っていました……」


 オリビアが思わず突っ込む。


「そこを砂糖研究会の伝手でねじ込むのが、こういう会の仕事ではなくて?」

「その通りですわ」


 ミレイユまで真面目に頷いた。


 アグネスは両手を胸の前で揃えた。


「申し開きの余地がありません」


 あまりにも素直なので、怒るより先に笑いが起きる。パステルまで苦笑していた。


「いや、妹だけのせいではありません。こちらも、現場の感覚である程度は詰められると思っていたので」


「そこまでは間違っていません」


 エミリアが言った。


「実際、パステル様のやり方はかなり筋がいいと思います。ただ、ここから先は数字が入ったほうが早いのです」


 ミレイユが机の上の紙を引き寄せた。


「まず、狙いを分けましょう。すでに分かっている高温側では、かなり保存ができる。ただし風味が落ちやすい。なら、知りたいのはその手前です。六十度台の前半、中ほど、後半。さらに七十度台の入り口。そのそれぞれで、時間の掛け方も変えます」


 パステルの目が真剣になる。


「温度と、時間の両方ですか」

「ええ。同じ六十五度でも、一瞬そこへ達しただけなのか、30分その温度に置いたのかで、結果は違うかもしれません」


 エミリアが紙に線を引きながら続けた。


「だから、瓶ごとに条件を分けます。たとえば六十度で一定時間、六十五度で一定時間、七十度で一定時間、七十五度で一定時間。加熱後は同じ場所で冷ます。日が当たらず、涼しく、風通しのいい場所に置いて、毎日状態を見る」


「観察項目は?」


「匂い、分離、膜の張り方、酸味、泡立ち、栓の持ち上がり。開けたときの音も参考になりますわね」


 フローレがすかさず口を挟む。


「味見は?」

「危ない段階に入る前まで」

「その見極めは?」

「まず匂いです」

「了解しましたわ」


 オリビアも紙の端に書き足した。


「風味の比較は、加熱直後と翌日、それから保った日数ごとに。乳の甘みがどれだけ残るか、煮た匂いが強くなりすぎないか、口当たりが重くならないか、そこを見ます」


「料理人はそこを見るのですね」

「そこを見ないと、美味しいかどうかが分かりませんものね」


 ヘレーネは湯桶のそばへ寄って、中をのぞき込んだ。


「二つの湯桶を分けているのは、かなり良いですわ。熱すぎるほうへ入れっぱなしにするより、狙った温度に調整しやすい。購買部から温度計が届いたら、まずは湯の温度の癖を見たほうがよさそうですね」


「癖、ですか」

「ええ。火を弱めたらどれくらいで下がるのか。熱い湯をどれくらい足せば戻るのか。そのあたりが分かれば、毎回の調整が早くなります」


 パステルは何度も頷いた。


「なるほど……。今までは感覚で辿ってきましたが、そこへ数字が乗れば、誰でも再現できる」


「そういうことです」


 エミリアははっきり言った。


「兄さんの体感は無駄ではありません。むしろ財産です。でも、それを他人に渡せる形にするには、温度計と記録が要ります」


 パステルは嬉しそうに笑った。


「ではまず、温度計を手に入れないといけませんね」


 そこでアグネスが、たいへん素直な顔で言った。


「……王立大学校の購買部に頼みます」

「最初からそうしてくださいまし」

「はい……」


 しょんぼりしているのに、誰も本気では怒っていない。その空気が、なんとも研究会らしかった。


◇◇


 午後のお茶は、屋敷の裏手の芝地で開かれた。


 風は穏やかで、遠くでは牛が草を食み、馬車道の向こうには堆肥小屋の屋根が見える。午前からの見学と体験でほどよく疲れたのか、王都から来た面々も、最初よりずっと肩の力が抜けていた。


「白蛇さん、今日はもう出ませんわよね……?」


 まだ少し警戒しているミレイユに、アグネスが苦笑する。


「たぶん大丈夫です。今日の分は、もう十分にお顔を見せていただきました」

「その言い方が、やっぱり慣れていらっしゃいますわね……」


 そのとき、上空でばさばさっと羽音が重なった。


 皆が顔を上げると、鳶が一羽、その後ろをカラスが追っている。どうやら飛び立ったばかりの蝉を巡って、小競り合いになっているらしかった。


「ああ、夏らしいですねえ」


 アグネスがのんびり言う。


「地上では牛が草を食べて、空では鳶とカラスが蝉で空中戦をするんです」

「ずいぶん牧歌的なような、そうでもないような」


 ヘレーネが言うと、フローレが笑った。


「でも、こういう景色を見ながらいただくお茶は、悪くありませんわ」


 エミリアは茶を口に運びながら、遠くの牛舎と堆肥小屋を見た。乳も肉も堆肥も、鼠も蛇も、全部が繋がっている。綺麗なところだけでは回らないのに、全体として見ると、とても穏やかな領だった。


 たぶん、穏やかというのは、何も起きないことではない。起きることが、ちゃんと毎日の仕事の中に収まっていることなのだろう。


 上空では、鳶がひとつ大きく旋回し、カラスが少し遅れて離れた。


「……勝ったの、どちらですの?」


 ミレイユが聞く。


 アグネスは目を細めて空を見た。


「たぶん、蝉です」


 その答えに、茶卓がいっせいに笑った。

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