四話 濁流の中。真夜中。差しのべられた、手。
「我が名において、汝、レダを、神に仕えるものとして祝福する」
ウェルズ侯爵のもとから戻ったレダに、クリフトン司祭は洗礼を与えた。
何の後ろ盾もなく王都へ行く彼女に、せめてヴァルスタン王国の国教であるエルゼイン聖教の守りを与えたかった。
洗礼の儀式を終えると、修道女として黒一色の衣装を身にまとったレダに、クリフトン司祭が言った。
「残念ながら私の名だけでは、修道女にするのがせいいっぱいです。本来ならば、あなたは助祭となってもおかしくはない活躍をしたのですが」
クリフトン司祭はレダから神託を受けたと聞いた日、エルゼイン聖教本山へ、彼女を保護するために助祭としての洗礼を与えてほしいという手紙を送っていた。
しかし彼の名で与えられる範囲での保護は許されたが、三人の司祭からの祝福が必要となる“助祭”とするには当たらないと却下され、結局、レダに修道女としての洗礼しか与えられないことに落胆していた。
一方、レダにとっては修道女だろうと助祭だろうと、何も変わりはしない。
偽りの神剣でクリフトン司祭をだましていることが今でさえ苦しいのに、過剰に何かをしてもらっては、その苦しみが重くなるばかりだ。
レダは首を横に振り、じゅうぶんですとちいさな声で答えた。
「ありがとうございます、クリフトン司祭さま」
深く礼をして感謝しながら、どこかで冷静に考えていた。
助祭には当たらずとも、修道女とすることに反対はせず。
エルゼイン聖教はこの『剣の聖女』に対し、ひとまずは様子見の姿勢をとるようだ。
真偽について、上層部はどのような会話をかわしているのだろう。
結論が出ないための見送りか、とりあげて議論すべきことではない些事であると見過ごされているのか。
あるいはグランベルクが何らかの影響を与えているのか……
ともかく、“神の名を騙る背徳者”として即刻処刑されるような状況でないとわかったのは、朗報だ。
このまま可能な限り目立たないようにして、グランベルクの元へ行こう。
そして、その後はレダに任せる。
けれど。
(ああ、レダ。グランベルクを殺せば、確かに彼からは解放されるかもしれない。
けれど王子を殺して、その後は……
その後は、どうするの……?)
自分はどうすることもできない。
だから何も望まず、何も言わない。
そう決めたのに、時折ふと、美和子はたまらない恐怖におそわれた。
嵐の中、濁流にのまれ、何もできずにながされていくような心地だった。
未来どころか現在の己の立ち位置さえ確かなことがわからず、ただ怖かった。
けれど、自分には何を言う資格もないのだという思いはずっしりと重く、ロイドとミシェルの最期の姿が瞼の裏に焼きついて忘れられず。
心の奥底でまどろむ金の髪の少女に、それを問うことはできなかった。
◆×◆×◆×◆
疲れきって孤児院の大部屋で眠るレダが、ふいの冷気で目覚めたのは真夜中のことだった。
二度の逃走を眠っている間に阻まれ、また一度悪夢のようにグランベルクが現れてから、レダのもともと深くなかった眠りは、さらに浅くなっている。
安心して眠れる場所などどこにもないのだと、本能にすりこまれたために。
「レダ」
低い声に名を呼ばれる前に、黄金の髪の少女は獣のような動作でベッドから降り、距離をとった。
暗闇の中で青い目が殺気に満ちて青年を睨む。
「なにをしにきた」
心の奥底で恐怖にふるえる美和子にかまわず、数日ぶりに目を覚まして体の主導権をとったレダは、この手に刃があればいいのにと痛切に思った。
あの黄金の剣は強いけれど、とても強いけれど、この男を殺すことだけができない。
ただの刃物で彼を殺せるとも思えなかったが、ともかく武器が欲しい。
戦うための術が欲しい。
お前を殺したいのだと全身で語る黄金の髪の少女を、どこか満足げに紅の目に映し、グランベルクは淡々と言った。
「剣の鞘を与えに。そしてあの剣の、名を教えに来た」
「……つるぎの、な?」
武器に名前があるなどとは思ったこともなく、レダはいぶかしげな顔をした。
グランベルクはレダの様子などかけらもかまわず告げる。
「イーリス」
名を呼べば、剣はお前の手元に現れる。
鞘へおさめれば、お前以外の者でも触れられるようになるが、抜くことはできない。
「よく覚えておけ」
レダは無言で聞いていた。
そして待っていたが、続く言葉はなかった。
それだけか、とレダは忌々しく思ったが、唐突に響いた声にびくりとした。
「れだ」
いつの間にかメメリーが起きて、不安そうにレダとグランベルクを見ていた。
(なぜ? 他の誰も起きないのに、どうして!)
心の奥底で叫ぶ美和子につき動かされ、鋭い口調でレダが呼んだ。
「おいで、めめりー」
銀の髪の少女はベッドから降りて、言われるままレダの元へ行こうとした。
そこへ、今度は低い声が告げる。
「レダはお前を連れて行かんぞ」
メメリーの足が止まった。
グランベルクはたたみかけるように言う。
「レダはお前を置いて行く。何度も言われただろう? 連れて行くことはできないと」
メメリーはその場に止まったまま、何の表情もなく答えた。
「めめりー、れだと、いっしょ」
「それはお前の望みだ。レダの望みではない」
低い声が切り捨てるように言って、続けた。
「なぜレダがお前を連れて行こうとしないのか、わかるか?
簡単なことだ。お前は弱い。己の身すら守れんほどに弱い。
それゆえに、レダはお前を連れては行かん」
銀の髪にふちどられた幼い顔の中で、青い目が細められた。
暗闇の中で己の望みを否定する男の顔を、しかと見定めるために。
その特異な目で、邪魔者の急所をとらえるために。
グランベルクはそんな視線にはまるで無頓着に、黙り込んだメメリーへ手を差しのべた。
「俺と来い、メメリー。今この手をとるのなら、レダとともに行くための力を与えてやる」




