9話
「今日一日だけ!お願い!」
彼女はそう言った。俺も、今日だけという「条件」があったから、彼女の提案を受け入れた。
だが、俺がいま取った行動は何だ? 理解が追いつかない。
咄嗟の行動だった。考えるよりも早く、行動していた。しかし、自らの行動について深く考えているほど、時間に余裕はない。
それに、この手を離したら、今日はもう一緒には帰れない。お互い、様々な手段を講じて帰宅するか、始発まで駅前で待つ、ということになるだろう。
いずれにしても、日付が変わってしまうのは必至である。それが怖いのだ。
今日という一日が終わってしまえば、この友達という「魔法」は解ける。それからは他人同士だ。もう、お互いに交じりあうことは決してないだろう。それは、もとから承知していたことではあるのだが。
それにもかかわらず、俺は渚との関係を終わらせたくないと思っている。
俺は明日も、その先も友達でいたい。
こんな一日限りの「ごっこ」などではなく、一人の友達として。
いま俺がとった行動とはつまり、一緒に帰ることで「少しでも長く一緒にいる」という意味を持っていたのだ。
しかし、こんなことになるなら、最初から断っておくべきだった。友達など必要なかったはずだろう。あのとき、友達ごっこなんて、と一笑に付していれば。
そう、この繋がりも、きっといつかは消えてしまうのだから。そう考えたら、最初からなかった方がましだ。こんな風に悩まずとも済む。
頭では思っていても、体は自らの感情に対して、素直であった。
「三条くん……どうしたの……?」
渚は、小柄な体を竦めながら、上目がちに俺を見つめている。困惑しているというのが、見てとれた。突然走ってきて手を握られれば誰でも驚くのは当然である。
「とりあえず、電車、間に合わない」
俺は渚の手を握りしめたまま、駅に向かって駆け出す。渚も何も言わずに、ついてきてくれた。
終電の発車時刻まではあと3分。ここから駅までは100mほどであるから、このまま走れば間に合うだろう。
人ごみをかきわけ、改札に滑り込む。ホームに到着したのは、発車のベルが鳴りだした瞬間だった。
果たして、息を切らした二人組は、終電を逃すことなく、無事帰途につくことができた。
終電ということもあり、車内は満員だった。俺はドアの近くで、渚の立つスペースを作ってやる。
この状況もあり、かなり渚との密着度が高い。ふと気が付くと、先刻まで握っていた手は、自然と離れていた。
息を整え、上下に揺れる肩も落ち着いてきた頃、渚が小さな声で「あぶなかったね」と苦笑いを浮かべて言った。彼女の息は、あがったままだった。
「さっきは夢中で……その、突然手を握ったりして申し訳なかった」
「いや、そうしなかったら間に合わなかっただろうし、全然いいよ」
会話は、それだけだった。目的地に到着するまで、ついぞ言葉を発することがなかったのだ。俺は、店を出たあとから駅のホームまでのこと振り返り、何とも言えない気まずさを感じていた。
渚はどんなことを考えているのだろう。言葉にして確かめてみたいが、俺には出来なかった。気にしていないという様子だが、万が一、不快に感じていたとしたら……。
どちらにせよ、彼女は自らの本心をこの場で打ち明けるようなことはしない、と俺は思う。しかし、この不安をどうやって解消すればよいのだろうか。今後のお互いの関係にも影響が出てくるのではないか? ならば──。
そうした自問自答を繰り返し、頭の内でぐるぐると考えを巡らせているうちに、下宿先への最寄り駅へと到着していたのだ。
渚の話では、俺の自宅とそう遠くない場所に彼女の家があるのだそうだ。方向も一緒だったため、そこまで送っていくことにした。
5分程度だろうか。他愛のない会話を繰り広げていると、渚の自宅の前に着いていた。電車の中では無言を貫き通してしまった俺だったが、この数分間は不思議と会話することができた。
なるほど、距離感なのだな、と思う。こうして肩の触れない程度の距離で並んで歩く。これがそのまま、俺と渚の「心の距離」なのだ。
先ほどの満員電車は、お互いの距離が近すぎた。そんな状況で話せるほど、まだお互いに心を開いていないのだろう。
だが、いつの日か、お互いの心に最も寄り添える間柄になれるとしたら。
俺は────。
「今日はありがとう。本当に楽しかった。翼くんは本当に面白い人だね」
渚がこちらに振り返り、そう告げる。今日は、これでお別れだ。渚の一日を総括する言葉から感じた。
「ああ、俺も楽しかったよ。ありがとう。大学に入ってから、今日が一番楽しかったかもな」
「本当に? それは言い過ぎなんじゃないかなぁ?」
「いや、本当だよ。なんせ、俺は一緒に遊ぶトモダチが一人もいないんだからな」
俺は、これまでの現実とともに、率直な感想を述べた。そう、渚と一日一緒に過ごして、俺は楽しかったのだ。本当に感謝するしかない。
「でも──これからはお前がいる。それじゃ、また明日な」
今日はこれでお終い。でも、また明日会えるんだ。これで終わりじゃない。
いや、待てよ? 何か忘れてないか?
「明日」?
違う。俺と渚は──。
「明日なんて、ないんだよ」
渚は、冷たく、吐き捨てるかのように言った。