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2. もう、ここには来ないのかと思ってた

 ──週末の金曜日


 岩崎くんに、なにかあった。


 遅刻ギリギリで登校してきた彼の憔悴した姿を見た瞬間、私にはそれがわかった。


 慌てて教室を見回すと宏樹くんと視線がぶつかり、彼も頷く。やはり同じ結論に達しているみたいだ。


 「おはよう」と声をかけた私に「よう」とだけ答えた岩崎くんは、席に着くと体を机に投げ出して、顔を伏せる。疲れ切っているのか、それとも他人とコミュニケーションをとることを拒否しているのか。


 ホームルーム開始まで、あと三分弱。私は静かに席を離れて、廊下に出た。


「古川、どう思う?」


 少し遅れて廊下に出てきた宏樹くんが、難しい顔で私に尋ねる。


「お父さんの転勤、決まったっぽいね」


「だな。で、どうする?」


「私は……」


 そう口に出してから、実際のところ、なにも考えていなかったことを自覚する。とりあえず、いまの私に言えることはこれくらいだ。


「最終的にどうなるにせよ、岩崎くんが自分で言ってくれるまで待とうと思う」


「ああ。俺もそれがいいと思う」


 でもその日のうちに、岩崎くんの口から事態が説明されることはなかった。




 ──月曜日


 岩崎くんは学校を休み、翌日も、そしてその翌日も学校に姿を見せなかった。




 ──水曜日の夕方


 もちずり石の前で、私は座り込んでいた。山麓の林の静けさの中、どこか遠くで鳴いている鳥の声だけが聞こえる。


 普段なら彼と一緒に、ここで定例の掃除をしている時間だ。でも、彼はあの様子がおかしかった先週の金曜以来、学校を欠席し続けている。


 どうしたんだろう。


 悩んでるのかな、言い出せないのかな。


 このままお別れなのかな。


 やっぱり私の存在なんて、たいした意味はなかったのかな。


 私はいったいどうしたかったんだろう? 彼とどうなりたかったんだろう?


 わからない。わからない。わからない……。


「どうでもいいや」


 ポロリと口から出た自分の言葉に唖然として、否定するように私は強く首を振った。


 そのまま目をぎゅっと瞑ると、我慢していた涙が溢れ出てくる。ここ数日、学校の外では、私は泣いてばかりだ。




 ようやく涙がおさまってハンカチで目尻を拭っていると、背後からこちらに向かってくる足音が聞こえる。


 こんなところで知り合いに会うわけはないんだけど、私はいまきっと他人に見せられないような、酷い顔をしているに違いない。だから顔を合わせないよう、明後日の方に顔を向けながら遠回りして走り去ろうとして──。


「古川さん?」


 現れたのは、予想もしていなかった人物だった。


「岩崎くん……なの?」


 私はつい振り向こうとして、慌てて思いとどまる。ダメ、岩崎くんには、いまの顔を見せたくない。


「ごめん、遅れて」


「もう、ここには来ないのかと思ってた」


 彼の方を振り向かずに、私は声だけで返事をする。


「連絡できなくて悪かったよ。メッセージ送っても良かったんだけど、古川さんには自分の言葉で伝えたかったから」




 私は息を飲んで、覚悟を決めた。


 つまり彼は、これから口にすることのためだけに、わざわざここまで来てくれたんだ。だから彼がなにを言ったとしても、黙ってそれを受け入れよう。


「えっと、その……話すと長くなるんだけど。結論から言うと、来月から親が首都圏へ異動することになった」


 やっぱり。


 また涙が溢れそうになるのを必死でこらえて、目をつぶって俯き、歯を食い縛る。


「でも、俺はこっちに残れることになった」


 なにか信じられないような言葉を聞いた気がして、私は思わず目を大きく見開いた。そして酷い顔をしていることを忘れて、岩崎君の方を振り返る。


「転校ばかりで、入学から卒業まで同じ学校で過ごした経験がないまま終わるのは嫌だ。まだこの街で過ごしたい。残りの高校生活も古川さんや、みんなと一緒に送りたい」


 そうやって金曜の夜、子供みたいにゴネたんだよ、結構大変だったけどな、と岩崎くんは苦笑いを浮かべて話す。


 その表情を見ているうちに、こらえようとしていた涙がまたじわじわとにじみ始めて、あっという間に決壊した。恥ずかしいしみっともないから声は出さないようしていたつもりだったけど、我慢できていたかどうかは自信がない。


「東京の中高一貫の女子校に通いたがってた妹には良いタイミングだったんだろうけど、俺はどうなんだって。実のところ、親も気にしていたみたいでさ」


 岩崎くんの話は続いている。


 ──今住んでるマンションに単身者用の空き部屋があることがわかって、そこを押さえてもらえることになった。だから同じ建物の三階から二階に引越。


 それで、一人暮らしするならそういうのも全部自分でやらないとダメだ、初めが肝心だからって言ってさ。週が明けてからは契約やら手続きやら必要な家具揃えなきゃやらで、親と一緒にあちこち回ってて、学校どころじゃなかったんだよ。


 ただし、こっちに残れるってのも無条件ってわけじゃなくて、余計なカネ使わせるんだから大学受験は国公立専願、それに成績下がるようなら強制的に自宅送還って条件はついてる。でもこんなご時世で、高校時代から一人暮らしさせてくれるなんてすごく恵まれた話だから、親にはものすごく感謝してる。


 話を聞きながら、私は黙って頷くことしかできなかった。何か言葉を出そうとすると、心の中に溜めていたものが全部、涙とともに溢れ出してしまいそうだったから。




 結局その日は、掃除にならなかった。


 岩崎くんがいろいろと話を振ってくれても、私は「うん」って頷くことしかできなくて。だからきっと、岩崎くんには変な女って思われたに違いない。


 それでも、少なくともあと一年半(もちろん来年も同じクラスである保証はないのだけれど)一緒に居られることがわかって、私は幸せだった。




 いつまでもみっともない顔を見せてるのも恥ずかしい。


 私は涙を拭いて、いつものペースで岩崎くんを茶化そうとする。


「成績条件なんてさ、夏休みのときみたいに、定期的に勉強会をやれば大丈夫だよ!」


「またあの地獄を味わうのかよ……」


「自宅送還よりはマシでしょ?」


「そりゃそうだけどさ……」


 あれ? 勉強会?


 勉強会という言葉を口に出した途端、幸せだったはずの私の心に、影が差した。


 あのとき由希を見つめていた、岩崎くんの表情を思い出す。そして、由希の気持ちも。


 岩崎くんが一人暮らしをしてでもこの街に留まることを選んだのは、由希と一緒にいたいからじゃないの?


 ひょっとして由希がおそらく大学進学でもこの街から出られないことをどこからか(もしかして由希本人から)聞いて、それなら少しでも長く……と考えたんじゃ?


 そう、別に私と一緒にいたいから、と彼は一言も言っていない。


 そんなことはわかっていたのに、わかっているのに。一緒にいられる期間が延びるってだけで、それだけでも十分幸せなはずなのに。


 それなのに彼の笑顔を見ているうちに、私は、私は勝手に期待して……!




「古川さん、どうしたの?」


 急に黙りこくってしまった私を心配してか、労わるように優しく尋ねてくる彼の視線に、私は耐えられなかった。


「なんか今週、体調悪くて。今日はもう帰るね」


 岩崎くんから視線を外して、嘘をついた。彼にだけは嘘なんかつきたくないのに。


「じゃあゆっくり休まないと。また明日な」


 そう言って明るく手を振った彼は、私を見送ってから自転車で帰って行った。


 嬉しかったはずなのに、力がまるで湧いてこない。重石が括り付けられたように、身体が、心が、無言の悲鳴を上げている。




 私はその週の残り、学校を休んだ。


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