ある猫の話
使用したお題:『花見』『ツンデレ』『ハプニング』『アトラクション』『スカート』
吾輩は幼猫である。
母猫から引き離され、気づいたらこんなところにいた。全く、生まれたばかりだというのになんて目に遭うんだ。
私を抱え上げた人間が、その下にいる小さい生き物の横に私を並べた。最近ようやく開いたばかりの目を凝らして隣の温かい生き物を見た。
私を持ってきた人間と比べて、それは恐ろしく小さな生き物だった。黒い体毛もなく、肌色一色だ。なんとも頼りない存在に見える。
なるほど、生まれたばかりの私と、生まれたばかりのコイツを兄弟のように育て上げようという魂胆か、とすぐに悟った。しかし私から見たら、弟妹というより出来の悪い下僕にしか見えない。
よたよたと近づいて下僕の顔に肉球を当てたらいきなりうるさい声を上げて鳴き出した。驚いた私は無様にも飛び退ってしまった。大きい方の人間が笑っているようだった。
なかなかやるではないか、下僕のくせに。
吾輩は子猫である。
毎日遊びたい盛りだ。何をするのも興味深くて、いろいろ手や尻尾を出してしまう。そのたびに下僕と一緒に怒られている。全く、あの泣き虫にも困った物だ。
下僕は明日から小学校というところに行くらしい。毎日赤いランドセルを嬉しそうに背負っている。
しかし下僕とは違い、私はとても不愉快だった。私の餌やり係兼ブラッシング係はいる。夜にしか帰ってこない風呂洗い係兼爪切り係は帰ってこなくていいが、いる。
ただ下僕が小学校とやらに出かけて家にいなくなると、猫じゃらし係が欠けてしまうことになるではないか。
下僕のくせに私を蔑ろにするなんてけしからん。罰として、今日は近づいてきても遊んでやらないことにする。泣き虫な下僕の泣き顔を思い浮かべて、私はキャットタワーというアトラクションのてっぺんでそっとほくそ笑んだ。
吾輩は猫である。
最近は自分で言うのもなんだが、落ち着いてきたと思う。しかし、その分狩猟本能が疼いて仕方ない。
下僕が初めて反抗した。どうにもこうにも、困ってしまった。
運動好きだったからズボンを履いていた下僕だが、最近妙にヒラヒラする布を腰に巻くようになった。それがいけなかった。
そのヒラヒラが気になって飛び掛かってしまったのだ。そしてタイミングも悪かった。爪切り係がサボるのがいけない。そのヒラヒラを真っ二つに裂いてしまった。それがいけなかった。
下僕はカンカンに怒り、私に向かって大声をあげた。餌の時間を知らせるような大声ではなく、怒りを露わにした怒号だった。初めてのことだった。恥ずかしながら私は怯んだ。
餌やり係が泣きわめく下僕を慰めていた。私は下僕相手とはいえ悪いことをしたら悪いと思う程度には謙虚だ。下僕の様子が気になって仕方がなかった。
その夜、下僕のベッドに久しぶりに潜り込んだ。許してくれたかはわからない。しかし下僕は私を抱きしめて顎下を撫でてくれた。
温かかった。
吾輩は成猫である。
最近体を動かすのが億劫になってきた。だからだろうか、時間が経つのが早い気がする。
下僕はこの前中学校に入ったと喜んでいたのに、今度は高校とやらに入ると騒いでいた。対して変わってない制服とやらの着心地を確認して何が楽しいのだろうか。
しかし、今回は一緒に喜んでやろうと思った。
中学校とやらに入るときは、ただ制服が可愛いとか何とか言って喜んでいるだけだったが、今度は違う。詳しくはわからないが、毎日遅くまで外出し、家に帰っても自室で一人努力をしているようだった。
私の遊び相手がいなくなることは正直不愉快だったが、我慢してやった。下僕も我慢して頑張っているようだったからだ。たまにソファーで寝そべっている私を執拗に撫でたりするのもされるがままにしていた。
下僕が初めて心から努力し、その努力が実って高校とやらに行けるようになったのだ。私だって嬉しいのだ。好きなだけ浮かれるがよかろう。
……別れは近いのだから。
吾輩は老猫である。
もはや体は動かせなかった。日がな一日、室内からベランダの外の景色を見ている。
ちょうど桜の舞う季節だった。下僕が物凄い大声をあげていた。さすがの私も驚いてのっそりと立ち上がってしまうほどだった。足が震えたせいで、すぐに座ってしまったが。
昔、スカートを裂いてしまったときと同じくらいの剣幕で、下僕の両親と言い争いをしていた。内容はよくわからない。最近頻繁に出掛けていることと関係しているのだろうか。とにかく酷い大喧嘩だった。
そして言い争いが収まると、下僕は大きな荷物を背負って家から出て行ってしまった。涙の跡が見えた。私は心配したが、昔のように自由に体は動かなかった。遠くから見ているだけだった。
今は、その事を少し後悔している。
吾輩は……限界だった。
自分の命の灯が消えようとしているのがわかる。死期が近い。私は誰も見ていないうちにそっと立ちあがった。
多少うるさいが、私はこの家の人間を気に入っていた。だから彼らに看取られるのも悪くはないと思った。しかし、本能は静かなところを求めていた。
弱っている私を見たら餌やり係と爪切り係が大騒ぎするだろうが、嬉しいけれど厭わしい。
それに……唯一の下僕がいない家にいつまでもいてもしょうがないと思ったのだ。頑張って今日まで耐えてきたが、限界だった。所詮私は猫、一匹で生き一匹で死ぬのだ。
人間たちは知らないところにある私専用の裏口から外へ出た。物陰に隠れて最後の猫生を静かに過ごそうと思ったのだ。よったよったと歩いて外へまろび出て、目の前の影に驚いた。
家の玄関先に、下僕が立っていたのだ。玄関のインターフォンを鳴らせず、立ち尽くしているようだった。
下僕も驚いたようだった。ほとんど動けない私が自分から外へ抜け出してきたのを見て。こちらに駆け寄ってきた。背後にいた見知らぬ人間を見向きもしないで、私を抱きしめてくれた。
温かかった。
こうやって抱きあげられるのは久しぶりだった。懐かしい匂いに包まれて穏やかな気持ちになる。悔しいがあの両親の計画は成功だ、いつの間にか私にとって下僕は大切な己の一部になっていた。
下僕もそう思ってくれたのかわからないが、なぜか泣いていた。言葉は相変わらずわからない。しかし何かを察したのだろうか、私の体をそっと優しく撫でた後、すぐに離してくれた。いつもの泣き顔で私を見送ってくれる。
ああ、やはりお前が一番だよ。
私は下僕の足に顔を一度ゆっくりと擦りつけると、そのまま家から出ていった。歩く速度は遅かった。そして何度も振り向いて下僕たちの姿を見た。下僕は、ずっと私のことを見ていてくれた。
下僕の姿が見えなくなった後、私は何か穏やかな気持ちで散り終えた桜並木の下を歩いていた。先程まであった後悔の気持ちは嘘のように消えていた。今なら、とても静かな気持ちで生を終えれるだろうと思った。
ああ、私は何と幸せだったのか。
私は桃色に染まる道を歩きながら、今まで下僕と一緒に歩んできた道の事を思い出していた。




