8話
俺は、かつてないほどに緊張していた。初めて握るマイクの感触。
無機質な冷たい感覚が、俺の不安を加速させていく。
目の前には期待の眼差しを浮かべた渚。
正直に言おう。めちゃくちゃ帰りたい。やめろ、俺のことをそんな目で見るんじゃない。
イントロが始まり、曲名が表示された。
「!!」
俺はスッと息を吸い、最初の一声に力を込めた。渚は――――
既に笑っていた。涙を浮かべている。
勝った。俺はこの賭けに勝利したのだ。あとは最後まで歌いきるだけだ。
俺が選んだ曲は「ぞうさん」。童謡である。
音楽を知らない俺でも、こういった童謡なら歌える。音楽の時間に歌わされていたからな。
懸念材料は、渚の反応だけだった。しかし、それも問題ない。不安はみるみるうちに消えていった。
果たして、俺は見事にぞうさんを歌いきった。まさか、人前で歌うことがこんなに気持ちいいことだとは、思いもしなかった。
「三条くん、本当に面白いね!まさかぞうさん歌うなんて。しかも、すっごい清々しい顔してるし」
「そうだな。はじめはめちゃくちゃ緊張したけど、歌ってみたらなかなかいいものだな」
「歌ったのはぞうさんだけどね?」
「俺にとってはこれが最高の一手だったんだよ。完全に出オチだし、もう童謡は歌わないからな」
これは俺の本音である。さすがに聞いている方も童謡ばかり歌われたら動揺するはずである。
完全にお役御免で、俺の出番は終わりであると、たかをくくっていたのだ。
しかし、そう簡単にいかないのが渚である。
「もっと歌ってー!!」
そう、この顔だ。ただでさえ大きな眼をさらに見開いて、それを輝かせながら俺を見つめてくる。
しかも、上目遣いで。まぁ、端的に言えば、あざといのだ。この糸魚川渚という女は。
懇願されたら、さすがの俺も応えざるを得ない。ここからは地獄の童謡ラッシュ(間に君が代をはさみつつ)が繰り広げられたのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ひとしきり歌い終わった俺たちは、カラオケボックスを後にすることにした。
渚も歌いたい曲を歌ったり、他愛のない話をして、どうやら満足した様子だ。
俺たちが駅前に着いた頃には頭上にあった眩しい限りの太陽もその姿を消し、街は昼間とはまた違う様子を見せていた。
夜の繁華街は何年振りかわからないが、ここも他所と同じで、一杯引っかけて帰るような仕事帰りのサラリーマンなどでそれなりの活気がある。
人ごみは嫌いだが、不思議とこういう雰囲気は嫌いではないかもしれない。
「お腹すいたね~」
渚は空腹にもだえるような仕草をして言った。確かに、何も口にせず昼からカラオケにいたらお腹が空くのも当然だろう。
「じゃあ、酒でも飲みながら何か食べるか?」
俺は、もうすでに赤い顔をしている会社員の集団に視線を向けながら提案した。
渚は二つ返事で了承してくれた。
そうして、俺はやっと渚の方を向く。
いつもの笑顔がそこにあった。
今日出会ったばかりなのに、こんな言い方はおかしいかもしれないが。
安堵と共に、羞恥で俺も顔を赤くした。
それは、俺が初めて渚に伝えた、もっともらしい提案だったからだ。
身を委ねると言っていた自分はどこへやら、知らず知らずのうちに、渚の魅力に引き込まれていた。
いままで強がっていた自分が、たまらなく可笑しく思えた。
この辺の店は渚がよく知っていて、行きつけの場所があるとのことで、そこで飲むことになった。
時間制限の飲み放題、それにコースでいくつかの料理がついてくるというオーソドックスなメニューを注文する。
大学の人間との交流が深いのもあって、渚はかなり酒が強いようだった。
俺も弱くはないと自負してはいたが、途中でウーロン茶に切り替え、時間いっぱいまでしのぎ切った。
その間は、俺の大学生活や渚の日常生活についての詳細で話が進んだ。渚は俺のことを打てば響くと評したが、それは間違いだろう。渚の持前のものがあってこそだ。
時間というものは、楽しいときはあっという間に過ぎるというが、それを今日は実感した。
飲み放題の時間が終わると、終電の時間が近づいていた。
「終電急がないと!あと5分で駅に着くかな?」
「一か八か、走るしかないな」
時刻は23時を過ぎたあたり、郊外に向かう電車は早々になくなってしまう。
この終電を逃すと、もう大学周辺にある自宅まで行く手だてがなくなる。絶対に間に合わなくてはならないのだ。
俺たちは繁華街の中を駆けた。こんなことなら、少し早く店を出るべきだったと後悔する。
渚は――――?
俺は急ぐあまり、渚を遥か後方に置いてきてしまったことに気付く。急いで踵を返し、渚のもとへ向かう。
そして、俺は彼女の手を掴んだ。離れないように。
今度はもう、渚の顔は見れなかった。




