3. あの子に免じて、今回だけ助けてあげる
──金曜日になった。
昨日も今日も、隣の席の主は不在だ。
体調不良という話だけど、古川さんと水曜に文知摺観音で会ったときは、そこまで調子悪そうな感じじゃなかったはずだ。いや、確かに途中で、急に様子がおかしくなったりはしたけど……。
授業時間になっても俺は集中できずに、あのときの自分と彼女の振る舞いを、頭の中で何度も繰り返していた。
知らず知らずのうちに、何かやらかしてたんだろうか。一昨日の夜に送ったメッセージに、いつまで経っても既読がつかないのも気がかりだ。それほど遅い時間でもなかったはずなのに。
昼食中も宏樹に「お前、大丈夫か?」と心配されるような上の空状態だった俺は、最後の手段を取ることにした。古川さんからなにか聞いてないか、五十嵐さんに確認してみよう。
昼食を終えた俺は二年八組のクラスに向かい、五十嵐さんを探す。
そういえば高校に入ってから、彼女のクラスに直接出向くのは初めてだ。高二になったとはいえ、初めてのクラスに足を踏み入れるのはなんだかんだで緊張する。
幸いにも彼女もすでに昼食を終えていたようで、自分の席で静かに本を読んでいた。
「岩崎くん……?」
「ごめん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「わかった」
少し動揺の色を目に浮かべながら承諾した五十嵐さんは、黙って教室の外に歩き出す。
慌てて後を追う俺を彼女はそのまま昇降口に誘い、校外に出た。「ちょっと?」「どこ行くの?」と声をかけても返事をせず、彼女は黙ったまま、どんどんと先に進む。
五十嵐さんがようやく立ち止まって俺の方を振り向いたのは、学校から歩いて数分のところにある、東北新幹線の高架下、人の姿もまばらな公園スペースに到着してからだった。
「それで、なに?」
「いや、その……」
古川さんのことで混乱している上に、五十嵐さんがどうしてこんな場所まで俺を連れてきたのかの意図をつかめず、俺の頭の中は混乱する一方だ。
どう切り出すのが適当なのかわからないまま、俺はとにかく自分の用件を伝えようとする。
「実は、古川さんのことなんだけど」
「智佳がどうかしたの?」
「昨日、今日と欠席してる。学校には体調不良って連絡入ってるんだけど、ちょっと妙なんだ。五十嵐さんなら、なにか聞いてないかと思って」
「特になにも聞いてないけど、今日も? 昨日も今日も朝の待ち合わせ時間になっても来なかったから、先に行ってたのよ」
そう言って、五十嵐さんは少し首をかしげる。
「昨日はオケの練習にも来なかったから、家に帰ってから連絡は入れてみたんだけど。バッテリー切れなのか、スマホにかけてもつながらなかったし」
「そうだったんだ……」
「でも、そんなに大騒ぎするほどのこと?」
女の子だし、調子悪いときだってあることくらいわかるでしょ? とでも言いたげな視線を浴びて、俺は冷静さを若干取り戻した。普通に調子悪いのかな。俺の考えすぎ、か。
黙ってしまった俺を見て、五十嵐さんは軽い溜息をつく。
「なにかあったの? 一昨日は文知摺観音の掃除で一緒だったんじゃないの?」
「ああ、いつも通りだった」
なんで五十嵐さんがそんなことまで把握してるんだよと思いつつも、いや、待てよ? と俺は少し考え直す。
「言われてみれば、なんか最初の様子がおかしかったような気がする。俺、今週は月曜からいろいろ用事あってずっと学校休んでて、一昨日は文知摺観音に直接行ったんだよ。放課後に」
「それで?」
「親の転勤が決まったけど、俺は残れることになったって説明して。あとは、いつもみたいな馬鹿話」
「そう、残れることになったんだ」
「成績条件付きだけどね」
表情を心持ち緩めた五十嵐さんを見て、彼女も俺の残留を喜んでくれるのかと嬉しくなる。
「なにか余計なことでも言ったんじゃないの?」
「いや、頭の中で何回も振り返ってみたけど、心当たりないんだ。確かに話してるときの古川さんのテンション、少しおかしかったような気もしないでもなかったけど」
「本当に余計なこと言ってない?」
「そういえば……成績条件から勉強会の話につながって、その辺から様子がおかしくなったような気もする」
会話は、ここで止まった。五十嵐さんは視線だけを横に向けて、何かを考えている。
しばらく経って、五十嵐さんが切り出した。俺と視線を合わせないままで。
「用事はそれだけ?」
「え?」
「あの子が心配、なにか聞いてないかって」
「あ、ああ」
これまでに見たことがないような目で、彼女が俺を見た。
怒り、悲しみ、悔しさ、そして諦め。さまざまな感情が入り混じった、刺すように冷たい、それでいて心に秘めた感情がちょっとした衝撃で溢れ出してしまいそうな、なにかを切実に訴える視線。
「あの子に免じて、今回だけ助けてあげる」
「は?」
表情こそ、いつもと変わらない。
それでも、そんな目をした五十嵐さんを見るのは初めてで、そして女の子の心の機微に疎かった俺は、彼女の心中を思いやることがまったくできなかった。俺にとって、大切な人のはずなのに。
そんな俺の反応に呆れたのか、目に湛えていた感情が溢れ出したような表情で、五十嵐さんは絞り出すような声を出す。両方のこぶしを握りしめ、全身を震わせながら。
「私だって……! 本当は、私だって!!」
何かを必死にこらえているような数秒が過ぎ、五十嵐さんが大きく息を吸ってなにかを言いかけようとした瞬間、東北新幹線が信夫山トンネルから飛び出してきた。
周囲の空気を切り裂く車両の通過音と振動が、高架下にいる俺たちのところにまで響く。
五十嵐さんはタイミングの悪さを自嘲するような笑みを薄く浮かべ、なにかを呟くように口を動かした。
……ように見えたのだけれど、俺には何も聞き取れなかった。いや、最初から聞き取らせるつもりなんて、なかったのかもしれない。
新幹線が通過して、公園スペースには元の静寂が戻った。
なにか言わなければと焦った俺は「あの」と口に出したものの、そのあとがどうしてもつなげられない。
そんな俺と視線を合わせたくないのか、五十嵐さんは黙って自分の靴のつま先を見るように俯き、しばらくして俺に背中を向けた。
「悪いけど、先に戻って」
「五十嵐さん?」
いつもの冷静な中に暖かさを感じさせる彼女の声とは違って、冷たさだけが伝わってくる。
「授業始まるぞ?」
「いいから」
五十嵐さんの後ろ姿は、これ以上誰の言葉も受け付けるつもりはないとでもいうように、強い拒絶の意志を漲らせているように見えた。




