7話
昼食を終えた俺たちは、支払いを済ませ、外に出た。俺は、割と呑み込みが早いタイプなのだ。そうでなければ、どちらが財布の紐を解くかで一悶着あったのは言うまでもないだろう。
先ほどのジュースの件で俺は学んでいたのだ。だからこそ、あの場面で提案できた。
「……ここは割り勘で、だろ?」
「さすが、わかってるね」
これは、少し前に交わした会話だ。やはり、女性相手に会計を折半するのに、いい気分はしない。俺はこう見えても紳士なのだ。こう見えてもな。
しかし、割り勘でなければ……店先で再びあのやり取りを繰り広げることになる。それだけは避けたかった。目立つことはなるべくしたくない。
「さて、この後どうする?」
俺はさも自然な調子で、渚の意向を伺った。これには、いくら付き合いとはいえ少し自分でも笑ってしまう。こうした言葉が口をついて出てしまう自分にだ。
「そうだね、じゃあカラオケに行こう!」
カラオケ。これも、俺はいままで経験したことのないものだ。人前で歌うという行為。俺の感覚では、恥ずかしいことのように思う。しかし、今日は渚のやりたいことをするといった手前、断ることもできない。俺は、腹を括った。今日は、自らがこんなにも世間から乖離した存在だったのだと、痛感させられる日だ。
しかし、不思議とそれが嫌なものではないというのも、またおかしな話である。むしろ心地いい。
もしかしたら俺は、誰かから救ってもらいたかっただけなのかもしれないな──。
そんなことを思いながら、遠い目をしていたら、渚から「顔がキモい」とダメ出しされてしまった。頼む、俺の親に謝ってくれ。
歩いて間もないうちに、目的地に到着した。何事も初めては怖いものだ。緊張する。
渚は、慣れた様子で店内に入り、受付を済ませた。幸い混雑していなかったために、すぐに部屋に入ることができた。
すぐに目についたのは、巨大なモニター。明かりが点いていないため、室内はそのモニターの光で照らし出されている。
渚が照明のスイッチを入れると、部屋の全貌が明らかになった。壁の両側にソファが設置されており、その間にテーブルがある。十帖くらいはありそうな、二人で使うには少々広すぎる部屋である。
勝手がわからない俺は、入り口でマラカスを握りしめて立ち尽くす。そんな俺の姿を見て渚は笑いを堪えられなかったのか、ぷぷっと吹き出した。
「三条くん、突っ立ってないで座りなよ……」
「あ、あぁ……」
言われた通りに、俺は渚の向かい側に座った。すると、それに対しても渚の指導が入る。
「……あのねぇ、二人で来てるんだから普通は隣に座るでしょ」
「そういわれてもだな……」
そう、ここは密室である。そんな中で異性と二人きり。意識しない方がおかしいだろう。
「いいから! こっちきて!」
そう言って、渚は俺の腕を掴み、半ば強引に隣へと座らせた。俺は、渚に自分が緊張していることを悟られないように必死であった。
手のひらは汗でじんわりと湿り気を帯び、体温はわずかながら上昇しているのを感じた。顔は紅潮していないだろうか、一抹の不安を抱きながら渚の方を見る。
すると、俺を傍に置いて満足したのか、手元で機械を操作していた。
「それはなにをする機械なんだ?」
どうやら液晶がタッチパネル式のリモコンのようなものだということは見てわかった。
「もしかして、カラオケ来たことない……?」
「ああ、実はな。申し訳ない」
「いやいや、全然謝ることじゃないよ! そうそうこれはね、歌いたい曲を検索して選曲できる優れものなんだよ~」
渚は、そのリモコンを駆使して曲を探し出しているようだ。
「三条くんが初めてなら、トップバッターは私でいいかな?」
「そうしてくれると助かる」
「では、聴いてくださいっ! いや~緊張するなぁ~」
間もなく、曲のイントロが流れてきた。渚は、軽快な音楽に合わせて身体を小刻みに揺らす。ノリノリだ。
俺は、最近の流行に疎いばかりか、音楽を聴くという習慣がほとんどない。本は好きで読むため、知識として曲名を知ってはいたりするのだが、実際にどんなものかはわからないことが多い。
恐らく、流行りのグループの楽曲なのだろう、という認識しかない。カラオケというものは、こんな俺でも楽しめるものなのだろうか。
イントロが終わり、渚がすうっと深く息を吸う。
次の瞬間、俺の身体にまるで雷が落ちたかのような衝撃が走った。
渚の可憐な姿には似つかわしくない歌声。
端的に言えば──音痴。
渚は歌が驚くほど下手だったのだ。
俺が言えた話ではないのは理解しているが、これは一般的に言っても低水準だと言っても差支えない、そういう次元である。
渚の欠点を思いがけず垣間見てしまったが……何故だかそこが可愛らしくも思えてくる。やはり、渚は不思議な魅力を持つ人なのだなと改めて思わされる出来事だった。